重岡キリシタン墓(るいさの墓)
重岡キリシタン墓
「るいさ」の墓
凝灰岩でできたこの墓は、「るいさの墓」とも呼ばれる。墓碑の長さは180㎝、幅86㎝、軸部の高さ27㎝の平型の伏墓で、県下で最大のキリシタン墓である。上面の奥の方に直径29㎝の円の中に十字架が平彫りされており、正面軸部の中央に「るいさ」という洗礼名が、その右側に「元和五年」、左側に「正月廿二日」と没年が刻まれている。墓の大きさはもちろん、このようにはっきりと十字章、洗礼名、没年月日読み取れるキリシタン墓は他にはないため、その史跡価値は高く、県指定の史跡となっている。
大正の初め、杉の植樹をしていた渡辺家当主が偶然地中に埋まっていたこの墓を発見したが、その異様さに祟りを恐れて埋め戻したという話を頼りに、1956年に渡辺由忠氏が掘り起こしたのである。
大分市中心部からはかなり離れた場所にあるので、時間に余裕のある方にお勧めしたい。
「るいさ」とは
墓碑に記されている「るいさ」とは人の名前ではなく、洗礼名であろう。おそらく、ルイザ(Luisa)ではないかと思われる。
さて、この「るいさ」なる人物がだれであるかについては、まだ、はっきりとはしていない。半田康夫氏は「渡辺氏系書草案」や渡辺家の位碑等から、岡藩士であった渡辺輿吉郎の娘で、当地梅の渡辺善左衛門重福の妻となった女性ではないかと推察している。同氏によると、彼女の正確な名前は分かっていないが、渡辺家に嫁いでから二人の子を出産した後、1619年(元和五年)に30歳前後で亡くなったようである。これは墓碑に記された没年と重なる。
彼女の出身地である岡藩は、1585年にパウロの洗礼名でキリシタンとなった領主志賀親次の保護のもとでキリシタンが栄えた地である。教会が建てられ、家臣たちの受洗が相次いだ。彼女の父がキリシタンであった可能性は高い。志賀氏に代わって1594年に岡藩士となった中川秀成もキリスト教に好意的であった。このようなことから、彼女はキリスト教が盛んであった地で幼少期を過ごしたと考えられる。一方、嫁ぎ先の宇目も岡藩に属しており、当然のことながら、多くのキリシタンがいたと考えられる。実際に、1627年に殉教者がでていることからも、そのことがうかがえる。
以上のことから、「るいさ」がこの女性である可能性は否定できないだろう。
重岡キリシタン墓の説明文
重岡キリシタン墓
大分県指定史跡
大分県指定史跡
昭和34年3月20日指定
大字重岡字重岡
この墓碑は凝灰岩の平型の伏墓で、長さ180センチ、幅86センチ、高さは軸部で27センチ、両端は22センチという巨大なものである。上面の後部よりには日輪十字章(日輪の直系29センチ)が刻まれ、正面軸部中央部に「るいさ」という洗礼名を、その左右に「元和五年」「五月廿二日」という歿年月日が陰刻されている。日輪十字章の下に6センチ×8センチほどの矩形の穴があるが、これは何のために造られたかはわかっていない。
豊後には多数のキリシタン墓が残存しているが、この墓碑のように日輪十字章、洗礼名、歿年月日のそろっているものはないであろう。又大きさも県下で最大であると共に、長崎県下にあるキリシタン墓碑の多くをはるかにしのいでいる。
この「るいさの墓」は大正の初期、渡辺家の当主が杉の植林をしていたところ、偶然に地中深く埋まっていたこの墓碑を発見した。しかし彼は今まで見たことがないこの異様な形をした墓碑に驚き、たたりを恐れて土で覆ってしまった。
それから40数年が過ぎたころ、時の当主は父と共に植林をしていた子供の頃の記憶をたどり、あれはキリシタンの墓ではなかろうかと思いながら再び発掘し、世の注目を浴びるに至った。
この墓碑はもともと地上にあったが、幕府のキリシタン禁教令布告後、弾圧が強化され迫害が激しくなったので、一族の者がキリシタンであることが発覚するのを恐れて地中深く埋めたものであろう。
「岡」といえば天正年間にキリシタンの志賀親次が領主であり同宗門が栄えたところで、天正16年(1588年)ごろ志賀氏の領内にはおよそ8,000人のキリシタンがいたとある。(耶蘇会日本年報)こうした状況からこの宇目郷にも志賀氏の出城である皿内砦、悪所ない砦などがあり、その関連性が深いことからも事実であろう。又宇目郷には親次の祖父親守が居住しており同じく岡はんに屈していたから、この宇目郷にキリシタンがいても不思議ではなかろう。
これから推測すると、志賀氏滅亡のあと文禄3年(1594年)竹田に入部した中川秀成も、当初はキリスト教を保護し、慶長17年当時岡にはまだ伝道所があったほどである。ルイザはこうした竹田の地で天正18年頃生まれたと思われるが、その少女時代はキリスト教の華やかな時代であった。この娘が宇目郷割元役に嫁いできたことは大いに有りうることであり、夫の享年から推測すると、元和5年に歿した「るいさ」を岡藩士渡辺輿吉郎の娘と断定しても矛盾しないであろう。
豊後には「ルイザ」の洗礼名をもった婦人は外にもいたかもしれないので、この短い記録から彼女の墓碑の「るいさ」と同一人と断定するわけではないが、洗礼名を同じくするほか、年代的にも合致するし、当時の書事情も渡辺輿吉郎の娘と矛盾しないので注目に値しよう。
いずれにしても注目には値するが、今後の研究に期待するところが大きい。
宇目町教育委員会
重岡キリシタン墓(るいさの墓への道順)
アクセス
車で大分方面から国道10号線を経て三重町方面へ行き、国道326号線で延岡方面へ行く。途中、宇目町上小野市交差点を左折し、県道39号を6㎞行くと、佐伯消防団付近の信号に案内表示があるので、そこを右折する。3㎞ほど行くと右手にある宇目町消防団の建物の向かいに入口の案内表示がある。車を降りて、徒歩で100mほど坂を登っていったところに墓がある。
所在地:大字重岡字重岡
駐車場:無(道路脇への駐車は短時間で)
トイレ:無
注意:夏場は虫よけ対策が必要。雨天時は足元が悪いので、気を付けること。