カトリック教会のお知らせ

ローマ教皇フランシスコの葬儀ミサ
2025-04-23
注目重要

2025年4月22日(火)、教皇儀典室はローマ教皇フランシスコの葬儀ミサについて次の発表を行いました。
――― 
ローマ教皇フランシスコの葬儀ミサについての通知

「9日間の祈り」の第1日、2025年4月26日(土)午前10時(日本時間同日午後5時)、サンピエトロ広場で、『ローマ教皇の葬儀規則(Ordo Exsequiarum Romani Pontificis)』(第82-109条)の規定に従い、ローマ教皇フランシスコの葬儀ミサがささげられます。

葬儀は枢機卿団の首席枢機卿のジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿が司式します。

共同司式者は以下の方々です。

・総大司教と枢機卿の皆様は、ダマスク織りの白のミトラをお持ちの上、午前9時(日本時間午後4時)までに、サンピエトロ大聖堂のサン・セバスティアーノ礼拝堂にお越しください。

・大司教と司教の皆様は、ご自身のアミクトゥス、アルバ、チングルム、単純な白のミトラをお持ちの上、午前8時30分(日本時間午後3時30分)までに、「コンスタンティヌスの腕」にお越しください。

・司祭の皆様は、午前8時30分(日本時間午後3時30分)までに、ご自身のアミクトゥス、アルバ、チングルム、赤いストラをご着用の上、サンピエトロ広場の指定の席に直接お越しください。

感謝の祭儀の終わりに、「最後の死者のための祈り」(ltima commendatio)と「告別の祈り」(Valedictio)が行われます。ローマ教皇の棺はサンピエトロ大聖堂に運ばれ、そこからサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に運ばれます。

***

自発教令『ポンティフィカリス・ドムス』(Pontificalis Domus)に従い、共同司式をせずに感謝の祭儀に参加するバチカン参事会参事会員は、e-mailのcelebrazioni@celebra.vaで指示される通知をお守りください。ご自身の典礼用祭服(アビトゥス・コラーリス)をご着用の上、午前9時(日本時間午後4時)までにサンピエトロ広場にお越しくださり、教皇儀典室が指示する席にご着席ください。

バチカン市国、2025年4月22日
枢機卿団の指示により

ディエゴ・ラヴェッリ
レカナーティ名義大司教
教皇儀典室儀典長

「カトリックジャパンニュース」がスタートしました
2025-04-03
注目オススメ

3月末で休刊となった週刊「カトリック新聞」に代わり、カトリック教会に関するニュースをウェブ上でお届けする「カトリックジャパンニュース」が始まりました。

教皇フランシスコの言動や、バチカンはじめ国内外のニュース、主日の福音解説などを掲載しています。ぜひご覧ください。


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2011年3月11日東京電力福島第一原子力発電所事故から14年 「神をたたえよ、造られたすべてのもののゆえに」(日本カトリック正義と平和協議会)
2025-03-11
注目
2011年3月11日東京電力福島第一原子力発電所事故から14年
「神をたたえよ、造られたすべてのもののゆえに」



 2024年1月に発生した能登半島地震によって、北陸電力志賀原子力発電所の災害時避難対策の不備、福島第一原発事故が13年経っても教訓として生かされていなかったことが、明らかになりました。あれから1年が経ち、2月18日、政府は「第7次エネルギー基本計画」を発表しました。その本文は、次のような文言から始まります。

 東日本大震災及び東京電力福島第一原子力発電所事故からまもなく14年が経過するが、東京電力福島第一原子力発電所事故の経験、反省と教訓を肝に銘じて、エネルギー政策を進めていくことが、エネルギー政策の原点である。

 ところがその内容は、原子力を再生可能エネルギーと並ぶクリーンなエネルギーであるとし、既存原子炉再稼働の加速、核燃料サイクルの推進、福島原発事故後に生じた「除去土壌」の再生利用や放射性廃棄物の地層処分の推進などが謳われ、政府があからさまな原発回帰へ向かおうとしていることは疑いようのない、驚くべきものでした。
 そこには、2014年以来、エネルギー基本計画に示されてきた「可能な限り原発依存度を低減する」姿勢はもはや跡形もなく、原子力の「最大限活用」は既定事項とされています。
 これでは福島原発事故の重い経験はなかったも同然であり、事故前に比較しても著しい後退と言わざるをえません。事故被害者の経験は蔑ろにされ、上掲した冒頭の文言は単なる形式にすぎなかったと判断する他ありません。

 原発であれ、核兵器であれ、核の技術とは、生態系全体と人間の社会生活に取り返しのつかない大惨事をもたらす危険性と、人を恐怖によって支配する圧倒的な力を持ち、豊かなもの、強いものが貧しいもの、弱いものを搾取する構造上にのみ可能であり、そしてその使用によって不均衡は一層深刻なものとなる、不正義の技術に他なりません。2011年3月11日の福島原発事故以来、日本のカトリック教会は、以上のように訴え続けてまいりました。
 日本は、第二次世界大戦において2度にわたり世界で初めての原爆による攻撃を受け、さらには冷戦下の太平洋核実験における被曝、福島第一原発事故による広域の放射能汚染と、今日考えうるあらゆる核の災禍を経験し、核とはどのようなものかを他国に増して知っているはずの国です。人類はこのような技術と一刻も早く決別しなければならず、日本こそ、そのために働く、特別な使命を担っているのです。

 日本カトリック正義と平和協議会は、「第7次エネルギー基本計画」に反対し、真に原発事故の「経験、反省と教訓」に立脚したエネルギー政策への転換を求めます。地球温暖化が進み、国際情勢がかつてないほどに不安定な2025年、人類を含むすべての生命の尊厳が危機に陥っています。私たちは、今すぐ核の技術を手放し、いかなる分断の壁も乗り越えて一致し、生命の価値にこそ回帰しなければなりません。

