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カトリック教会のお知らせ

「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージ
2024-09-02
2024年9月1日
被造物とともにあって、希望し行動しよう
 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 「被造物とともにあって、希望し行動しよう」が、来る9月1日に祝われる「被造物を大切にする世界祈願日」のテーマです。これは、聖パウロのローマの信徒への手紙8章19−25節から取られています。使徒パウロが、霊に従って生きるとはどういうことかを明らかにし、キリストにおける新たないのちという、信仰による救いへの固い希望に焦点を当てる箇所です。

1.さて、はっきりとは答えられないかもしれませんが、まずは簡単な質問から始めます。わたしたちが真に信じる者だという場合、どのようにして信仰を得るのでしょうか。理性では捉えられない超越的なもの、遥かかなたの、おぼろげな、えもいわれぬ、把握しがたい神の神秘を「信じている」からではありません。むしろ聖パウロがいうように、聖霊がわたしたちの内に住まうからなのです。そうです。わたしたちが信じる者であるのは、まさに「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」からなのです(ローマ5・5)。ですから聖霊は、今も、まことに、「わたしたちがみ国を受け継ぐための保証」(エフェソ1・14)であり、美と善の充満であるイエスの人間性に従って、永遠の宝をつねに求めて生きるように促すのです。聖霊は信じる者を、愛のわざにおいて創造的で積極的にします。信じる者を霊における自由の大いなる旅へと導きますが、そこはこの世の論理と霊の論理――それぞれ相反する実を結びます(ガラテヤ5・16−17参照)――との相克から免れているわけではありません。ご承知のように、霊の第一の実は、他のすべての実の要約である、愛です。ですから聖霊に導かれることで、信者は神の子となり、もはや死の恐怖に陥ることのない者の自由をもって――イエスは死者のうちから復活されたからです――、イエスのように神を「アッバ、父よ」(ローマ8・15)と呼ぶことができるのです。それこそ大いなる希望です。神の愛は勝利を収め、今も勝利していて、これからも永遠に勝利し続けるのです。肉体の死はあろうとも、霊に生きる新しい人にとって、栄光の未来はすでに確たるものなのです。この、希望は欺かないということを、来年の聖年を公布する大勅書も思い出させてくれます1

2.キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です。主の到来(パルーシア)、再臨の「遅れ」は問題ではありません。問うべきは別のこと、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18・8)です。そうです。信仰は贈り物、わたしたちの内なる聖霊の実なのです。けれども同時に、自由意志で、イエスの愛の命令への従順をもって果たすべき務めでもあります。これこそが、わたしたちがあかしすべき恵みの希望です。どこで、いつ、どのようにでしょうか。苦しむ生身の人間の悲劇においてです。夢を見るのであれば、今は、愛、兄弟愛、友情、すべての人のための正義といったヴィジョンから力を得て、開かれた目で夢を見なければなりません。キリスト教が告げる救いは、世界の苦しみ――人間だけでなく宇宙全体、自然そのもの、人間のオイコス(訳注:ギリシア語で「家」の意)、人間の生きる環境に及んでいます――の深みにまで分け入ります。被造界を、すべての人にとっての喜びの場、幸福を約束する場となるべき「地上の楽園」、母なる大地と捉えています。キリスト者の楽観論は、生きた希望に基づいています。すべては神の栄光へ、神の平和の充満たる終わりの日の完成へ、義とされてのからだの復活へ、「栄光から栄光へ」と向かっていると知っているのです。けれどもわたしたちは、進みゆく時間の中で、痛みや苦しみをともにしています。被造物がすべてうめき(ローマ8・19−22参照)、キリスト者がうめき(同23−25節参照)、霊ご自身もうめいておられるのです(同26−27節参照)。うめきの声は、不安や苦しみであるとともに、切実さや強い願いの表れです。うめくことは、聖霊における喜び、愛、平和である、神の計画の実現を見据えての、神への信頼を、そして神の愛深く、多くを期待される寄り添いへの全幅の信頼を表しているのです。

3.被造界全体が、新たに生まれるこうしたプロセスにかかわり、うめきながら、解放を待ち望んでいます。それは、「大木になるからし種」や「生地に混ぜられたパン種」(マタイ13・31−33参照)と同じように成熟する、ひそかな成長です。最初は取るに足らないほどなのに、待ちに待った結末は、限りなくすばらしいものなのです。誕生、すなわち神の子たちの現れを待つのと同じく、希望とは、逆境の最中にも揺るがずにい続ける力であり、苦難のときや、人間の非道さを前にしても、あきらめない力です。キリスト者の希望は欺きませんし、偽りで錯覚させることもしません。被造物、キリスト者、そして霊のうめきが、すでに実現しつつある救いの前表であり期待であるなら、わたしたちは今、聖パウロが「艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」(ローマ8・35参照)と表現する多くの苦しみに浸されているのです。ですから希望とは、歴史や人生のさまざまな出来事を、別の角度から読み解くことです。幻想ではなく現実的で、見えないものを見る信仰のリアリズムです。この希望は、見ずに信じるアブラハムのように、忍耐強く待つというものです。優れた幻視(ヴィジョン)を語る信者であり、ダンテ・アリギエリによれば「預言の霊を賦与された」2人である、カラブリアの修道院長フィオーレのヨアキムが思い出されます。教皇と皇帝の対立、十字軍、異端、教会の世俗化など、血なまぐさい争いが重ねられた時代に、福音を生きたことで実る、普遍的な兄弟愛とキリスト教的平和に基づいた、人々の共生という新たな精神の理想を示しえた人物です。わたしは『兄弟の皆さん』で、こうした社会的友愛と普遍的な兄弟愛の精神を提案しました。そして、人間どうしのこうした調和は被造界へと拡大されるべきで、それは「状況化された人間中心主義(situated anthropocentrism)」(『ラウダーテ・デウム』67参照)のもとにあり、わたしたちがともに暮らす家、またそこに住むわたしたちにとっての救いの道である、人間的で総合的なエコロジーに対する責任を帯びているのです。

