カトリック教会のお知らせ
「すべてのいのちを守るための月間」ラウダート・シ部門の成井大介司教様からメッセージ(邦文・英文)
2026年「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージ!
聖ピオ十世司祭兄弟会に関する信徒の皆様へのお知らせ
2026年7月9日
聖ピオ十世司祭兄弟会に関する信徒の皆様へのお知らせ
日本カトリック司教協議会
会長 タルチシオ菊地功枢機卿
+主の平和
2026年7月1日、聖ピオ十世司祭兄弟会は、教皇の認可を受けず、教皇レオ14世の明示された意思に反して、4名の司祭を司教に叙階しました。
教理省は翌7月2日、この司教叙階を、教皇との一致を拒み、教会の一致を深く傷つける重大な行為であると判断しました。そして、叙階を行った司教、共同叙階司教、新たに叙階された4名は、後から新たに破門されたのではなく、教会法上、その行為を行った時点ですでに破門の状態に入っていたことを公に宣言しました。
この知らせに接し、不安や戸惑いを感じている方もおられることと思います。とりわけ、これまで同会の典礼に参加したことのある方や、同会の司祭から秘跡を受けた方の中には、自分はどうなるのだろうかと心配している方もおられるでしょう。
教会は、皆様を恐れさせたり、誰かを一律に断罪したりすることを望んでいるのではありません。正確な事実をお伝えし、一人ひとりの事情に配慮しながら、教会の一致のうちに歩む道をともに確認したいと思います。
1 今回の問題について
カトリック教会において、司教は、使徒の後継者として、ローマ教皇および他の司教たちとの交わりの中で奉仕します。
したがって、教皇の認可を受けず、その明示された意思に反して司教を叙階することは、単なる手続き上の違反ではありません。ローマ教皇との交わりを実際上拒み、教会の一致そのものを傷つける重大な行為です。
教理省は、聖ピオ十世司祭兄弟会に所属する聖職者は離教状態にあり、カトリック教会において合法的に聖務を行う権限を有していないことを明らかにしました。
また、同会の聖職者による秘跡の授与は非合法であり、とりわけ、同会の司祭が授けるゆるしの秘跡と、同会の司祭が立ち会う婚姻は無効であると説明しています。
このため、信徒の皆様には、今後、同会が行う典礼や活動への参加を控えてくださるようお願いいたします。
2 同会のミサに参加しただけで破門されるわけではありません
聖ピオ十世司祭兄弟会のミサに参加したことがあるという理由だけで、すべての信徒が自動的に離教者となり、破門されたわけではありません。
信徒の責任については、本人が十分な認識と自由な意思をもって同会の教理的立場を正式に受け入れ、ローマ教皇の権威や教会の教導職を拒んでいたかどうかを、個別に判断する必要があります。
伝統的な典礼への愛着や霊的な理由から同会のミサに参加していたものの、ローマ教皇の権威やカトリック教会の教えを拒否していない方については、離教の責任があると一律に判断されることはありません。
どうか、自分自身や周囲の方を、すぐに「離教者」または「破門された人」と決めつけないでください。不確かな情報や個人的な判断だけに頼らず、所属教区の司祭または教区本部にご相談ください。
3 過去に受けた秘跡について
過去に同会の司祭からゆるしの秘跡を受けた方や、同会の司祭の立会いによって婚姻を結んだ方は、「自分が受けた秘跡はすべて無効だった」と、ご自身で判断しないでください。
ゆるしの秘跡については、当時、教皇による特別な権限が同会の司祭に与えられていた場合があります。婚姻についても、地区裁治権者から必要な立会権限が個別に委任されていた場合があります。
したがって、過去に受けた秘跡については、その時期や具体的な事情を個別に確認する必要があり、一律に無効と判断することはできません。
ゆるしの秘跡について心配のある方は、所属教区の司祭または教区が指定する担当者にご相談ください。婚姻については、教区本部の担当部署または教会裁判所にご相談ください。相談の内容は慎重に取り扱われます。
4 完全な交わりに戻る道は開かれています