Prot.no.SC-JP24-07
2025年3月11日

日本カトリック正義と平和協議会
会長 ウェイン・バーント
担当司教 エドガル・ガクタン
協議会一同

2025年 四旬節教皇メッセージ(2025.3.5)
2025-03-02
注目オススメ
2025年四旬節教皇メッセージ
希望をもってともに歩んでいきましょう

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 灰を受ける悔い改めの式をもってわたしたちは、今年の四旬節の旅を信仰と希望を胸に歩み始めます。母であり教師である教会は、神の恵みに心を開くようわたしたちを招いています。罪と死に打ち勝った主キリストの復活の勝利を、大きな喜びをもって祝えるようになるためです。聖パウロにこう叫ばせたようにです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(一コリント15・54−55)。まさしく、十字架にかけられ復活したイエス・キリストこそ、わたしたちの信仰の中心であり、御父の最大の約束を信じるわたしたちの希望の保証です。そして、御父の愛する子キリストにおいて、約束はすでに実現しています。それは永遠のいのちです(ヨハネ10・28、17・3参照)1

 聖年の恵みにあずかる中でのこの四旬節に、「希望をもってともに歩む」ことの意味について、また、いつくしみをもって神がわたしたち皆に――個人としても共同体としても――呼びかけておられる回心の招きについて、少し考えてみたいと思います。

 初めは、「歩む」についてです。聖年のモットー「希望の巡礼者」が思い起こさせるのは、出エジプト記に描かれている、約束の地へと向かうイスラエルの民の長い旅路です。奴隷状態から自由へのこの険しい道のりをお望みになり導かれたのは、ご自分の民を愛し、その民につねに忠実であられる主です。聖書の出エジプトを考えるとき、現代にあって、自分や愛する家族のよりよい生活を求め、困窮や暴力から逃れようとして旅立つ兄弟姉妹のことを思わずにはいられません。ここで、回心の最初の呼びかけが生まれます。わたしたちのだれもが旅する者なのですから、だれもが自らに問わなければなりません。――こうした現状に自分は問いただされているだろうか。道を進んでいるのか、それとも恐れや絶望から硬直して動けなくなっているのか、楽な場所から抜け出せなくなってはいないだろうか。罪を犯したり自らの尊厳を貶めたりする状況から離れる道を探しているだろうか――。移民や移住者の具体的な現実に向き合い、それに実際にかかわって、御父の家へと向かうよりよい旅人となるため、神がわたしたちに何を求めているかを見いだすことは、四旬節のよい鍛錬となるでしょう。それは、旅する者皆にとって、よい「意識の糾明」です。

 第二は、「ともに」歩むについてです。ともに歩む、シノドス的であること、これが教会の使命です2。キリスト者は決して孤高の旅人ではなく、ともに旅するよう呼ばれています。聖霊は、自分自身から出て神と兄弟姉妹に向かうよう、決して自分自身を閉じないよう、突き動かしておられます3。ともに歩むということは、神の子としてともに有する尊厳を基盤とした一致の作り手となるということを意味します。それは、人を踏みつけたり押しのけたりせず、ねたんだりうわべの振る舞いをしたりせず、だれも置き去りにしたり疎外感を覚えさせたりせずに、肩を並べて歩むということです(ガラテヤ3・26−28参照)。愛と忍耐をもって互いに耳を傾け合いながら、同じ方向に向かって、同じゴールを目指して、歩んでゆきましょう。

 この四旬節、神がわたしたちに求めるのは、生活において、家庭で、職場で、小教区や諸共同体において、他者とともに歩めているか、その声に耳を傾けられているか、自己中心的になったり自分の必要だけを考えたりする誘惑に屈せずにいられているかということです。神の国のため、司教として、司祭として、奉献生活者として、信徒として、他者と協力して働くことができているか、主のみ前で自らに問うてみましょう。身近な人に対しても、遠くの人に対しても、具体的な振る舞いをもって受け入れる態度を示せているだろうか。他者が自分も共同体の一員と感じられるようにできているだろうか、社会の周縁に置き去りにしてはいないだろうか4。これが回心への第二の呼びかけ、つまりシノダリティへの転換です。

 第三は、約束に対する「希望をもって」ともに歩むについてです。希望は欺かない(ローマ5・5参照)――、この聖年の中心メッセージ5が、復活の勝利へ向けた四旬節の歩みの展望となりますように。教皇ベネディクト十六世が回勅『希望による救い』で教えるとおり、「人間は無条件の愛を必要としています。人間はこういわせてくれる確信を必要としています。『死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです』(ローマ8・38−39)」6。わたしたちの愛であり希望であるキリストは復活し7、栄光のうちに、生きて、治めておられます。死は勝利となり、キリスト者の信仰と大いなる希望は、キリストの復活にあるのです。

 ですから回心への第三の呼びかけは、希望への、神とその大いなる約束である永遠のいのちを信頼することへの招きです。自らに問いましょう。主はわたしの罪をゆるしてくださると確信しているだろうか。それとも、自分を救えるかのように振る舞っているのではないだろうか。救いを切望し、それを求めて神の助けを祈っているだろうか。歴史の出来事を解釈できるようにし、正義と兄弟愛、共通の家のケアに務めさせ、だれ一人取り残されることがないようにする希望を、具体的に抱いているだろうか――。

 姉妹の皆さん、兄弟の皆さん、イエス・キリストにおいて示される神の愛によって、わたしたちは欺くことのない希望(ローマ5・5参照)のうちに置かれています。希望は「魂にとって頼りになる、安定したいかり」8です。その希望のうちに教会は、「すべての人々が救われるよう」(一テモテ2・4)祈り、天の栄光の中で花婿キリストと一つに結ばれることを待ち望みます。アヴィラの聖テレジアの祈りはこうです。「希望しなさい、希望するのです。あなたはその日、その時を知らないのです。よくよく目を覚ましていなさい。あなたが確かなことを疑い、短い時を長く感じている間に、すべては矢のように過ぎ去るからです。」(『神への叫び』15・3)9

 希望の母であるおとめマリアが、わたしたちのために執り成し、四旬節の歩みをともに歩んでくださいますように。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2025年2月6日 聖パウロ三木と同志殉教者の記念日
フランシスコ