4.なぜこの世には、こんなにも悪が存在するのでしょうか。なぜ、これほどの不正義が、子どもたちを死なせ、町を破壊し、人間の生活環境を汚染し、母なる大地を蹂躙し荒廃させる兄弟殺しの争いがあるのでしょうか。アダムの罪に暗に言及しつつ、聖パウロは述べています。「被造物がすべて今日まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ローマ8・22)。キリスト者の道徳的葛藤は、被造物の、「虚無に服している」(20節)がための、うめきと結ばれています。全宇宙とすべての被造物は、現況が打開され本来の状態が回復するよう、「せつなる思いで」うめき、願っています。まさに人間の解放は、人間の状況と連動して奴隷のくびきを負わされている、他の全被造物の解放をも意味します。被造物は、それ自身の罪業ではないのに、人類と同じく隷属状態にあり、本来望まれたこと、すなわち永続的な意味と目的をもつことができずにいます。人間による自然の濫用で劣化し、被造界は消滅と死の危機にさらされているのです。ですがその反面、キリストにおける人間の救いが、被造物にとっても確かな希望なのです。まさに「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれる」(ローマ8・21)のです。ですから、キリストのあがないにおいて、人間と他の全被造物との連帯のきずなが、希望のうちに見えてくるのです。

5.イエスが栄光のうちに到来するのを希望をもって辛抱強く待ち望んでいる信者の共同体を、聖霊は目覚めさせておき、たえず教え、ライフスタイルの転換を促し、人間が引き起こす環境悪化を阻止して、変革の可能性の何よりのあかしとなる社会批評を表明するよう招くのです。この回心は、他者や自然を意のままにし、操作する対象へと貶める者の傲慢さから、他者と被造物をケアする者の謙遜さへの転換を意味します。「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になるのです」(『ラウダーテ・デウム』73)。アダムの罪が、人間が生きる基盤となる関係、すなわち神との関係、自分自身との関係、他の人間との関係、そして万物との関係を壊したからです。これらの関係は、すべて相互作用的に、修復され、救済され、「正常化」されなければなりません。どれか一つが欠けてもだめなのです。一つでも欠ければ、すべてが破綻します。

6.被造物とともにあって、希望し行動するということは、まず第一に力を合わせることであり、善意あるすべての人とともに歩みつつ、「人間の力という問題を、その意味と限界を、あらためて問い直す」べく尽くすことです。「わたしたちの力は、ここ数十年のうちに猛烈な勢いで増大したからです。強烈で圧巻の技術進歩を遂げてきたものの、同時に、多くの生き物の生命とわたしたち自身の生存とを脅かしうる非常に危険な存在になってしまった、ということに気づいてはいません」(『ラウダーテ・デウム』28)。野放しの力は怪物を生み、わたしたち自身に矛先を向けます。ですから今日、AI(人工知能)の開発に倫理的な制約を設けることが急務です。AIは、その計算能力とシミュレーション能力をもって、平和と全人的発展のために用いられずに、人間と自然を支配するために利用されかねないのです(「2024年世界平和の日教皇メッセージ」参照)。

7.「聖霊は人生の間わたしたちとともにいてくださる」。三位一体の主日に重なった第1回世界こどもの日に、サンピエトロ広場に集まった子どもたちは、これをよく理解しました。神とは、無限というような抽象概念ではありません。愛あふれる御父であり、すべての人の友にしてあがない主であられる御子であり、愛の道を行くわたしたちの歩みを導いてくださる聖霊です。愛の霊に従順であれば、人の姿勢はがらりと変わります。つまり園を「略奪する者」から「耕す人」へと変えられるのです。大地は人間にゆだねられていますが、神のものであることに変わりはありません(レビ25・23参照)。これが、ユダヤ・キリスト教の伝統に基づく、神学的人間中心主義です。したがって、自然を所有し、支配し、意のままに操ろうとする思い上がりは、一種の偶像崇拝なのです。傲慢にも、地球を「不遇」な状態、すなわち、神の恵みが奪われた状態に置くのは、自らの技術主義(テクノクラティック)の力に酔いしれた、プロメテウスのような人間です。しかしながら、神の恵みが死んで復活したイエスであるのならば、ベネディクト十六世が語ったことは真実です。「科学は人間をあがなってくれません。人間をあがなうのは愛」(回勅『希望による救い』26)、キリストにおける神の愛であり、何事も、何者も、わたしたちをその愛から引き離すことはできないのです(ローマ8・38−39参照)。己の未来へとたえず引き寄せられているのですから、被造界は静止しているわけでも、それ自体で閉じているわけでもありません。今日、現代物理学による発見のおかげで、物質と精神の結びつきは、いっそう魅力的に理解されるようになっています。

8.それゆえ被造界の保全は、倫理的な問題であるだけでなく、きわめて神学的な問題でもあります。まさに、人間の神秘と神の神秘とによって編まれるものにかかわるからです。この編み物は、神がキリストにおいて人間を創造された、その愛のわざにまでさかのぼるものなので、「創造的」と言い表せます。こうした神の創造する行為が人間に、その自由意志による行動と、あらゆる倫理性とを与え、基礎づけているのです。つまり自由は、イエス・キリストである神の似姿に創造された人間のまさに本性であり、それゆえ人間は、キリストご自身における被造物の「代表者」なのです。キリスト者には、「財貨は万人のためにあるという原理」をも踏まえて、世界で正義と平和を促進する責任を担う、超越的な(神学的・倫理的)動機が存在します。それは、被造物が産みの苦しみにうめくがごとく待ち望んでいる、神の子たちの現れにかかわることなのです。歴史の中にあって、危機に瀕しているのは、人間の地上の生活だけではありません。人間の永遠の未来、祝福された最後の裁きが、つまり、宇宙の主であり、愛ゆえに十字架で死に復活したかた、キリストにおける、わたしたちの平和の楽園が危機にさらされているのです。

9.ですから、被造物とともにあって、希望し行動するということは、受肉した信仰を生きるということです。その信仰は、人々の苦しみつつも希望に満ちた肉体に分け入って、信じる者が主キリストによって約束されている、からだの復活の待望を分かち合うということです。人となった永遠の御子イエスにおいて、わたしたちはまことに御父の子らとされています。信仰と洗礼によって、信者には聖霊に従う生き方が始まります(ローマ8・2参照)。それは、聖なる生き方、イエスのように御父の子どもとして生きることです(ローマ8・14−17参照)。聖霊の力によって、キリストがわたしたちの内に生きておられるからです(ガラテヤ2・20参照)。一つの人生が、神への、人類への、被造物との、そして被造物への、愛の歌となって、そこに聖性の充満があるのです3

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2024年6月27日
フランシスコ
9月の教皇の祈りの意向:地球の叫びのために
2024-08-31