聖ピオ十世司祭兄弟会を離れ、カトリック教会との完全な交わりのうちに歩みたいと望む方に対して、教会の扉は開かれています。
教理省は、完全な交わりに戻ることを望む司祭と信徒のために、具体的な手続きを示しています。
同会を離れる決断には、人間関係、家族、共同体、これまで大切にしてきた信仰生活など、さまざまな苦しみや葛藤が伴うことがあります。教会は、そのような方を責めるのではなく、まずその声に耳を傾け、敬意と忍耐、温かさをもって迎えたいと願っています。
完全な交わりへの復帰を望む方は、安心して、地域の教区本部または教区の司祭にご相談ください。
5 互いを非難しないために
今回の問題をめぐり、インターネットやソーシャルメディア上で、激しい議論や非難が行われることも予想されます。
しかし、相手を侮辱したり、信仰を決めつけたり、個人を攻撃したりすることは、教会の一致を回復する道にはなりません。
教会の教えと規律を明確にする一方で、同会との関係に悩んでいる方や、長い間そこで信仰生活を送ってきた方の心の重荷にも、十分に配慮する必要があります。
不確かな情報を広めたり、本人の事情を確認せずに非難したりすることを避け、教会の公式な情報に耳を傾けてください。
結び――教会の交わりのうちに
教会が守ろうとしているのは、単なる制度や規則ではありません。キリストが弟子たちに託された、信仰と愛における教会の一致です。
教会の目的は、誰かを排除することではありません。真理のうちに交わりを守り、離れている人が再び完全な交わりへと戻ることのできる道を開くことにあります。
不安や疑問を抱いている方は、一人で悩まないでください。教会は、皆様の声に耳を傾け、ともに考え、ともに歩んでまいります。
互いを非難するのではなく、祈りのうちに支え合い、ローマ教皇と司教団との交わりのうちに、キリストの教会の一致を大切にしてまいりましょう。
皆様の上に、神の豊かな祝福と平和がありますように。
以上
「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」G7サミット参加7か国 各カトリック司教協議会会長による共同声明
「平和、正義、人間の尊厳のために橋をかける」G7サミット参加7か国 各カトリック司教協議会会長による共同声明
「あなたがたすべてに平和があるように」社会司教委員会委員長 森山信三司教
「あなたがたすべてに平和があるように」
2026年4月30日
社会司教委員会委員長
森山 信三
「兄弟姉妹の皆様。〈平和の君であるイエス〉――これがわたしたちの神です。この神は、戦争を拒絶します。戦争を正当化するためにいかなるものをも用いることができません。戦争を行う者の祈りには耳を傾けず、そのような祈りを拒絶してこういわれます。『どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を』(イザヤ1・15)」(1)。
教皇レオ十四世は、イスラエルとアメリカがイランに先制攻撃をし、中東全土に戦火が広がりつつあった今年の受難の主日(枝の主日)のミサの説教でこのように述べられました。戦争の正当化にイエスを利用すること、宗教と神の名を自らの軍事的、経済的、あるいは政治的な利益のために濫用することは許されない、神はいつも平和を求める人々の側におられると明確に述べられました。
このメッセージに呼応してアメリカ司教団の教理委員長は次のような声明を発表しました。「カトリック教会の不変の教義は、国家が武力を行使できるのは『すべての平和への努力が失敗に終わった後、自衛のためのみ』であるということです(『カトリック教会のカテキズム』2308)。……それこそが教皇が実際に述べた『神は戦争を仕掛ける人々の祈りを聞き入れない』ということなのです」(2)。
さらに、今回の戦争は、アメリカとイスラエルが一方的に仕掛けた戦争であり、まったく容認できない暴力であるとし、教皇のこれらの発言は「政治家としてではなく、キリストの代理者としての福音に基づいた発言」(3)であると述べています。