2025年「第33回世界病者の日」教皇メッセージ
2025-02-06
注目
2025年「第33回世界病者の日」教皇メッセージ
「希望は欺かない」(ローマ5・5)
試練のときにわたしたちを強めてくれる

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 わたしたちは2025年の聖年に第33回「世界病者の日」を祝います。この聖年に教会はわたしたちに「希望の巡礼者」となるよう促しています。この旅路には、神のことばが聖パウロを通して伴ってくださいます。大きな励ましとなるメッセージを与えてくださっているのです。「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5・5)。まさに、希望は試練のときにわたしたちを強めてくれます。

 このことばには慰められます。ただ、とくに苦しんでいる人々にとっては、難しい問いかけにもなるのです。たとえば、からだが重い病気で弱っているとき、そして、その治療には払えそうもない高額な費用がかかるときに、わたしたちは強くあり続けることができるでしょうか。わたしたち自身の苦しみに加えて、わたしたちを支えてくれている、愛する人たちもわたしたちを助けることに無力感を覚えているときに、まだ力があると示すことができるでしょうか。こうした状況にあって、わたしたちは自分よりも強い力による支えが必要なことを感じます。神の助けが必要になるのです。神の恵み、神のみ摂理、神の霊のたまものである力です(『カトリック教会のカテキズム』1808参照)。

 それではここで、神がどれほど苦しんでいる人の近くに寄り添ってくださるのかについて考えてみましょう。とくに、その寄り添いが表れる三つの様相があります。出会いとたまもの、分かち合いです。

1.出会い。イエスは72人の弟子たちを宣教に派遣したとき(ルカ10・1-9参照)、病者たちにこういうよう命じます。「神の国はあなたがたに近づいた」(同9節)。こうして、たとえ苦痛を伴い、理解に苦しむような病にあっても、主との出会いの機会を得られるよう助けなさいと求めているのです。実際、病に見舞われたときには、わたしたちは人間としての弱さを、身体的、心理的、そして精神的な弱さを感じます。それでも、わたしたちは神の寄り添いと共感を体験することもできます。イエスはわたしたちと苦しみをともにしてくださったのです。神はわたしたちを見捨てることはなく、時として、わたしたちが思いもせず、決して見いだすこともなかった力を授かっていたことに気づかせ、驚かせてくださいます。

 そうして病は、わたしたちを変える出会いの機会になります。人生の嵐に遭ったときにも、しっかりとつかまることのできる堅固な岩を見いだすのです。その体験は、たとえ大きな犠牲を伴っても、わたしたちをより強くしてくれます。わたしたちが独りぼっちではないことを分からせてくれるからです。このことから、苦しみそのものが救いの神秘をもたらすということもできます。神の慰めに満ちた現存の寄り添いを実際に体験させてくれるからです。こうしてわたしたちは、「その約束といのちのすべてを通して福音の豊かな完全さを知る」(聖ヨハネ・パウロ二世教皇「米国司牧訪問時の若者たちへの講話」ニューオーリンズ、1987年9月12日)のです。

2.このようにして、わたしたちは二つ目の様相であるたまものに思い至ります。確かに、苦しみほど、あらゆる希望は主から来ることに気づかせてくれるものはありません。それは、何より第一に、受け取り、はぐくむための恵みなのです。尊者マドレーヌ・デルブレルの美しい表現によると、「神の忠実さに忠実」であり続けることです(『希望は暗闇の中の光』序文[La speranza è una luce nella notte, Vatican City 2024]参照)。

 それでも、キリストの復活のうちにだけ、わたしたちの人生は永遠の限りない地平の中にその行き先を見いだすのです。主イエスの復活のうちにだけ、わたしたちは確信するに至ります。「死も、いのちも、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、……神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8・38-39)。この「偉大な希望」は、わたしたちが人生の試練や障害を乗り越える助けとなる何か他のかすかな光を生み出します(ベネディクト十六世回勅『希望による救い』27、31参照)。それだけでなく、復活された主はわたしたちとともに歩み、わたしたちの旅に同伴してくださるのです。エマオに向かう弟子たちのためにそうされたとおりです(ルカ24・13-53参照)。その弟子たちと同じように、わたしたちも迷いや心配事、失望を主と分かち合うこと、またわたしたちを照らし、心を燃え立たせてくださる主のみことばを聞くことができます。そして、パンを裂くことでわたしたちも主の現存に気づくことができます。主がわたしたちとともにおられることを通して、現在という制約の中にあっても、その「向こう側」が近づいてくることで、勇気と自信を取り戻すことができるのです。

3.そして、三つ目の様相に行き着きます。分かち合いです。苦しみのあるところは、しばしば分かち合いの場でもあります。そこでは互いを豊かにし合うことができます。わたしたちは何度となく、病者の床に寄り添うことによって希望を抱くすべを学ぶことでしょう。何度となく、苦しむ人に寄り添うことで、信じることを学ぶことでしょう。何度となく、困窮している人の世話をすることで、愛を見いだすことでしょう。わたしたちは、互いに、希望の「天使」のように、神の使者のようになっていることに気づくのです。わたしたちは皆、一緒です。患者も医師も、看護師も家族も、友人も司祭も、修道者も。どこにいようと、家庭にいようと、救急病院にいようと、養護施設にいようと、病院にいようと、診療所にいようと。

 そして大切なのは、このような恵みに満ちた出会いに美しさと価値を見いだし、忘れることのないよう心に刻むすべを学ぶことです。大切に心の内にしまうのです。看護師の優しいほほ笑みを、患者の信頼と感謝にあふれるまなざしを、医師やボランティアの思いやりと気配りに満ちた顔を、伴侶や子どもたち、孫たち、親友たちの期待と不安に満ちた顔を。こうしたすべては、大切な宝になる光で、試練の暗い夜のただ中にあってさえも、わたしたちに力を与えてくれるだけでなく、いのちと愛と寄り添うことの真の意味を示してくれるのです(ルカ10・25-37参照)。