2024年9月は、「地球の叫び」のために、次のように祈る。 

  「私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように」。

 教皇フランシスコは、この意向をめぐり、次のように語られた。

**********

  地球の叫びのために祈りましょう。

 地球の体温を測るならば、熱があることがわかるでしょう。具合が悪い人と同じように、地球も具合が良くないと感じています。

 しかし、わたしたちは地球の苦しみに耳をすませているでしょうか。

 環境災害の何百万という被害者たちの苦しみに耳を傾けているでしょうか。

 こうした災害の影響によって最も苦しんでいるのは、貧しい人たちです。これらの人々は、洪水や、熱波、あるいは干ばつのために、自分の家を離れざるを得ませんでした。

 気候危機や、汚染、生物多様性の喪失など、人間によって引き起こされた環境危機に立ち向かうには、エコロジー的な回答だけでなく、社会的、経済的、政治的な回答をも要求されます。

 わたしたち個人や共同体の習慣を変えながら、貧困との闘い、自然の保護に取り組む必要があります。

    祈りましょう。私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように。

8月の教皇の祈りの意向:政治におけるリーダーのために
2024-08-01

8月の教皇の祈りの意向:政治におけるリーダーのために


 「政治におけるリーダーが、人々への奉仕において、人類として不可欠な成長と公益のために働き、職を失った人々に配慮し、貧しい人々を優先することができますように」教皇フランシスコは、この意向をめぐり、次のように話された。

**********

 今日、政治は、贈収賄、スキャンダル、人々の日常生活からかけ離れていることなど、あまり良い評判を得ていません。

 しかし、良い政治なしに、わたしたちは普遍的な兄弟愛に向かって進歩できるでしょうか?いいえ、できません。

 パウロ6世が言ったように、政治は愛の最も高度な形の一つです。なぜなら、それは公益を追求するからです。

 わたしが言っているのは、大きな意味での政治であり、政治的な駆け引きのことではありません。現実に耳を傾け、貧しい人に奉仕し、長い廊下の大きな建物に閉じ込められない、そういう政治のことです。

 ここで話したいのは、失業者に配慮し、月曜日にまた働きに行けないことが、日曜日にいかに悲しく思われるかをよく知っている政治のことです。

 このように見るならば、政治はもっと貴いものになります。

 権力ではない、奉仕の精神をもって、自身の課題に取り組む多くの政治家たちの、共通善に対するすべての奉仕のために感謝しましょう。

 祈りましょう。政治におけるリーダーが、人々への奉仕において、人類として不可欠な成長と公益のために働き、職を失った人々に配慮し、貧しい人々を優先することができますように。


7月の教皇の祈りの意向:病者への司牧的ケアのために
2024-07-03
教皇フランシスコは、2024年7月の祈りの意向について、ビデオメッセージをよせられた。

 カトリック教会は、毎月、「教皇の祈りの意向」を示し、教会全体が日々の祈りの中で、その意向に基づいて祈るように招いている。

 2024年7月は、「病者への司牧的ケア」のために、次のように祈る。 

 「病者の塗油の秘跡が、それに授かる方とその方の愛する人たちに主の力を与え、誰の目にも共感と希望のしるしとして映し出されますように」。

 教皇フランシスコは、この意向をめぐり、ビデオを通し次のように話された。

********** 

 今月は病者への司牧的ケアのために祈りましょう。

 病者の塗油は、臨終にある人のためだけの秘跡ではありません。これをはっきりさせておくことが重要です。

 司祭が塗油の秘跡のために、ある人に近づく時、それは必ずしもこの世との別れを助けているわけではありません。そう考えるならば、あらゆる希望を失ってしまいます。

 それは司祭の後には葬儀業者がやって来るのだと思い込むことです。

 病者の塗油は、「いやし」と「回復」の秘跡の一つであり、魂をいやすものです。

 ある人が重い病状にある時、病者の塗油を授けることが勧められます。そして、ある人が高齢である場合、病者の塗油を受けるのはよいことです。

 祈りましょう。病者の塗油の秘跡が、それに授かる方とその方の愛する人たちに主の力を与え、誰の目にも共感と希望のしるしとして映し出されますように。

『見よ、それはきわめてよかった――総合的なエコロジーへの招き』7月1日発売
2024-07-01
『いのちへのまなざし』以来となる、司教団文書の刊行
『見よ、それはきわめてよかった――総合的なインテグラルエコロジーへの招き』7月1日発売


見よ、それはきわめてよかった――総合的なインテグラルエコロジーへの招き
日本カトリック司教団・著
B6判並製160頁
定価880円(税10%込)
ISBN978-4-87750-251-5

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推薦のことば



小原克博 (同志社大学学長、神学部教授)

 本書は、回勅『ラウダート・シ』が投げかける諸課題に対する日本のカトリック教会の応答をまとめたものである。水俣病をはじめ、日本社会の問題を交えた本書を読み進めていく中で、読者はグローバルな課題を「自分ごと」にする手がかりを得ることもできるだろう。また、本書が発する問いかけは、他の宗教や一般社会にも届くものとなっている。言い換えれば、本書の柱となっている「観る」「識別する」「行動する」は、カトリックに限定されない普遍性を持っており、まさに「共通善」への気づきとその実践を広く促している。この世の問題と信仰的視点をどのように重ね合わせることができるのかを考える上でも、多くの宗教者に手に取ってもらいたい一書である。

髙見三明 (長崎名誉大司教)

 今や「皆がともに暮らす家」である地球の自然環境と生活環境は相まって危機的状況にあります。日本司教団は、教皇回勅『ラウダート・シ』を土台にして、「すべてのいのちを守るための取り組みに参加するよう呼びかける」ため指針を作成しました。キリスト信者は、すべての被造物が神の贈り物であることを感謝し、神とほかの人々と自然と、そして自分自身とはすべて互いに分かちがたくつながっていることを信じ、それらの関係改善に努めなければなりません。それが「人と被造物すべてに対する神の愛」をあかしすることになります。冊子の文章は格調高く、内容は包括的です。一人でも多くの人と学び合い、何よりも実際に行動を起こすことを願っています。

萩原千加子 (カリタス女子中学高等学校校長)