その後教皇は北アフリカを歴訪し、「世界は一握りの暴君たちによって荒廃させられています。しかし、世界は連帯する多くの兄弟姉妹によって支えられています」(4)とも述べられました。世界は、協調や対話あるいは相互信頼を求めてきたはずですが、「一握りの暴君」の圧倒的な「力」により、国際的な秩序は崩れ、分断が進んでいます。
同時に世界中でエネルギー価格をはじめ物価は上昇し、もっとも貧しい国とその人々をさらに苦しめています。さらにガザやウクライナその他もろもろの地域における戦争にまつわる非人道的暴力が、今回のイランでの戦争の陰に隠されてしまっています。
世界では、日々、人間を殺傷するために巨額の軍事費が使われています。日本政府も、長年にわたって守られてきた武器輸出の制限を緩和するとともに、戦後最大規模の防衛力強化を進めており、防衛費は大幅に増額されています。このことは、わたしたちの国が確実に戦争に向かっていることを意味しており、戦後80年にわたって堅持し続けた平和主義の転換といわざるをえません。
わたしたちの国で起こっていることが、本当はどこに向かっているのかを見極め、自分の問題として捉え、祈り行動することが、今、混乱の中にある世界の平和のためにできることではないでしょうか。
「どの戦争も必ず、世界を、かつての姿よりもいっそう劣化させます。戦争は、政治の失敗、人間性の欠如であり、悪しき勢力に対する恥ずべき降伏、敗北なのです。理屈をこねるのはやめて、傷に触れ、犠牲者のからだに触れようではありませんか。『巻き添え被害』で殺戮された無数の民間人を、しっかり見つめようではありませんか。犠牲者に尋ねようではありませんか。避難民、被爆者や化学兵器の被害者、わが子を亡くした母、手足を失った子や幼少期を奪われた子どもたちに、目を向けようではありませんか」(5)。
イエスは十字架の愛とゆるしによって、憎しみと暴力の連鎖を断ち切られました。復活のイエスの「平和」は、わたしたちの心がイエスの愛とゆるしに満たされることから来るものです。この平和をいただいたわたしたち自身が平和の道具となり、平和を実現する人になるのです。武力による威嚇や「力による平和」は、憎しみや新たな復讐を生みます。相手を尊重し、対話と相互理解を積み重ねていくことによってのみ、真の平和を築くことができるのです。
わたしたちカトリック信者は、今こそ、「平和を実現する人」として、暴力に反対し、教皇選出当初から一貫して「平和」を叫ばれている教皇レオ十四世の使徒的活動を全世界の人々と一つになって、祈りで支えていかなければなりません。
世界中で戦争の犠牲になっている人々と連帯し、支援し、彼らのために祈りましょう。
教皇レオ14世による復活祭のメッセージ
兄弟姉妹の皆さん
キリストは復活されました。主のご復活おめでとうございます。
教会は世紀にわたり、その信仰の基礎となる出来事を大きな喜びをもって歌ってきました。「死を身に受けたいのちの主は/いまや生きて治められる /主キリストは復活された/勝利の王キリストよ/いつくしみをわたしたちに」(復活の続唱)
復活は勝利です。死に対するいのちの勝利、闇に対する光の勝利、憎しみに対する愛の勝利です。しかしそれは、非常に大きい犠牲を伴う勝利でした。生ける神の子、キリスト(参照 マタイ16,16)は、不当に罪に定められ、侮辱され、拷問を受け、ご自身のすべての血を流された後、十字架上で死ななければなりませんでした。真の屠られた小羊として、世の罪を自らに負われ(参照 ヨハネ1,29、ペトロ1,18-19)、こうしてわたしたち皆を、そしてわたしたちと共に被造物をも、悪の支配から解放されたのです。
しかし、イエスはどのように勝利されたのでしょうか。イエスが、古くからの敵対者、この世の支配者(参照 ヨハネ12,31)を、完全に打ち負かした力とは何だったのでしょうか。イエスが死から復活され、以前の生活に戻ることなく、永遠のいのちに入られ、こうして自らの体を通して、この世から御父へと移る道を開かれた、その力とは何だったのでしょうか。
この力、この権能とは神ご自身、創造し生み出す愛、最後の最後まで忠実な愛、ゆるし、あがなう愛です。