 親愛なる病者の皆さん、苦しむ人を支えている兄弟姉妹の皆さん。この聖年に皆さんはいまだかつてないほどの特別な役割を果たしています。皆さんがともに歩む旅路は、実にすべての人にとってのしるしなのです。「人間の尊厳への賛歌であり、……希望の歌です」(大勅書『希望は欺かない』11)。その歌声は皆さんがおられる医療施設の病室や病床の外にまで響き、愛のうちに「社会全体の調和ある行動」(同)を促し、励まします。そのハーモニーの実現は時に難しいのですが、まさにそのために、とても甘美で力強く、それがもっとも必要とされるところに光とぬくもりを届けることができるのです。

 こうしたことから、全教会は皆さんに感謝しています。わたしも同じように感謝し、いつも皆さんのことを祈りのうちに思っています。わたしは皆さんを、多くの兄弟姉妹が困難なときにマリアにささげる祈りをもって、病者の救いであるマリアにゆだねます。

神の御母よ、わたしたちはご保護を仰ぎます。
いつ、どこでもわたしたちの祈りを聴き入れ、
御助けをもってすべての危険から守ってください。
(カルメロ神父編『カトリック祈祷書 祈りの友』[発売・カルメル会宇治修道院、サンパウロ]より)

わたしは皆さんとご家族、皆さんの愛する人たちに祝福を送ります。
そして皆さんにお願いします。どうか忘れずに、わたしのために祈ってください。

ローマ
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2025年1月14日
フランシスコ

2025年キリスト教一致祈祷週間(1月18日~25日)
2025-01-17
注目


「あなたは このことを信じますか」(ヨハネ11・26)

 2025年のキリスト教一致祈祷週間は、2025年1月18日(土)~25日(土)、全世界で行われます。今回のテーマは、「あなたは このことを信じますか」(ヨハネ11・26)です。

 2025年は、コンスタンチノープル近郊のニケアで最初の公会議が開かれてから1700年目にあたります。これを記念することは、キリスト者の共通の信仰を振り返るために極めて意義深いことです。そこで、2025年の「キリスト教一致祈祷週間」は、キリスト者がこの生きた信仰の遺産をあらためて探求し、現代の文化に沿ったかたちで再解釈することを目的とし、ニケア公会議とその決定に至った聖書的土台と教会の経験を、祈りのうちに深める機会としたいと思います。
 ニケア公会議を記念するこの年、キリスト教一致祈祷週間におけるエキュメニカル礼拝は、信じることの意味、さらに「わたしは信じます」と「わたしたちは信じます」という、個人または共同体としての信仰の確認を中心に行われます。

 日本でも、世界に広がる教会と心を合わせてキリスト者の一致を祈るため、カトリック中央協議会と日本キリスト教協議会が共同で翻訳した資料を小冊子『キリスト教一致祈祷週間』として発行し、ポスターとともにご案内しています。小冊子には以下の内容が盛り込まれています。

・その年のテーマの解説
・エキュメニカル礼拝式文
・八日間の聖書の黙想と祈り
・作成担当国のエキュメニズムの紹介

 この小冊子は、キリスト教一致祈祷週間の期間だけでなく、一致を求める個人の祈りや共同の祈りのために年間を通して用いることができるよう配慮されています。

小冊子・ポスター申込み要領

 お申込みご希望の方は、希望送付先の氏名・団体名・所在地・電話番号・FAX 番号・メールアドレス・希望部数を明記の上、PDFのFAX申込書にてお申し込みください(FAX申込書)。在庫に限りがありますので、お早めにどうぞ!
 小冊子およびポスターはともに無料ですが、送料のみ受取人払いとなっています。

数に限りがありますので、お早めにお申し込みください。
小冊子はダウンロードも可能です。合わせてご利用ください。

お申し込み先

カトリック中央協議会 エキュメニズム部門 (カトリック側受付窓口)
Fax 03-5632-4465
135-8585 東京都江東区潮見2-10-10
Tel 03-5632-4445

日本キリスト教協議会
Fax 03-6302-1920
169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-24
Tel 03-6302-1919

ご寄付のお願い

一致祈祷週間冊子、ポスター作成およびエキュメニズムの活動推進のための寄付も随時、受け付けています。ご協力のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

送金方法

郵便局の払込用紙(青色:手数料ご負担)にて、お願いいたします。

振込口座:00130-6-36546
加入者名:(宗)カトリック中央協議会 一般会計口
※通信欄に「キリスト教一致祈祷週間」と明記してください。

2025年「世界平和の日」教皇メッセージ(2025.1.1)
2025-01-02
注目
第58回「世界平和の日」教皇メッセージ
(2025年1月1日)


わたしたちの負い目をゆるしてください、あなたの平和をお与えください

Ⅰ.危機に瀕する人類の叫びを聞いて

1.天の御父が与えてくださったこの新しい年、希望を掲げる聖年の幕開けにあたりお伝えします。すべての人に、とりわけ自身の境遇に打ちひしがれ、自らの過ちに苛まれ、他者の裁きに押しつぶされ、もはや人生に光なく未来が描けずにいる人にこそ、平和があるようせつに願っています。すべての皆さんに、希望と平和がありますように。今年は、あがない主のみ心からもたらされる、恵みの年だからです。

2.2025年の間に、カトリック教会は聖年を祝います。人々の心を希望で満たす出来事です。「聖年」の起源は、古代ユダヤの伝統にまでさかのぼるものです。それは、49年ごとにすべての民に債務帳消しと解放を告げる、雄羊の角笛(ヘブライ語で「ヨベル」)が鳴り響く時でした(レビ25・10参照)。この荘厳な笛の音は、理念としては国中に響き渡るべきもので(レビ25・9参照)、生活のさまざまな領域において、たとえば土地の使用、財産の所有、隣人との関係、とりわけもっとも貧しい人や不幸にある人との関係において、神の義を取り戻すことを求めるものでした。角笛の響きは、富める人にも貧しい人にも、すべての民に思い起こさせます。虐げられるためにこの世に生まれてきた人はいないのだと――、わたしたちは同じ御父の子らであり、兄弟姉妹なのだと――、主のみ心のままに自由な者となるよう生まれてきたのだと――(レビ25・17、25、43、46、55参照)。