 葬送曲を延々聴かされる覚悟で読み始めると、深層で流れていたのは歓喜の歌だった。題名を見ればその通り、創世記1章。環境問題に明るい未来は見えないが、この世界に注がれる恵みの豊かさを祈りを通して味わわなければ、問題に立ち向かう力も湧いてこない。9年前、回勅『ラウダート・シ』が出された時には「なぜ教皇様が環境問題を?」と思ってしまったが、環境問題と貧困問題は直結していて、信仰の在り様が試されていた。しかし、しばらくすれば意識は薄れるのが常。断捨離の本は、読んでいる際には目新しいことは何も感じずとも、読み終える頃には頭が断捨離モードになり、猛烈に大掃除を始めることになる。この本もそれと似て、具体的な行動が肝心だ。一読をお勧めする。


WYDリスボン大会に参加した青年の一人に、若者代表として校正刷に目を通してもらい、感想を寄せていただきました。昨年のワールドユースデー(WYD)リスボン大会で、インテグラルエコロジーをテーマにしたグループ発表を担当し、準備や分かち合いを通して考える機会をもちました。本書が最初に教えてくれるのは、すべては神から人間への贈り物だということです。天の父がわたしたちに自然を与えてくださった意味を真摯に受け止め、被造物と手を携えながら、調和のうちに生きられるよう祈り求めたいと思います。本書はまた、わたしたちが話し合い、分かち合い、自らを振り返りながら変えられていく旅へと招いています。複雑な構造や強大な権力、山積する課題を前にしても、単純だが、オフィスでも家庭でも丁寧に生き、福音を伝えるよう背中を押された気がします。 内山七海さん(東京教区信徒)

本書について

 本書のタイトルとなっている「見よ、それはきわめてよかった」は、旧約聖書の創世記1章31節にあることばです。創造主である神は、すべての被造物を「よいもの」としてお造りになりました。その「よいもの」が、いまや瀕死の状態にあります。環境危機への対応は、まさに全人類共通の喫緊の課題です。
 日本の司教団は、教皇フランシスコが2015年に公布した回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』に学び、時間をかけて、環境危機を扱う本文書の作成を進めてきました。
 副題にも表現されていますが、中心となるテーマは、教皇が『ラウダート・シ』で説いた「総合的なインテグラルエコロジー」です。それは、あらゆるものは密接に関係し合っているという考えから出発するものです。カトリック教会は、神と、他者と、自然と、そして自分自身との調和ある関係を追求して生きていくようにと呼びかけることで、持続可能な人間開発の実現を目指しています。
 環境危機についての考察はつねに、その人間的側面と社会的側面とを取り上げてなされなければなりません。それを可能にするのが、総合的なインテグラルエコロジーの考えであり、そこから導かれる姿勢です。
本書は、次のような3部の構成となっています。

 第一部 観るSEE――「ともに暮らす家」を観る
 第二部 識別するDISCERN――信仰に照らされて識別する
 第三部 行動するACT――ともに生きるために行動する

 観る、識別する、行動する――この3段階のプロセスは、カトリック青年労働者連盟(JOC)の実践から生まれ、教皇ヨハネ二十三世の回勅『マーテル・エト・マジストラ』(1961年)に取り入れられたものです。
 ともに暮らす家、すなわち地球で今起きていることに対応するには、まず何が起きているのかを具体的に知り、知ったことについて、しかるべき原理に照らして判断を加え(カトリック教会においては、教会の社会教説[教会の社会についての教え]が基準となります)、その判断を踏まえて、なすべきことを決定し実践へとつなげていかなければなりません。こうした考えを本書は骨組みとしています。
 今人類には、大胆なライフスタイルの刷新が求められています。それをどのように行っていくかは、各人が置かれた場(家庭、学校、職場、地域、信仰共同体など)によって異なります。
 また、国や自治体あるいは企業などに訴えていく、社会全体に働きかけていくといった行動もあれば、個人の努力や心掛けによってなされる行動もあります。さらには、学校、勤め先、地域といった、身近な人間関係の中で協力して進めていく行動もあります。
 そうした包括的な見地を本書は備えており、それを踏まえて読者に、環境やエコロジーについての理解と実際的な行動を促しています。
 日本司教団は2020年に「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を公にしました。地球を傷つけてきたことを真摯に反省し、神の愛の道具となることを願う祈りです。本書は、この祈りの引用によって結ばれています。
 カトリック教会の司教団が著すものですから、すべては信仰の視座に基づいています。ですが、ここに述べられた訴えは、カトリック教会のみに向けられたものでもありません。
 「すべての人が与えられたいのちを十全に生きることができるように」、その願いをもって日本司教団は、2001年に『いのちへのまなざし』を、2017年にはその増補新版を刊行しました。それは、宗教者の立場からでありながらも、一宗教の枠を超えて広く社会全般への呼びかけとなることを願って発せられたメッセージです。教会は社会から遊離したものであってはならず、社会への訴えかけは義務であり、欠くことのできない務めです。
 その自覚をもって、『いのちへのまなざし』を受け、その主題をさらに展開していくものとなること――、本書刊行の意図は、そのように表現できるものでもあります。

2024年 船員の日メッセージ(7月7日)
2024-07-01

2024年 船員の日メッセージ

教皇庁総合人間開発省は、7月の第2日曜日を「船員の日」と定め、世界中の司牧者、信徒に船員たちのために祈るよう呼びかけています。日本カトリック難民移住移動者委員会も、船員たちとその家族のために祈るよう皆様に呼びかけます。