わたしたちの「勝利の王」キリストは、御父の御旨、すなわち救いのご計画に完全に信頼し、身を委ねることで、ご自身の戦いに勝利されました(参照 マタイ26,42)。こうしてイエスは、言葉ではなく、行いによって、対話の道を最後まで貫かれました。迷えるわたしたちを見つけるために肉となられ、隷属するわたしたちを解放するために奴隷となられ、わたしたち人間にいのちを与えるために十字架上でいのちを捧げられました。
キリストが復活されたその力は、まったく非暴力的な力です。それは、土に落ちてふやけた一粒の麦が、成長し、土の固まりを突き抜け、芽を出し、黄金色の穂となる力に似ています。それは、侮辱によって傷ついた人間の心が、復讐の本能を拒み、憐れみに満ちて、自分を傷つけた相手のために祈ることにより似ています。
兄弟姉妹の皆さん、これこそが人類に平和をもたらす真の力です。なぜなら、それは個人、家族、社会のグループ、国家などの間で、あらゆるレベルの尊重ある関係を生み出すからです。それは特定の利益を追求せず、共通善を追求するものです。自分の計画を押し付けず、他の人々と共に計画・実現することに貢献するのです。
そうです、キリストの復活は、新しい人類の始まりです。それは、正義、自由、平和が統治する、真の約束の地への入り口です。そこでは、すべての人が互いを兄弟姉妹として、愛・いのち・光である同じ御父の子として、認め合うのです。
兄弟姉妹の皆さん、主はご自身の復活をもって、自由をめぐる状況の前にわたしたちをより力強く立たせてくださいました。空の墓の前で、わたしたちは、イエスの弟子たちのように、希望と驚きに満たされることもできます。一方で、番兵やファリサイ派の人々のように、恐れに駆られて、あの有罪判決を受けた方が本当に復活したと認めないために、嘘やごまかしに頼らざるを得なくなることもあります(参照 マタイ28,11-15)。
復活の光の中で、キリストに驚嘆しましょう。キリストの無限の愛によって、わたしたちの心を変えていただきましょう。武器を持つ人は、それを置いてください。戦争を起こす力を持つ人は、平和を選んでください。力で追求する平和ではなく、対話による平和を。他者を支配する欲望によらない、出会いによる平和を。
わたしたちは暴力に慣れつつあります。それに対してあきらめを感じ、無関心になりつつあります。多くの人々の死に、無関心になっています。紛争がまき散らす憎しみと分裂の再発に無関心です。紛争が生み出す経済的、社会的な影響、皆が感じているはずのその影響にも無関心です。「無関心のグローバル化」がますます顕著になっています。これは、教皇フランシスコがよく用いられた表現です。故教皇が1年前、このロッジァから世界に向けて述べた、最後の言葉を思い起こしましょう。「世界各地の様々な紛争の中で、どれほど多くの死が望まれていることでしょうか」(ウルビ・エト・オルビ・メッセージ、2025年4月20日)。
キリストの十字架は、死を取り巻く苦しみと痛み、そして死がもたらす苦悩をわたしたちにいつも思い出させます。わたしたちは皆、死を恐れ、その恐怖から目を背け、見ないでいようとします。わたしたちは無関心であり続けることはできません。そして、悪を前にあきらめることもできません。聖アウグスティヌスはこう教えます。「死を恐れるなら、復活を愛しなさい」(説教124、4)と。わたしたちも復活を愛しましょう。復活は、悪が勝利しないことを思い出させてくれます。悪は、復活された方によって打ち負かされたからです。
イエスはわたしたちにいのちと平和をお与えになるために、死を通られました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのでない」(ヨハネ14,27)。イエスがわたしたちに与えてくださる平和は、単に武器を鎮めるだけの平和ではなく、わたしたち一人ひとりの心に触れ、心を変える平和です。キリストの平和へと回心しましょう。心から湧き上がる平和への叫びを、世界に届けましょう。そのためにも、来週4月11日(土)、ここ聖ペトロ広場で開催する平和のための祈りの集いに、一致してくださるようお招きいたします。
