下藤地区キリシタン墓地
下藤地区キリシタン墓地
常珎の墓
豊後の最初の殉教者の一人であるジョウチン(常珎)の墓とされるもので、長さ59㎝、幅52.5㎝、正面軸部の高さ47㎝のカマボコ型の伏墓 である。正面上部の直径23㎝の円の中にギリシア十字架が見られる。その下にうっすらと「常珎」という文字を読み取ることができる。右側にも漢字の一部ら しいもの(「歳」という字のハネではないか)が彫られている。いろいろなキリシタン墓碑の刻印の事例等から、おそらく右側には「生年」、左側は「○○歳」 と享年を記していたのではないかと推測される。
この常珎の墓碑は山手の崖下にあったものが1957年に青山巌氏によって発見された。長い間風雨にさらされていたためか、かなり摩滅したり欠落したりしている。
周囲にある屋根型の墓群もキリシタン墓である。
ジョウチンとは?
フロイスは『日本史』の中で、ジョウチンについて、湯布院の古くからのキリシタンであり、刀工であったと記している。宣教師たちが豊後を退去するにあたって、彼に異教徒たちに教理を教え、キリシタンたちを激励するようにと依頼していた。
1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令発布を受け、キリシタンであった大友宗麟の嫡子吉統は信仰を捨て、キリシタン迫害を行った。そして1589年、豊後で最初の殉教者が出る。高田のジョラン一家とジョウチンである。
ジョウチンの殉教について、フロイスの『日本史』の記事で見てみよう。「残忍な国主(吉統)は、ジョウチンが信仰のことで(どれほど)清廉であるかを承知していたので、(先のジョランとともに)二人(とも)亡くなれば(豊後の)キリシタン宗門は没落するに違いないと考えて、ジョウチンも処刑するように命じた。(これより先)国主の一人の家臣は、彼が野津においてキリシタンたちの信仰のことで励ましたり救霊について教えていた時の知己であったが、同人は(ジョウチン)を呼びに来て、偽って戸外に連れ出した。そして(ジョウチンが)心の中で信仰を守りキリシタンの名を弘めているとの科で、彼を殺してしまった。
当初は、冷淡で勇気を欠き信仰を秘していた多くの者たちも、これらの聖なる殉教者の血が罪もなく流されるのに接すると猛然と奮い立ち熱意を取り戻し、公然とコンタツや聖遺物を頸に掛けて現れるようになり異教徒たちはそれを見て驚嘆した。」(フロイス『日本史』8、p310-311)
下藤地区キリシタン墓地への道順
アクセス
磨崖クルスから1㎞ほど進み、A-COOP手前の信号を右折、野津中学校横を通って、吉四六ランドへ向かう。吉四六ランドで曲がらず直進し、道なりに進むと「下藤地区キリシタン墓地」の表示がある。そこから歩いて100mほど行くとキリシタン墓地がある。
駐車場:少数の大型車も可
トイレ:無(吉四六ランドのトイレが最も近い)
注意:雨天時は足元が悪くなるのと、夏場は虫よけ対策が必要