海から海へと、世界を結ぶために働く船員に感謝して



 今年の「船員の日」にあたって、現代世界の人々が日々求めるすべてのニーズを満たすため、あらゆる物資を運ぶ仕事で海をとおして世界を結びつける船員のみなさんに、あらためて敬意と感謝を表したいと思います。
 船員の仕事は、わたしたちの生活を支える大切な仕事ですが、それは船員たちの犠牲の上に成り立っています。長期間家族と離れながら、肉体的にも精神的にも過酷な条件下で行われる仕事です。彼らこそ、その仕事によって、わたしたちが一つの家族となれるように世界を結びつけている、真の奉仕者であることを称賛し感謝します。そして、わたしたちも、一つの人類家族として彼らと連帯するよう招かれています。
 船員がどのような環境で働き、生活しているかをさらによく知るためには、国際運輸労連(ITF)が 作成・発行している会報『シーフェアラーズ・ブルテン』があります。わたしの手元にあるスペイン語版第37号(2023年発行)では、ステファン・コットンITF事務局長が会報の冒頭で、パンデミックに関し、次のように語っています。「あらためて、わたしたちの生活の多くの部分が停止しているときに、世界を動かし続けた船員やその他の運輸労働者に感謝を表します」。
 ITFとはどういう存在でしょうか。ITFは、8つの産別部門(船員、水産、内陸水運、港湾、鉄道、路面運輸、民間航空、観光)の運輸労組で構成される世界組織です。153カ国の約735の加盟組織に所属する、およそ1,800万人の運輸労働者を代表し、その中には、211の加盟組合の約100万人の船員たちも含まれています。
 ITFは世界中の運輸労働者を代表し、連帯とグローバル・キャンペーンを通じて、運輸労働者の利益を促進しています。これまで75年にわたり、船員の劣悪な労働環境や雇用条件を生み出しかねない「便宜置籍船制度」と闘い、キャンペーンを展開してきました。便宜置籍船制度とは、運航費用の削減を目的に、実質的な船主の国の法規制が及ばないよう便宜的に船籍を他国に置き、その国の旗をつけて運航することです。ITFインスペクター(検査官)と組合は、船上で働く船員が、適正な賃金、社会福祉、家族への支援、人権擁護などの労働条件を勝ち取ることができるよう、懸命に闘ってきたのです。ITFが毎年発行している『シーフェアラーズ・ブルテン』の最新情報は、各国語で読むことができます(https://www.itfseafarers.org/en/resources/materials/seafarers-bulletin-2023)。
 わたしたちも今一度、何千、何万という船員たちが、世界の海をつなぎ、わたしたちを一つの家族としてまとめ、その使命を果たしていることを神に感謝し、心を合わせて、ともに祈りましょう。愛する大切な人と遠く離れ離れになっている彼らとその家族を、海の星、神の母聖マリアが守り続けてくださいますように。


聖マリア、海の星、船員たちの安全をお守りください。
あなたの保護と導きが彼らとともにありますように。
激しい波に直面する時、暗闇の中で航海を続ける時、
あなたの光で道を照らし、安らぎと勇気を与えてください。
彼らの家族と愛する人々に心をあわせ、祈ります。
彼らが大海原で活躍し、無事に帰って笑顔で家族や友人と再会できますように。
あなたの祝福が彼らとともにありますように。アーメン

2024年7月14日
日本カトリック難民移住移動者委員会
委員長 山野内 倫昭

「シノドス的教会を目指して 日本のカトリック教会の挑戦」 世界代表司教会議 第16回通常総会第2会期への日本の回答
2024-07-01

「シノドス的教会を目指して 日本のカトリック教会の挑戦」
世界代表司教会議 第16回通常総会第2会期への日本の回答

1.はじめに

このレポートでは、世界代表司教会議 第16回通常総会第1会期(2023年10月)の後、日本のカトリック教会が目指している「ともに歩む」教会について紹介する。最初に日本のカトリック教会の現状について報告し、続いて、日本の教会の取り組みと今後の課題について言及する。


1.1 日本のカトリック教会
日本(人口 123,250,274人)では、キリスト教徒は人口の1パーセントである。カトリック教会の信者は人口の0.034パーセント、およそ437,000人である。日本のカトリック教会は15の教区から成り立ち、773の小教区が存在する。
少子高齢化が激しい日本にあって、カトリック教会も影響を受けており、信徒の高齢化が目立つ。また、多国籍・多文化の教会の特徴を日本のカトリック教会は備えている。国内に住む多くの外国人、とりわけアジア、南米からの労働者たちが信仰の共同体である教会を形づくる大切なメンバーとなっている。さらに、小教区以外に様々な「愛の活動」(学校、施設)によって、カトリック教会は日本の社会において広く認められている。
日本には大規模な自然災害(地震など)の脅威がある。これまでの自然災害に対して、カトリック教会は苦しむ人々とともに歩んできた。そのような姿勢はキリスト教徒ではない日本人から認められ、受け入れられている。これは、1980年以降、日本のカトリック教会が「ともに歩む」教会を目指してきた結果である。つまり、すでに日本のカトリック教会は「ともに歩む」という「シノダリティ」を生きてきたのである。

2.日本のカトリック教会の挑戦

第1会期で発表された「神の民への手紙」は各教区の司教たちが折りに触れて信者たちに紹介し、説明をしている。日本のカトリック教会は、シノドス的な教会を目指すために個別の具体的な問題について考えるのではなく、問題の解決のためのプロセスに注目した。これは、次の教皇フランシスコの言葉からインスピレーションを受けてのことである。
「このシノドスとはシノダリティについてのものであり、他のあれこれのテーマについてではありません。……重要なのは、考察する方法、つまりシノドス的方法です」

そこで、第1会期で採用された「霊における会話」の普及と実践を目指している。すでに日本のカトリック教会ではみ言葉の「分かち合い」は広く行われている。また「レクチオ・デヴィナ」も多くの信仰の共同体で小グループを通じてなされている。さらに 2020年からのCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の蔓延のために信仰の共同体では「交わり」が薄れつつあった。このような背景をもとに「ともに歩む」教会ともう一度なるためには「霊における会話」は必要不可欠であると考えたのである。


2.1 シノドス特別チーム
2023年10月に開催された第1会期の後に日本カトリック司教協議会は司教、司祭、奉献生活者、信徒によって構成されるシノドス特別チームを編成した。そして、「シノドス的方法」を広く知ってもらうために、次の点を実行することを決めた。

  1. シノドスハンドブック:シノドス的な教会の姿を多くの人々に知ってもらうために作成する。
  2. 日本のシノドスのつどい:「霊における会話」を普及するために、日本国内でのシノドスの集いを開催する。
  3. 各教区での取り組み:シノドス的な教会となるために、教区で「霊における会話」を実行する。

以上の三つの点を詳しく解説する。


2.2 シノドスハンドブック
シノドス的な教会の姿を多くの人々に知ってもらうために、「シノドスハンドブック」の作成に着手した。2024年6月末には発行し、配布できるであろう。新しい世紀を迎えた頃から、結果を重視する社会になり始めた。信仰の共同体である教会もその影響を受けている。「交わりをつくる」
(共同体)、「ともに担う」(共同責任)、「ともに考え、祈る」(共同識別)という「シノダリティ」の本質を日本のカトリック教会は忘れてはならないのである。「誰をも排除しない」(包摂)教会となることを目指さなければならない。


2.3 日本のシノドスのつどい
日本のシノドスのつどいは次のように実施された。

日時 2024年3月7日(木) 午後3時~8日(金)午後3時まで
場所 日本カトリック会館
参加者 68 名
各教区の司教全員 17名
各教区から 45 名(司祭:15名、奉献生活者:15名、信徒:15名)
シノドス特別チーム 4名
ファシリテーター 2名
注 当日は、長崎大司教が体調不良にて欠席、代理として教区司祭 1 名が参加。
目的 1. シノドス的教会の姿をよく表している「霊における会話」を体験する。