この祝祭の日、争い、支配、権力へのあらゆる欲望を捨て、戦争によって荒廃し、悪を前に無力を感じさせる、憎しみと無関心が広がるこの世界に、主がご自身の平和を与えてくださるよう祈り求めましょう。苦しみを抱え、主だけが与えることができる平和を待ち望むすべての人を主に託しましょう。主を信頼し、主に心を開きましょう。主だけが、万物を新しくすることがおできになるのです(参照 黙示録21,5)。
主のご復活のお喜びを申し上げます。
2026年 四旬節教皇メッセージ
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
四旬節は、わたしたちの信仰が活力を取り戻し、日々の不安や思い煩いの中で心を迷わすことのないよう、教会が母としての気遣いをもって、神の神秘を生活の中心にあらためて置くようにわたしたちを招く季節です。
あらゆる回心の歩みは、みことばに触れていただき、従順な心でみことばを受け入れることによって始まります。それゆえ、神のことばのたまもの、わたしたちがそれを提供するもてなしの場、そして神のことばがもたらす変容の間にはつながりがあります。ですから、四旬節の旅路は、主のみ声に耳を傾け、キリストに従う決意を新たにするための貴重な機会となります。そのためにわたしたちは、キリストの受難と死と復活の神秘がなし遂げられたエルサレムに上る道をキリストとともに歩むのです。
耳を傾ける
今年はまず第一に、〈耳を傾ける〉ことを通してみことばに場所を与えることの重要性に注目したいと思います。なぜなら、進んで耳を傾ける態度は、他者との関係に入る決意を示す第一のしるしだからです。
燃える柴からご自分をモーセに現された神ご自身が、耳を傾けることがご自身の存在の特徴であることをお示しになっています。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞いた」(出エジプト3・7)。抑圧された人々の叫びに耳を傾けることが解放の歴史の始まりです。主はこの解放の歴史にモーセをかかわらせ、奴隷状態に置かれたご自身の子らに救いの道を開くためにモーセを遣わします。
人をかかわらせる神は、今日もそのみ心を震わせる思いをもってわたしたちに語られます。そのため、典礼の中でみことばに耳を傾けることは、真の現実に耳を傾けることをわたしたちに教えます。聖書は、わたしたちの個人生活と社会生活の中に響く多くの声の中から、苦しみと不正ゆえに上がる声を認識できるようにしてくれます。それにわたしたちは、応答せずにはいられないようになるのです。このように耳を傾ける内的な態度をもつとは、今日、神から、神〈と同じように〉耳を傾けることを学ばせていただくことです。そこからわたしたちは、「貧しい人々の状況が上げる叫び声が、人類の歴史を通じて、わたしたちの生活、社会、政治・経済体制、とりわけ教会にたえず問いかける」ことを認識します。
断食する
四旬節は耳を傾ける季節です。そうであれば、〈断食〉は、神のことばを受け入れる準備となる具体的な実践です。実際、食べ物の節制は古来の修徳的な実践であり、回心の歩みに不可欠なものです。断食は身体にかかわるものだからこそ、わたしたちが何に「飢え」ており、自分を支えるために何が本質的なものであるかを明らかにします。さらに断食は、「欲求」を識別し秩序づけ、わたしたちをつねに義に飢え渇く者とし、諦めから解放し、祈りと隣人への責任へと導くために役立ちます。
聖アウグスティヌスは霊的な洞察をもって、次のように述べて、このように心を守ることのうちに見られる現在の時と未来の完成の間の緊張を垣間見せてくれます。「地上の生活において義に飢え渇くのは人間の務めであるが、この飢えが満たされるのは来世に属することである。天使はこのパンと食物によって満たされる。しかし人間はそれに飢え、皆がそれを望んで手を伸ばす。このように望んで手を伸ばすことが、霊魂を広げ、その能力を拡張する」。このような意味での断食は、欲求を支配し、清め、より自由にすることを可能にするだけでなく、欲求を拡張して神に向け、善を行うように方向づけます。