3.現代においても聖年は、解放という神の義を地上のすべてに求めるよう、わたしたちを駆り立てる出来事です。この恵みの聖年の始まりに、角笛の代わりに、「助けを求める必死の訴え」1に耳を傾けたいと思います。その訴えは、義人アベルの血が叫んだように、大地のさまざまな場所からわき上がるもので(創世記4・10参照)、神はそれを決して聞き逃すことはありません。そしてわたしたちもまた、地球を搾取し、隣人を抑圧する多くの状況に対して、声を上げるよう迫られていると自覚します2。そうした不正義は、聖ヨハネ・パウロ二世が「構造的な罪」3と定義した様相を呈することがあります。それらは一部の人の罪によるだけでなく、いわば、広範な共犯関係が加担し、強固になったものだからです。

4.間接的であったとしても、人類を苦しめている争いをあおる行為をはじめとして、共通の家に対する破壊行為に対し何らかの責任があることを、一人ひとりが自覚しなければなりません。そうして別々の、けれども相互に関連する構造的な課題が拡大し、絡み合い、この地球を苦しめることになるのです4 。具体的には、あらゆるたぐいの不平等、移住者への非人道的対応、環境破壊、悪意をもって偽情報から引き起こされる混乱、あらゆる対話の拒絶、軍需産業の巨額の資金調達に関与することです。このどれもが、人類全体の生存にとって具体的な脅威となる要因です。それゆえ、この年の初めに、人類のこうした叫びに耳を傾けたいと思います。そしてともに、また個々人で、不正義の鎖を断ち切り、神の義を告げ知らせるよう呼ばれているとの自覚をもちたいと思います。各所で慈善活動を積み重ねるだけでは足りません。それ以上に、持続的な変化をもたらすには、文化的・構造的な変革が必要なのです5

Ⅱ.文化の変革――わたしたちは皆、負い目がある

5.聖年という出来事は、不正義と不平等の現状に立ち向かうため、わたしたちにさまざまな変革を促すものであり、地上の富は一部の特権階級だけのものではなく、すべての人のものであることを思い起こさせてくれます6。カイサリアの聖バジリオが記したものを思い起こすといいでしょう。「何があなたのものなのか、教えてください。あなたはそれをどこからもってきて、自分の人生に取り込んだのですか。……あなたは母の胎から、何もまとわず裸で出てきたのではないですか。そして再び、裸で土に還るのではないですか。今あなたが手にしている富は、どこから来たのですか。たまたま自分にもたらされたというのなら、それは神の否定であり、創造主を認めないことで、与え主であるかたへの感謝がないということになるでしょう」7。感謝が欠ければ、神の恵みが分からなくなってしまいます。けれども、限りないいつくしみをもって主は、ご自分に対して罪を犯した者を見捨てることなく、むしろ、イエス・キリストを通してすべての人に与えられる救いであるゆるしによって、いのちのたまものを確かなものとしてくださるのです。だからこそ、イエスは「主の祈り」を教え、「わたしたちの負い目をゆるしてください」(マタイ6・12)と祈るよう招いているのです。

6.御父とのきずなを見失うと、その人は、他者との関係性は搾取の論理でもって支配しうるという考えを抱くようになります。強者には弱者をほしいままにする権利があるとする論理です8。イエスの時代のエリートたちが貧しい人々の苦しみを利用していたように、現代の、互いに結びついている地球村においても9、国際システムが連帯と相互扶助の論理を燃料としなければ、不正義が生じ、腐敗によってそれに拍車がかかり、もっとも貧しい国々を陥れることになります。債務者からは搾取してよいという論理はまた、とくにグローバル・サウスで数々の国を苦しめている、現在の「債務危機」の要旨ともいえます。

7.対外債務が支配の手段となっており、この債務を通じて富裕国の政府や民間金融機関が、自国市場の需要を満たすために、貧困国の人的資源・天然資源を見境なく搾取することに何のためらいももたずにいることを、わたしは訴え続けます10。加えて、すでに国際債務に苦しむ国々の民が、先進国のエコロジカルな債務という重荷までも背負わざるをえなくなっています11。エコロジカルな債務と対外債務は同じコインの裏表であり、搾取の論理の産物で、これが債務危機というかたちで頂点に達しているのです12。この聖年をきっかけに、国際社会に呼びかけます。世界の南北間にあるエコロジカルな債務の存在を認識しつつ、対外債務の帳消しに向けた取り組みを進めてください。これは、連帯への呼びかけであると同時に、何よりも正義を求めるものなのです13

8.この危機を乗り越えるための文化的・構造的変革は、最終的に、わたしたち皆が御父の子であるとの自覚をもち、神のみ前ではだれもが負い目のある者であるとともに、皆が互いを必要としているのだと告白するときに実現するでしょう。それは、共有され、それぞれに異なる責任の論理に呼応するものです。「わたしたちには互いが必要で、互いに対し義務を負っていることに、はっきり気づく」14ことができるはずです。

Ⅲ.希望の旅路――取りうる三つの行動

9.わたしたちがこれら必要な変革に心動かされたならば、この恵みの聖年は、一人ひとりに希望の道を再び開いてくれるでしょう。希望は、神の永遠に限りのないいつくしみを経験することから生まれるのです15

 神は、だれに対しても負い目なく、すべての人に恵みといつくしみを絶え間なく与え続けておられます。7世紀の東方教会の教父、ニネベのイサクは次のように記しています。「あなたの愛は、わたしの負い目よりはるかに大きなものです。わたしの罪の数は、海の波の数すらささやかなものにしてしまうほどですが、わたしの罪を天秤にかけてあなたの愛と比べるなら、それは何もなかったかのように消えてしまいます」16。神は人間が犯した悪を数えることはなさいません。きわめて「あわれみ豊かな神は、わたしたちをこのうえなく愛してくださる」(エフェソ2・4)のです。そうしてまた、貧しい人の叫びと、大地の叫びを聞いておられます。この年の初めに、しばし立ち止まって、神がわたしたちの罪をそのたびにゆるし、すべての負い目をゆるしてくださる恵みを思い起こすなら、わたしたちの心は、希望と平安で満たされるでしょう。

