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キリシタン殉教記念公園(葛木)

キリシタン殉教記念公園

大分県キリシタン殉教記念碑(北村西望氏作)
大友宗麟の保護を受けた豊後のキリシタン教界は発展を続け、1585年のキリシタンの数は3万人を超えたと報告されている。しかし、宗麟亡き後、次第にその教勢を失っていき、さらに長男吉統の改易と追放によって大友領地は天領や7つの小藩に分断され、各藩主はそれぞれキリシタン弾圧に乗り出した。
ここ葛木地区には多くのキリシタンがおり、1600年以降も豊後のキリシタン教界の中心の一つであった。キリシタン殉教記念公園があるこの場所は、通称「獄門原」と呼ばれ、多くの殉教者の血が流されたと言われている。しかし、特にこの葛木の名を知らしめたのは、1660年に起こった「豊後崩れ」である。500名以上の潜伏キリシタンが検挙され、多数の殉教者を出した。
1970年、大分県下の殉教者たちを追悼するため、大分県キリシタン史跡顕彰会の手によって日本庭園風のこの公園が造られた。

豊後崩れ

1660年から1682年にかけて起こったキリシタン検挙事件。
1657年に起こった大村藩の「郡崩れ」により、新たに宗門改役に就任した北条安房守政房は、諸大名へ宗門改めを厳しく行うよう命じた。1660年、葛木村の平右衛門がキリシタンの科で訴えられ、これを詮索するうちに芋づる式に多くのキリシタンの摘発が続いた。豊後国大分郡と玖珠郡では220名のキリシタンが検挙され、長崎へと送られた。そのうち、長崎での死罪者は57名、長崎や日田での在牢者は36名であった。
この葛木村からは12歳の少女から87歳の老翁までの92名が検挙された。そのうち、長崎で死罪となった者27名、長崎や日田で牢死した者23名、江戸送りとなった者2名、病死1名、1686年時点で長崎や日田の牢屋にいる者7名である。葛木村は天領、臼杵領、竹田領、肥後領、延岡領に分類されていたため特に監視の目が厳しかったのと同時に、この土地にキリシタンが多く、またキリシタン教界の中心地でもあったことがこのような厳しい弾圧を引き起こした。

キリシタン殉教公園

公園入口にこの表示がある
道路に面した部分、左手に駐車場がある
入り口から進んでいくとこのようになっている
日本庭園風になっている

キリシタン殉教記念公園へのアクセス

大分市大字葛木南原352

車で大分市街地から車で約20分。JR大分駅前から県道21号線、明野、臼杵方面へ7kmほど行った道路脇、左手にある。
 
駐車場:普通車・大型車可
 トイレ:無
 
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