しかし、断食が福音的な真理を保ち、心を傲慢への誘惑から遠ざけるためには、それを信仰と謙遜のうちに実践しなければなりません。断食は主との交わりに根ざしたものであることを必要とします。なぜなら、「神のことばを糧とすることを知らない人は、本当の意味で断食しているとはいえない」からです。断食は、恵みの支えによって罪と悪から離れようとする内的な努力の目に見えるしるしとして、より節度のある生活様式を身に着けるための他のかたちの自己放棄も含むものでなければなりません。なぜなら、「節制だけがキリスト教的生活を強め、真実なものとする」からです。
そのためわたしは、きわめて具体的でありながらあまり評価されていない一つのかたちの自制を行うように皆様を招きます。すなわち、隣人を攻撃し、傷つけることばを控えることです。ことばの武装を取り除くことから始めようではありませんか。辛辣なことば、性急な判断、その場におらず弁解できない人の悪口をいうこと、中傷することをやめようではありませんか。むしろ、ことばを慎み、優しさをはぐくむことを学ぶために努力しようではありませんか。家庭の中で、友人の間で、職場で、〈ソーシャルメディア〉において、政治的な議論において、メディアにおいて、キリスト教共同体において。そうすれば、多くの憎しみのことばは希望と平和のことばに代わることでしょう。
ともに
最後に、四旬節は、みことばに耳を傾け、断食を行うことの共同体的な次元を明らかにします。聖書もこのような側面をさまざまなしかたで強調しています。たとえばネヘミヤ記では、民が律法の書の朗読を聞くために集まり、断食を行って信仰告白と礼拝の準備をし、神との契約を更新したことが語られます(ネヘミヤ9・1-3参照)。
同様に、わたしたちの小教区、家庭、教会のグループ、修道共同体も、四旬節に共同の歩みを行うように招かれます。この共同の歩みの中で、神のことばと貧しい人々と大地の叫びに耳を傾けることは、共同生活の一つのかたちとなり、断食が心からの悔い改めを支えます。このような文脈において、回心は、一人ひとりの良心にかかわるだけでなく、人間関係のあり方、対話の質、現実からも問い直され、教会共同体においても正義と和解に飢え渇く人類においても真の欲求を方向づけるもの、それを見いだす能力にもかかわります。
親愛なる友人の皆様。神ともっとも貧しい人々にいっそう耳を傾けることができるように、四旬節の恵みを願い求めようではありませんか。人を傷つけることばを減らし、他者の声のための場所を広げることによって、ことばにおいても行う断食の力を求めようではありませんか。そして、わたしたちの共同体が、苦しむ人々の叫びを受け入れ、耳を傾けることで解放の歩みを生み出し、愛の文明を築くことに役立つように進んで努めるものとなるように、努力しようではありませんか。
皆様と皆様の四旬節の歩みを心から祝福します。
2026年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって
2026年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって
日本の教会では、教皇フランシスコの意向に従って「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を四旬節・第二金曜日を祈りと償いの日と定め、2026 年にあっては、来る 3 月 6 日がこの日にあたります。
四旬節は償いと回心の時ですが、この日を教会全体として、罪を償い、特に性被害に遭った方々のために祈り、またその方々の尊厳が回復されるように尽くす決意をするのです。
最も弱い立場にある人々を守ることがイエスの生き方であるにもかかわらず、教会の指導的立場にある聖職者が過ちを犯し、被害者の方々を深く傷つけました。日本カトリック司教団として、そのことを真摯に受け止め、被害を受けた方々に心より謝罪いたします。
と同時に被害を受けた方々の傷を少しでもいやすために、教会内外のいわゆる外部専門家の方々とも協力し、ふさわしく対応していきたいと思います。