2. 世界代表司教会議第 16 回通常総会 第 1 会期の『「まとめ」報告書 宣教するシノドス的教会』に基づいて、わたしたち日本のカトリック教会の現状を「霊における会話」の手法を用いて話し合う。


2.3.1 「霊における会話」の報告
日本のシノドスのつどいでは、「霊における会話」についての説明を受けた後にグループに分かれて 2 回実践した。会話の内容は『「まとめ」報告書 宣教するシノドス的教会』に示されている 20 のテーマから選んだ。各グループで話し合った後、会話の実りを参加者全員で分かち合った。

1. 共通テーマ:「シノダリティ:経験と理解(「まとめ文書」第1部1より)」
シノドスという言葉 「シノドス」という言葉をめぐって、様々な立場や司牧的責任から、豊かな霊における会話がなされました。何よりも「ともに歩む」ことの重要性が強調されました。そして、「聞く」ことが特に繰り返されました。相手の話をよく聞くことで、思い込みや偏見から解放され、様々な立場の人々が互いに尊重し合う関係が築かれていくことに気づきました。
新しい可能性: 心を開いて聞き、分かち合うことは祈りそのものであり、神を中心に人々が心を分かち合うことを通じて聖霊の働きを実感できると参加者は体験しました。もし、仮に「シノダリティ」の歩みに抵抗を感じる人がいたとしても、このような聖霊の働きを否定はできないでしょう。さらには、何か問題を解決するよりもイエスと「ともに歩む」プロセスそのものが大切であるという点についても異存はないはずです。問題解決よりもプロセスを重視するという、あり方の変化は簡単ではないでしょう。時間もかかるでしょう。しかし、ここに教会の新たな可能性を見出すことができるでしょう。
受け入れる教会へ: 「シノドス的」歩みのプロセスの実行を通じて、教会共同体にあっては他人の痛みや自分の痛みを共感し合う共同体、どんな人も受け入れる共同体、外国籍の方々との関わりを大切にする共同体、異なる文化や社会的なマイノリティーを生きる方々を受けいれる教会へ変化していくはずです。
神からいただいた本来の姿: そのような教会は、主イエス・キリストと痛みや弱さを分かち合いながら、「ともに歩む」教会です。社会に対して、また人々に対して大きな扉を開く教会です。「ともに歩む」とは、人間本来の姿です。見失いつつある人間に備わっている本来の姿を大切にする教会です。もちろん、社会のなかにある様々な問題や課題には挑戦しなければなりませんが、そればかりではなく、人として受け入られ、尊重する信仰の共同体、共同体に来られない仲間を思い続け、祈り続け、忘れない教会など、人々の痛みや喜びを共有し、思いやりを持って関わり、支え合うといった「シノドス的」教会の特徴や価値観についての気づきが生まれました。さらには、第二バチカン公会議で提唱された「交わりの教会」には、もう、すでに「シノダリティ」の要素が含まれています。この事実は、半世紀の間、聖霊が教会に寄り添ってくれた恵みの証しとなるでしょう。
聖霊の働き: さらに、こうした教会の姿を力づける、聖霊を大切にする必要性も指摘されました。聖霊はわたしたちを一致させてくださいます。それは、整然とした統一感(ユニフォミティ)ではなく、多様性を尊重する教会へと聖霊は変えてくださいます。また、声の大きさや世間の常識にとらわれず、共同の責任を担う教会へと変わっていきます。

「シノダリティ」を実現するには時間と努力が必要です。産みの苦しみにも似た苦しさを経験しながらも、希望を見出すことの重要性が指摘されました。加えて、教会はこの世に対しても影響を及ぼす存在ですので、多くの人々の声に耳を傾けることが求められます。これもまた、聖霊の恵みを願わないわけにはいかないでしょう。
具体的な歩み: 最後に、日本の教会での「シノドス的」歩みについての指摘がありました。さらには「霊のおける会話」の経験から他者に耳を傾ける姿勢が足りなかったと気づいた参加者もいました。どちらかと言うとトップダウンの傾向がある日本の教会ですので、そのような姿勢を根本的に変える必要があるという意見も出されました。そして、多言語によるミサを祝うことで一致の体験ができる点、マイノリティーの方々への教育現場での対応の充実なども注目されました。このように、多くの参加者にとって初めての体験だった「霊における会話」のおかげで、キリスト者の一人としての「シノドス的」歩みへの参加、教会共同体の取り組み、日本の教会の具体的な課題について皆で向き合うことができました。異なる意見や背景を持つ人々と「ともに歩む」ことの大切さは強調され、意見の違いが対立にならないようにするためには「聞く」ことが欠かせない点は参加者の誰もが実感したところです。

2.グループ毎のテーマ(6 グループ)

• 信仰共同体への参入:キリスト教入信(「まとめ文書」第1部3)

ともに喜ぶ: キリスト者の数が少ない日本にあって、多くの人びとはすでに何らかの宗教的な体験を経て教会を訪れます。ですので、入信までの信仰体験を分かちあいは必要でしょう。そして、洗礼を受けた後も、入信にいたるまでの個人的な出会いや、信仰の共同体の体験、教会に集う人びととの交わり、そして秘跡との出会いの喜びについて共有していくことは大切になります。信仰の共同体(小教区共同体など)が教会として、洗礼を受けた人びとを支えようとする姿勢は求められるでしょう。教会の中に自分の生き方を霊的に支えてくださる方がいるという実感はすばらしいものとなります。さらには、困難な状況にあってもともに十字架を担うことができる教会、自分の家のような居心地のよさを味わえる教会になる必要があります。教会で体験する喜びの背後にはいつも復活したイエスともにいてくださいます。こういった実感は、洗礼・堅信・聖体の秘跡というキリスト教入信を体験した人びとが、その後の生活を通じて、喜びの教会を伝える人となっていくと思います。

• 教会の旅の主人公である貧しい人びと(「まとめ文書」第1部4)