10.だからこそイエスは、「主の祈り」に、要求の厳しい文言を入れています。わたしたちの負い目をゆるしてくださいと御父に願った後で、「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるします」と加えています(マタイ6・12参照)。他者の負い目をゆるし、その人に希望を与えるには、まさしく、神のいつくしみからもたらされる同じ希望で、自分の人生が満たされていなければなりません。希望は、勘定を抜きにした寛大さの中にあふれ、債務者からの支払いに執心せず、自分の利益を案じずに、一つの目的だけを見据えています。倒れた人を立ち上がらせ、折れた心をいやし、いかなる形態であれ奴隷状態から解放するのです。

11.そこでわたしは、この恵みの聖年の始まりにあたり、債務危機を打開し、すべての人が自分はゆるされた債務者であるとの思いを新たにできるよう、すべての人民の生活に尊厳を回復し、希望の道に立ち帰らせることのできる、3つのアクションを提案したいと思います。

 まず第一に、2000年の大聖年に際し聖ヨハネ・パウロ二世教皇が打ち出した、「多くの国々の将来に深刻な脅威となっている累積債務をすべて帳消しにしないまでも、大幅に削減すること」17を検討するようにとの呼びかけを再び取り上げたいと思います。エコロジカルな債務を認識することで、富裕国には、あらゆる手を打って、返済の困難な国々の債務を免除するという使命感をもっていただきたいのです。ただしそれを単発の温情措置で終わらせると、新たな融資と債務という悪循環を引き起こす危険があるので、新しい金融制度を同時に構築する必要があります。諸国民の間での連帯と調和を基盤とした、金融界のグローバルな憲章の策定を目指すべきです。

 また、受胎から自然死に至るまで、人間のいのちの尊厳の尊重を促進するための、断固とした取り組みを求めます。すべての人が自分のいのちを愛し、将来に希望をもち、自分自身と自分の子どもたちの発展と幸福を望めるようにするためです。事実、人生への希望がなければ、新たないのちを生み出したいという望みが、とくに若い世代の心には芽生えにくいのです。ここではとりわけ、いのちの文化を促進する具体的な行動をあらためて呼びかけたいと思います。あらゆる国で死刑を廃止することです。この刑罰は実際、いのちの不可侵性を損なうだけでなく、ゆるしと再生という人間の希望をも完全に打ち砕くのです18

 加えて、幾多の戦争に彩られたこの時にあって、若い世代のために、聖パウロ六世とベネディクト十六世19を支えに、もう一つのことをためらうことなく訴えます。軍事費のせめて一定の割合を、飢餓撲滅と、持続可能な開発を促して気候変動に立ち向かえるようにするための最貧国での教育活動を支援する、世界基金設立に充ててください20。若者たちが思い描く未来を、希望のないものや、愛する家族の流した血に対する復讐で覆われたものにすることになる口実を、一掃する努力が必要です。未来は、過去の過ちを乗り越えて進むための贈り物、平和への新たな道を築くための贈り物です。

Ⅳ.平和というゴール

12.提案された行動によって希望の旅を始める人は、平和という悲願のゴールが近づいてくるのを見るでしょう。詩編作者は固く約束します「いつくしみとまことが出会う」とき、「正義と平和は口づけする」(詩編85・11)。債務という武具を手放し、兄弟姉妹の一人にでも希望の道を再び開くなら、それは神の義をこの地上に回復させることへの貢献であり、平和というゴールへ向けてその人とともに歩み出すことなのです。聖ヨハネ二十三世が語ったように、真の平和は、戦争の苦悩と恐怖から解き放たれた心からしか生まれません21

13.2025年が、平和の広がる年となりますように。条約の細則の解釈や人間の妥協の場にとどまらない、真の永続的な平和です22。真の平和を求めましょう。武装を解いた心に、神が与えてくださる平和を。どこまでが自分のもので、どこまでが相手のものか計算することに固執しない心、自己中心性が砕かれ、他者との出会いに向かう意欲のある心、神に対して負い目がある自分であることをきっぱりと認め、だからこそ、苦しむ隣人の負い目をゆるす心、この世界にとってはすべての人が財産であるという希望を抱き、未来への不安を乗り越える心です。

14.心の武装解除は、最初の人から最後の人まで、小さな人から大きな人まで、裕福な人から貧しい人まで、すべての人を巻き込む行為です。「ちょっとしたほほえみ、親しみのしぐさ、兄弟としてのまなざし、真摯な傾聴、無償の奉仕」23といった単純なことで十分なときもあります。このような小さくも偉大な行為によって、わたしたちは平和というゴールに近づきます。そして、その途上で兄弟姉妹と再び巡り会い、出発のときとは違う自分になっていると気づくなら、それだけ早く平和にたどりつけるでしょう。実際、平和は戦争の終結によってのみもたらされるものではなく、新しい世界の始まりとともに到来するのです。そこは、皆それぞれ違いがあることを理解し、思い描いていた以上に、一致を深め兄弟姉妹であることが感じられる世界です。

15.主よ、わたしたちにあなたの平和をお与えください――。これこそわたしが、国家元首、政府要人、国際機関責任者、諸宗教指導者、そしてすべての善意のかたがたに、新年のごあいさつを申し上げるにあたって、神にささげる祈りです。


主よ、わたしたちの負い目をゆるしてください、
わたしたちも自分に負い目のある人をゆるします。
この互いにゆるし合う輪の中に、あなたの平和をお与えください。
心の武具を脱ぎ去った者たちに、
希望をもって兄弟姉妹の負い目をゆるそうとする者たちに、
あなたに負い目があることをすすんで告白する者たちに、
貧しい人の叫びに耳を閉ざすことのない者たちに、
あなただけが与えることのできる平和をお与えください。

バチカンにて
2024年12月8日
フランシスコ

教皇フランシスコ、2024年降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2024.12.25)
2025-01-02
注目

教皇フランシスコ、2024年降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、クリスマスおめでとうございます!