「信頼が失われることで最も苦しめられるのは、もっとも弱い立場の人、保護を必要とする人です。教会が信頼を得ていれば、透明性、説明責任、評価の実践はその信頼の堅固さに寄与します。このことは未成年者や社会的弱者の保護においてとりわけ重要です。」とシノドス最終文書は述べています。(「シノドス流の教会」97)
教会内には、被害を受けた方々の保護とケア、事例への説明責任と透明性の確保など、信頼を得るためには不十分な点が見受けられます。
今後もともに、いのちの尊厳を守り抜くための努力を怠らない教会、被害を受けた方々と歩みをともにする教会、あらゆる虐待や暴力を見過ごすことなく、すべての人が安心安全のうちに歩める教会、への変革を確固たるものにしていきたいと思います。
教皇レオ十四世、「聖フランシスコ年」を公布
教皇庁内赦院
アッシジの聖フランシスコ没後800年の特別聖年に与えられる免償に関する教令
「わたしどもの父であり兄弟であるフランシスコをしっかりと記憶に刻んでください。人々の前でこのかたを偉大なものとされ、天使たちの前でこのかたを栄(は)えあるものとされた〔神〕への賛美と栄光のために。あのおかたのために祈ってください。かつてあのおかたご自身が死の前にわたしどもに願っておられたように。そして、あのおかたに祈ってください。神があのおかたとともにわたしどもをご自分の聖なる恵みにあずかるものとしてくださいますように」(1)。
終わったばかりの2025年の通常聖年の恵みの実りは今なお現実のものであり、有効であり続けます。聖年の間、わたしたちは皆、この欺くことのない希望(ロマ5・5参照)の巡礼者となるように促されました。ここに通常聖年の理想的な継続として、喜びと聖化の新たな機会が付け加えられます。すなわち、アッシジの聖フランシスコの地上の生涯から天の祖国への幸いなる帰天(1226年10月3日)の800周年です。
近年、アッシジの聖者の人物と業績を記念する他のいくつかの重要な行事が行われてきました。グレッチョの最初の馬小屋の製作(1223年)、被造物の聖なる美への賛歌である「太陽の賛歌」の作成(1225年)、いわば新たなカルワリオ(ゴルゴタ)としてヴェルナ山で死の2年前(1224年)に起きた聖痕の800周年です。2026年はこれまでの記念行事の頂点と完成を示します。実際、それは「聖フランシスコ年」であり、すべての人は〈熾天使聖人〉の模範に倣って現代世界で聖なる者となるように招かれます。
「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか」すなわち、人類のあがない主であるイエス・キリストの名のほか、「人間には与えられていないのです」(使4・12参照)。このことが驚くべき真実であるならば、12世紀から13世紀にかけての、いわゆる聖戦と、慣習のゆるみと、誤った宗教的熱狂の時代に、「地上の世界に一つの太陽が生まれた」(2)ことは、同じように驚くべき真実です。裕福な商人の息子から、貧しくへりくだった者となったフランシスコは、世界に福音的生活の目に見える模範とキリスト教的完徳の真の姿を示す、真の〈もう一人のキリスト〉です。現代は、フランシスコが生きた時代とさほど変わりません。このことに照らして、フランシスコの教えは現代においてこれまでにまして妥当であり、理解しうるものだと思われます。キリスト教的な愛が衰えるとき、無知が悪習のように広まり、諸民族の調和を唱える人々は、真のキリスト教的精神によってというよりも、利己主義によってそれを唱えます。仮想的なものが現実を凌駕し、社会の不和と暴力が日常化し、平和が日々ますます不安定でほど遠いものとなるとき、「聖フランシスコ年」は、わたしたち皆が、それぞれの可能性に応じて、〈アッシジの貧者〉に倣い、可能なかぎりキリストを模範として自らを形づくり、終わったばかりの聖年の決意を無駄にしないようにと促します。わたしたちを巡礼者とした希望が、今や惜しみない愛の熱意と情熱へと変わりますように。