痛みを分かち合う: このグループでは、参加者がこれまでに関わった社会的弱者 (日雇い労働者、虐待を受けた人、高齢者、障がい者) について具体的に思い巡らし、祈ることを通じて、参加者自身の「貧しさ」について見つめました。これまで貧しい人びと、困難にある人びとを支援してきたのは、自己満足ではなかったのか、あるいは自分が下した判断がさらなる偏見を助長しているのではないかという祈りもなされました。
こういった葛藤を持ちながらも、社会から追いやられ、そして排除された貧しい人びとに近づくプロセスを通じて、人びとの「痛み」を知り感じるようになり、それは次第に「怒り」へと変化するという体験も分かち合いました。
しかし、その「怒り」のエネルギーを、神にかなった聖なるものとするのはとりもなおさず「祈り」しかないという事実も確認し合いました。祈りは心にスペースを作ります。この事実は「霊における会話」がやろうとしていることとつながっているという指摘もありました。

• 「あらゆる種族、ことば、民族、国家」からなる教会(「まとめ文書」第2部5)

「移住者」とともに生きる: 日本の社会同様に、日本の教会では多文化多言語化が進んでいます。この事実は、教会の中に新しい風を送ってくれます。それぞれの現場は状況が異なるものの、多文化多言語の教会となるように誰もが一生懸命取り組んでいるという現状は確認し合えました。一つの答えを求めるのではなく、教会に集う人びとの違いを大切にしなければなりません。違いを障壁にするのではなく、力に変えていくように努める必要があるでしょう。特に、日本の社会では一般的な「外国人」という表現に対する厳しい指摘がグループの中からありました。それに皆が共感しました。そして、「移住者」という呼び名が提案されたのは「シノダリティ」の一歩でした。
耳を傾けて: とりわけ、このグループの日本人参加者は、一人ひとりの状況を知るために丁寧に耳を傾ける必要性を感じました。文化と言語が異なる「移住者」と日本人の間には様々な点で違いがあるという事実をお互いに理解することが求められています。「移住者」の必要に応える取り組みは求められますし、「移住者」もまた日本の社会と日本の社会を深く知る姿勢が必要でしょう。これからは、日本人の信徒も「移住者」の信徒も、キリスト者としての生涯養成を実行するという課題があります。また、「移住者」の子どもたちにとって教会が安心していられる場所となるというビジョンも課題として分かち合われました。このような取り組みをしながら同じ「神の子」として「ともに歩む」教会になっていくでしょう。

• 教会は宣教である(「まとめ文書」第2部8)

関わり: まず、人々と関わることの大切さです。関わり方は様々です。ときには「迎える」、時には「出向く」、時には「寄り添う」。しかし、その関わりは、いつも「癒し」を生み出す関わりで、「癒し」に導く関わりでなければならないということが強調されました。関わる姿勢がないと、福音宣教はあり得ない。
福音を生きる: 一人ひとりが実生活の中で絶えず自分の価値観を見直す。教会共同体は、絶えず福音と向き合って自分の在り方を見直す。誰もが、キリスト者の一人ひとりの生き方や教会の在り方に福音の光を見ることができるように。
宣教の原動力の再発見: 信仰の喜びを感じた人は、その喜びの源である福音を伝えないでいられないはずです。そのために、イエスとの繋がりを深める必要を感じます。
「信仰をもってよかった」と心から言える確信を持ちたいと分かち合いました。ミサに与って喜びを感じ、兄弟姉妹との交わりの喜びを味わうことは福音宣教の働きを支える。分かち合いを通してお互いに励まされる。
気を落としてはいけない: 信者の減少を見ると気を落とすことがあります。ただ、分かち合いから、この現実がわたしたちに問いかけているいくつかの点が現われた。この現実は創造性を培う機会として取られて見ることが大事である。教会の存在理由を再考するきっかけにもなると分かち合った。また、地域との関わりを深めるきっかけになったと分かち合ってくださった方もいました。
注意すべき点: 「布教」という言葉を使う時に、人々に「何かを」教えるイメージが強く感じられる。ただ、「教える」よりは、「証しする」、「寄り添う」、「ともに歩む」ことが大事である。一歩的に「教える」ことより、一人ひとりが心の中に語っておられる神の声に気づくための手伝いをすることが大切である。また、「福音宣教」はわたしたちの力によるものではない。わたしたちは、協力者であって、主人公は聖霊であると忘れてはいけない基本的なことです。

• 教会の生活と宣教における女性(「まとめ文書」第2部9)

– 女性が生き生きしていると教会は生き生きしている
– 女性の持つ様々な良さを語ることができた
– 戦争を始めるのは男性。
– 安い労働力とされている女性奉献生活者。解決のための仕組みが必要。
– 男女の違いをのりこえるために、「個」の大切さを教会の見える形にしていくことの呼びかけが必要な時期が来ていると思います。

• 耳を傾け、同伴する教会を目指して(「まとめ文書」第3部16)

現状の課題: 現状の課題としては、教会で傷ついている人がいることや、司祭が協力的でないこと、上に立つ人が孤立して共同無責任になっていること、意見が対立している中で聞くことの難しさ、教会内のいじめやハラスメントの多さが挙げられます。
目指す方向: 一方、目指すべき方向は、「同伴」「居場所づくり」「ともに考える」「チームで働く」「声掛けの大切さ」「聞く養成の必要性」「一人ひとりの信仰の感覚を大切にする」「時間を割く」「イエスの聞く姿勢がモデルとなる」ことです。これによって、「聞く」教会になることで、未来の宣教に向けた希望があると考えられる。

2.4 各教区での取り組み
3月に実施された「日本のシノドスのつどい」の結果、各地でシノドス的な教会を目指しての取り組みがなされている。特に「霊における会話」については各教区で実施されている。少しずつではあるが「シノドス的方法」は広まりつつある。