 この夜、わたしたちを驚かせ、わたしたちの心を揺さぶることをやめない神秘がまた新たにされました。おとめマリアは神の御子イエスを産みました。イエスを布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。こうして、ベツレヘムの羊飼いたちは喜びにあふれて主を探し当てます。天使たちは賛美の歌を歌っていました。「神に栄光、人々には平和」(ルカ2・6ー14参照)。人々に平和がありますように。

 そうです。二千年以上前に起きたこの出来事は、聖霊のわざによって繰り返されます。愛といのちの霊である方はマリアを身ごもらせ、その人のからだの中でイエスは育ちます。そして今日、このわたしたちの時代の苦しみの中で、主は新たに人となられ、真に永遠の救いのことばとなられます。そして、すべての人に、そして全世界に言われます。これがそのメッセージです。「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたをゆるす。わたしに立ち帰りなさい。わたしの心の扉は、あなたのために開かれている」

 姉妹、兄弟の皆さん、神の心の扉はいつも開かれています。主に立ち帰りましょう。わたしたちを愛して、ゆるしてくださる心に立ち帰りましょう。主にゆるしていただきましょう。主と和解させていただくのです。神はいつもゆるしてくださいます。神はすべてをゆるします。わたしたちは主にゆるしていただきましょう。

 これが、わたしが昨夜、この聖ペトロ大聖堂で開いた聖年の聖なる扉が示していることです。すべての人のために開かれている救いの門であるイエスを示しているのです。イエスは門です。イエスは、いつくしみ深い御父が、この世のただ中、歴史のただ中で開かれた門です。それは、すべての人が主に立ち帰ることができるようにするためです。わたしたちは皆、失われた羊のようであり、牧者を必要としていて、御父の家に帰るための門を必要としているのです。イエスは牧者であり、門です。

 兄弟姉妹の皆さん、恐れてはいけません。門は開かれています。門は開け放たれているのです。その門をたたく必要はありません。門は開いているのです。さあ、神と和解させていただきましょう。そして、わたしたち自身と和解しましょう。そして、わたしたちの間でも、敵対している相手とさえも、和解することができるようになりましょう。神のいつくしみは何でもできるのです。あらゆる結び目をほどき、あらゆる分断の壁を打ち壊します。神のいつくしみは憎しみと復讐心を消し去ります。来てください。イエスは平和の門です。

 わたしたちは時として、門の入り口で立ち止まってしまいます。門をくぐる勇気がないのです。わたしたちの生き方を見つめ直すことが求められるからです。門を通るには、前に一歩を踏み出すという犠牲が求められます。小さな犠牲です。これほど偉大なことのために一歩を踏み出すには、争いや分裂を捨て去ることが必要です。平和の君である御子の大きく開かれた両腕に自分自身を委ねるためです。聖年の始めのこのクリスマス、わたしは一人ひとりの人、すべての民族と国家に呼びかけます。その扉をくぐる勇気を持って、希望の巡礼者となり、武器の轟音を黙らせ、分裂を克服しましょう。

 戦火にひどく苦しんでいるウクライナで、武器の轟音がやみますように。公正で持続的な平和を実現するための交渉や対話と出会いに向けた行動への扉が大胆に開かれますように。

 中東で武器の轟音がやみますように。ベツレヘムの飼い葉桶を観想しながら、わたしはパレスチナとイスラエルのキリスト教共同体、とくに大切に思っているガザの共同体を思います。現地の人道的状況は非常に深刻です。停戦が実現しますように。人質となっている方々が解放され、飢えと戦争によって疲弊しきっている人々に援助物資が届きますように。わたしはレバノン、とくにその南部のキリスト教共同体にも、そして最も微妙な時期にあるシリアの共同体にも寄り添っています。紛争によって打ちのめされている中東地域全体で、対話と平和への扉が開かれますように。そして、リビアの国民の皆さんを思い、全国民の和解を可能にする解決策を模索するよう励まします。

 救い主の誕生が、コンゴ民主共和国でのはしかの大流行で亡くなっている多くの子どもたちのご遺族に希望の時をもたらしてくれますように。そして、同国東部の人々、ブルキナファソ、マリ、ニジェール、モザンビークの人々にも。この人々を苦しめている人道危機の原因は、主に武力紛争やテロ攻撃による被害にあり、さらに気候変動の壊滅的な影響により事態は悪化していて、多くの人命が失われ、数百万もの人々が家を追われているのです。アフリカの角と呼ばれている国々の人々のことも思っています。その人たちの上に、平和と調和、きょうだい愛のたまものがあることを願っています。いと高き方の御子が国際社会の努力を支え、スーダンの一般市民への人道支援を促進し、停戦のために新たな交渉へと向かわせることができますように。

 主の降誕の知らせがミャンマーの人々に慰めをもたらしますように。武力衝突が続く中で、ひどい苦しみに遭い、自宅からの避難を強いられているのです。

 幼子イエスが全アメリカ大陸の政治指導者とすべての善意の人を促し、社会の調和を促進するため、真理と正義のうちに、早急に効果的な解決策を見出させてくださいますように。わたしはとくに、ハイチ、ベネズエラ、コロンビア、ニカラグアのことを思っています。この聖年の間の努力によって、政治的な分裂を乗り越えて、共通善が促進され、すべての人の尊厳が尊重されますように。

 聖年があらゆる隔ての壁を打ち壊す機会になりますように。その中には、政治の局面をしばしば左右するイデオロギーによる壁があり、物理的な壁もあります。もう50年間もキプロス島を悩ませている分裂は、人と社会の営みを傷つけてきました。わたしは双方の合意に基づく解決策が得られることを願っています。キプロスの共同体全体の権利と尊厳を完全に尊重する方法で分裂に終止符を打つ解決策です。

 人となられた神の永遠のみことばであるイエスは、開け放たれた門です。主はわたしたちが通るようにと招かれている開け放たれた門なのです。それは、わたしたちが生きている意味とすべてのいのちの神聖さ――すべてのいのちは神聖です――を見出し、家族としての人類の価値を回復するためです。主は入り口でわたしたちを待っておられます。わたしたち一人ひとりを、とくに最も弱くされている人たちを待っておられます。子どもたちを、戦争と飢えに苦しむすべてのこどもたちを待っておられます。しばしば孤独や見捨てられた状況に追いやられている高齢者を待っておられます。自分の家を失い、安全な逃れ場を見出そうと祖国から避難する人々を待っておられます。職を失ったか見つけられない人々を待っておられます。何があろうとも、神の子どもたちであり続け、常に神の子どもたちである受刑者たちを待っておられます。自身の信仰のために迫害されている人々を待っておられます。そして、そういう人々はとても多いのです。