「そして、次のことをあなたがするか否かによって、あなたが主と、〔主〕とあなたとのしもべであるわたしを愛していると知りたいと思っています。次のこととはこれです。すなわち、ある兄弟が罪を犯したとします。それが犯しうる最大の罪であったとしても、あなたの眼を見た後で、あわれみを乞うたなら、その〔兄弟〕があなたのあわれみを得ることなしに帰っていくことがこの世において決してありえないようにするということです」(3)。
聖フランシスコは、有名な『奉仕の任にある某兄弟への手紙』に記されたこの驚くべきことばによって、一人の無名の兄弟に慰めと助言を与えると同時に、何よりもゆるしと免償と切り離しがたいしかたで結びついた、あわれみという根本的な概念を説明し、強調します。そして、まさに「アッシジのゆるし」ないし「ポルチウンクラの免償」として知られるこのゆるしが、800年前にアッシジの近くの「小さな土地」(そこから〈ポルチウンクラ〉という名が由来します)に建てられた古くからある教会を、告白と聖体拝領の後に8月2日に訪れた人のために、教皇ホノリオ三世がフランシスコに直接与えた、特別な特権です。
自分の祈りがキリストの代理人によって聞き届けられたのを目にした聖フランシスコが、与えられた恵みを告げる際にポルチウンクラの奉献式に出席した群衆に放ったのと同じ惜しみない熱意と喜びをもって、わたしたちの信仰と喜びの奉仕者である教皇レオ十四世は、通常聖年の終了と時を同じくする2026年1月10日から2027年1月10日まで「聖フランシスコの特別聖年」を公布することを定めます。この特別聖年により、キリスト信者は、聖フランシスコの模範に従って、自らも生活の聖性の模範、絶えざる平和の証人とならなければなりません。
提示された目的をより完全に達成するために、教皇庁内赦院は、「聖フランシスコ年」にあたって教皇の意向に従って公布する本教令により、通常の条件(ゆるしの秘跡、聖体拝領、教皇の意向による祈り)の下に、以下の人々に〈全免償〉を与えます。この〈全免償〉は代禱の形式で煉獄の霊魂にも適用されます。
1)会員。
-フランシスコ会第一、第二、第三会会員(修道会員および在俗会員)。
-聖フランシスコの戒律を守るか、聖フランシスコの精神に導かれるか、何らかの形で聖フランシスコのカリスマを受け継ぐ、奉献生活の会、使徒的生活の会、公的・私的な男女のキリスト信者の会の会員。
2)区別なしにすべての信者。
信者は、罪から離れた心をもって、何らかのフランシスコ会の教会、ないし聖フランシスコにささげられた、ないし、いかなる理由によってであれ聖フランシスコとつながりのある世界のあらゆる地域の巡礼所を巡礼の形で訪れ、そこで聖年の典礼に敬虔に参加し、または少なくとも適切な時間、敬虔な黙想を行い、神に祈りをささげます。この祈りの中で、聖フランシスコの模範に倣い、心の中に隣人に対するキリスト教的愛の思いと、諸民族の間の一致と平和への真の願いがあふれ出ることを求め、終わりに、主の祈りと、信条と、聖なるおとめマリア、アッシジの聖フランシスコ、聖クララ、フランシスコ会家族のすべての聖人への祈願を行います。
高齢者、病者、そのケアを行う人、重大な理由で家から出ることができない人も、いかなる罪からも離れ、通常の三つの条件をできるだけ早く果たす意向の下に、自分の祈りと人生における苦しみと痛みをあわれみ深い神にささげながら、聖フランシスコ年の典礼に霊的に参加することによって、全免償を与えられることができます。
教会の鍵の権能を通じて神の恵みを得るこのような機会が容易に実現できるために、教皇庁内赦院は、修道司祭と在俗司祭を含めた、適切な権限を授けられたすべての司祭に対し、速やかで寛大であわれみ深い心をもって、ゆるしの秘跡を進んで授けることを強く願います。
本教令は、聖フランシスコ年の期間中、有効です。対立する規定類がある場合、本規定が優先します。
ローマ、教皇庁内赦院にて
2026年1月10日、主の洗礼の祭日
内赦院長
アンジェロ・デ・ドナーティス枢機卿
内赦執行官
クシストフ・ヨゼフ・ニキエル ヴェリア名義司教
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