3.まとめ

以上、日本のカトリック教会が「ともに歩む」教会となるための挑戦についてレポートした。聖霊がわたしたちの教会をどのように導いているかを、感じ、分かち合うことが少しずつできるようになってきている点に感謝したい。
シノドス的な教会にさらになるために、特に「霊における会話」の点からいくつかの課題を指摘したい。
祈り: 「霊における参加者」は、沈黙のなかで祈ったことをグループに提供しなければなりません。このような手法は参加者にとって斬新なものです。どのような祈りもすばらしいものだと認め合うような教会の雰囲気を作る必要があるでしょう。そのためには「信仰のセンス」についてさらに深く理解する必要があるでしょう。
ダイナミックな共同体: 「霊における会話」では最初はあまりよく祈れなかったが、グループのメンバーの祈りを聞いて、少しずつ祈りの内容が抽象的なものから具体的なものへと変わった体験をした人が多かったです。いつも聖霊が共同体に働くことを感じる必要があるでしょう。そのためには信仰は個人的なものではなく、共同体とともにあるものだという意識が必要となります。
聖職者たち: 「日本のシノドスのつどい」では司教たちの分かち合いが参加者に勇気と希望を与えました。各教区でおこなわれてる「霊における会話」でも司教と司祭たちの姿勢と言葉に励ましを受けた人々が多くいました。この事実は聖職者たちの新しい奉仕のあり方を示唆するものです。その一方で、最後までかたくなな姿勢を崩せない司祭たちがいるのも事実です。シノドス的教会は「ともに歩む」教会である。それは、司祭たちの仕える生き方と無関係ではないという事実に気づかなければならないでしょう。
共同識別: 「霊における会話」の最後の段階である「ともに考え、祈り、判断する」(共同識別)は難しいようです。これは、「霊における会話」の実践を何度も繰り返す必要があるでしょう。
「霊における会話」は単なる方法論ではなく、人を深い会話、深い交わりへと招くものだからです。ともすると結果だけに目を向けてしまう現代社会にあって、「ともに歩む」プロセスを大切にするのだという点をさらに強調する必要があるでしょう。
目的: 「霊における会話」は信仰の共同体とって、パストラル・プランをつくるために必要なのだという点はさらに強調されなければならないでしょう。今後は教会のあらゆる団体がパストラル・プランを作るようにと勧められている点を強調してもよいかもしれません。
兄弟姉妹とともに: 忘れてはならないのは、日本のカトリック教会は多文化、多宗教の雰囲気のなかにあることだ。兄弟姉妹たちとともに生きていくためには「霊における会話」の手法は有効であると考えられる。

最後に「霊における会話」というすばらしい方法論との出会いは、教会をさらに「ともに歩む」教会としてくれると確信する。2021年から開催されている「シノドス 世界代表司教会議 第16回通常総会」は、日本のカトリック教会に大きな影響を与えてる。

日本カトリック司教協議会 シノドス特別チーム
2024年5月4日

3月の教皇の祈りの意向:虐待の犠牲者のために
2023-03-03
注目チェック

3月の教皇の祈りの意向:虐待の犠牲者のために

教皇フランシスコは、2023年3月の祈りの意向について、ビデオメッセージをおくられた。

 カトリック教会は、毎月、「教皇の祈りの意向」を示し、教会全体が日々の祈りの中で、その意向に基づいて祈るように招いている。
 
 2023年3月は、虐待の犠牲者のために、次のように祈る。 
 
 「教会のメンバーによって傷つけられた人々が、その教会の中で、痛みと苦しみに対する具体的な方策を見出すことができますように」。
 
教皇フランシスコは、この祈りの意向をめぐり、ビデオを通し次のように述べられた。
 

**********

 
 虐待、特に教会のメンバーによって行われた虐待を前に、赦しを乞うだけでは十分ではありません。
 
 赦しを乞うことは必要ですが、それだけでは足りません。赦しを願うことは被害者にとってよいことですが、被害者こそがすべての中心であるべきです。
 
 被害者たちの苦しみや心理的な損害は、答えを見出した時に、いやしが始まります。それには、彼らが経験した恐怖に対して償い、このようなことが二度と起きないように予防する具体的なアクションがなくてはなりません。
 
 教会は虐待の悲劇を、それがいかなる種類のものであっても、隠そうとすることはできません。それが家庭や、クラブや、その他の組織の中の虐待であってもです。
 
 教会は、家庭や社会において、その問題を解決し、明るみに出すことを助けるための、模範であるべきです。
 
 そして、教会は被害者の話を聞き、心理的に寄り添い、保護するための確かな場を提供しなくてはなりません。
 
 祈りましょう。教会のメンバーによって傷つけられた人々が、その教会の中で、痛みと苦しみに対する具体的な方策を見出すことができますように。

30 1月 2023, 17:00 Vatican Newsより
2月の教皇の祈りの意向:小教区の教会のために
2023-02-01

2月の教皇の祈りの意向:小教区の教会のために

教皇フランシスコは、2023年2月の祈りの意向をめぐり、ビデオを通しメッセージをおくられた。

 カトリック教会は、毎月、「教皇の祈りの意向」を示し、教会全体が日々の祈りの中で、その意向に基づいて祈るように招いている。
 
 2023年2月は、「小教区の教会」のために、次のように祈る。 
 
 「交わりを中心に据えた小教区の教会が、信仰と友愛の共同体として成長し、最も困窮している人々を招き入れることができますように」。
 
 教皇フランシスコは、この祈りの意向について、ビデオメッセージで次のように述べられた。
 

**********

 
 小教区の教会に「ご自由にお入りください」という貼り紙をすべきではないかと思うことがよくあります。
 
 小教区の教会は、身近な共同体であるべきです。お役所的でない、人間を中心に据え、そこで人が秘跡の恵みに与ることができる場所でなくてはなりません。
 
 小教区は、奉仕と寛大さの学び舎に戻る必要があります。疎外された人々に、また共同体の人、すべての人に常に扉を開いたものであるべきです。
 
 小教区は、ある種の社会的地位を保証する、一部の人々のクラブではありません。
 
 お願いします。どうか大胆であってください。
 
 わたしたちの小教区のあり方を皆で考え直そうではありませんか。
 
 祈りましょう。人々の交わり、教会的交わりを中心に据えた小教区の教会が、信仰と友愛の共同体として成長し、最も困窮している人々を招き入れることができますように。

30 1月 2023, 17:00 Vatican Newsより
長崎教区着座式の動画
2022-01-19
オススメ
2022年2月23日(水)に行われた、長崎大司教区の中村倫明大司教様着座式の動画は以下のURLよりご覧いただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=svWOKNu1HU4&t=10s

ペトロ 中村倫明 被選大司教の略歴

1962年3月21日長崎県西海市生まれ。太田尾教会出身。
1988年3月19日浦上教会にて司祭叙階。
1988年4月長崎公教神学校(現長崎カトリック神学院)。
1989年 中町教会助任。
1991年 ローマ留学。
1994年 長崎カトリック神学院。
1999年4月 浦上教会助任。
2002年4月 時津教会主任。
2005年4月 福岡サン・スルピス大神学院養成者。
2007年2月 植松教会主任。
2013年4月 三浦町教会主任。
2019年5月31日 長崎教区補佐司教に任命される。
2021年12月28日 長崎教区大司教に任命される。
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