 このお祝いの日に、静かに、そして誠実に善のために尽くしている人々に感謝することを忘れないようにしましょう。思い浮かぶのは、両親たち、教育者たち、先生たちです。将来の世代の養成に大きな責任を担っているのです。医療従事者や法執行機関で働く人々を思い、慈善のわざに携わる人々、とくに全世界で働く宣教者たちのことを思います。困難に遭っている多くの人に光と慰めをもたらしているのです。こうしたすべての人に、わたしたちは言いたいのです。ありがとうございます。

 兄弟姉妹の皆さん、聖年が、とくに最貧国に重くのしかかる債務を免除する機会となりますように。わたしたち一人ひとりが、自分に負い目のある人をゆるすことを求められています。寒さと夜の闇の中でお生まれになった神の御子は、わたしたちの負い目をゆるしてくださったからです。主はわたしたちを癒し、ゆるすために来られたのです。希望の巡礼者として、主と出会いに出かけましょう。主に向かって、わたしたちの心の扉を開きましょう。主がご自分の心の扉をわたしたちに大きく開いてくださったように。

 皆さんが穏やかなクリスマスを過ごされますように。

12月の教皇の祈りの意向:希望の巡礼者
2024-12-05

2024年12月は、キリスト者が「希望の巡礼者」となれるように、次のように祈る。 

 「聖年が、わたしたちの信仰を強め、復活のキリストを生活のただ中で見出す助けとなり、わたしたちキリスト者を希望に満ちた巡礼者に変える力となりますように。」

 教皇フランシスコは、この意向について、次のように語られた。

**********

 キリスト教的希望は、わたしたちの人生を喜びで満たす神の賜物です。

 そして、今日、わたしたちはそれを大いに必要としています。世界はそれを大変に必要としているのです。

 明日、自分の子どもたちに食べさせられるかどうか、あるいは、自分が勉強していることが尊厳ある仕事を得ることに役立つかどうかもわからない時、失望するのは簡単なことです。

 どこに希望を求めたらいいのでしょうか。

 希望とは錨(いかり)です。ロープと一緒に投げて、つなぎ留めるためのアンカーです。

 わたしたちは希望のロープにしがみつかなければなりません。しっかりとしがみつくことです。

 わたしたちにいのちを与えてくださるキリストとの出会いを発見するために、互いに助け合いましょう。そして、人生を祝うために、希望の巡礼者として旅に出ましょう。その人生における次のステージとして、来たる聖年を迎えましょう。

 わたしたちの毎日を神が与えてくださる希望の賜物で満たし、わたしたちを通して、それを求めるすべての人に届くようにしましょう。

 希望は決して裏切らないということを、忘れないようにしましょう。

 祈りましょう。聖年が、わたしたちの信仰を強め、復活のキリストを生活のただ中で見出す助けとなり、わたしたちキリスト者を希望に満ちた巡礼者に変える力となりますように。

オンライン版『教会の祈り』の公開について
2024-11-26
注目オススメ

教皇フランシスコは、通常聖年(2025年)を迎える準備のために、今年(2024年)を「祈りの年」と宣言されました。これを契機に、日本カトリック典礼委員会は、これまで準備してきたオンライン版『教会の祈り』を、新しい典礼暦年のスタート(12月1日)に合わせて、ご利用いただけるよう、本日より公開します。
以下のURLから、無料でアクセスできます。

 URL:https://inori.catholic.jp

 従来「教会の祈り」は「聖務日課」とも呼ばれて、聖職者や修道者固有の祈りのように思われてきました。しかし、第二バチカン公会議の典礼刷新によって、キリストを頭とする教会共同体が、祈りを伴って時間(生活)をささげる奉仕であることが強調され、「時課の典礼」(Liturgia Horarum)と改称されました。そのために日本の教会においては、「時課の典礼」を「教会の祈り」と呼ぶことにして、信徒の皆様にも唱えていただくように勧めてきました。このオンライン版『教会の祈り』は、日々の生活の中で、キリストとともにささげる奉仕の祈りに、よりいっそう可能な範囲で、親しんでいただくための補助的な手段です。

 ラテン語規範版「時課の典礼」は4巻本として編集されていますが、日本の教会では、この規範版に従う『教会の祈り』4巻本の出版を目指していく過渡的な段階にあります。このたびのオンライン版の公開は、そのための出版準備となるものです。また、オンライン版『教会の祈り』は、新しい「ミサの式次第」に準拠した式文や聖人名の新しい表記、随時追加されていく新しい聖人等の結びの祈願などを、(書籍版)『教会の祈り』に補足する役割を担うものでもあります。

 「教会の祈り」を一緒に唱える際、司牧的配慮やさまざまな理由から、書籍版とオンライン版の併用は避けられないかもしれませんが、教会共同体でこの伝統的な祈りを唱える典礼祭儀においては、書籍版の使用が望ましいことを、共通理解として大切にしていきたいと思います。

 オンラインで公開されるデータは、おもにスマートフォンでの利用を配慮して編集されています。そのため、その他の端末を利用する場合、表示画面がディスプレイにうまく収まらないことがあるかもしれませんが、ご理解をいただきたいと思います。なお、簡単なオンライン版『教会の祈り』利用ガイドを準備いたしますので、参照していただければ幸いです。
このオンライン版『教会の祈り』が、利用者の皆様の「祈りの友」となることを願いつつ。

2024年11月25日
日本カトリック典礼委員会

補記


  1. 書籍版では「イエズス」を使用していますが、オンライン版では「イエス」に修正しています。
  2. 聖人の固有名詞表記は、2024年12月1日(待降節第1主日)から採用される新しい固有名詞表記に修正しています。
 
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