カトリック教会のお知らせ
「出て、だれでも婚宴に連れてきなさい」(マタイ22・9参照)
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
今年の世界宣教の日のテーマには、福音書から婚宴のたとえ話(マタイ22・1−14参照)を選びました。招かれた者たちが招待を断ると、物語の主人公である王は家来たちにいいます。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい」(9節)。鍵となるこの一節を、たとえ話とイエスの生涯という文脈で考えてみると、福音宣教のいくつかの重要な側面――シノドスの旅の最終段階にある現在、キリストの宣教する弟子であるわたしたち全員にとって、目下集中的に話題となっていること――が照らされます。今回のシノドスは、「交わり、参加、宣教」というテーマのもと、教会をその最優先課題である、現代世界における福音宣教に向けて再始動させなければならないとするものです。
1.「出て、連れてきなさい」―― 疲れを知らずに出向き、主の宴に招くものである宣教
王の家来たちへの命令の冒頭に、宣教の核心を表す二つの動詞、「出て」と「連れてくる」――「招きなさい」の意味――が登場します。
前者については、前もって家来たちは、招こうとする者たちに王のことばを伝えるべく遣わされたこと(3−4節参照)を思い出さなければなりません。ここから、宣教とは、全人類のもとへと疲れを知らずに出向き、神との出会いと交わりに招くことだと教えられます。疲れを知らずに――。愛に満ち、いつくしみ豊かな神は、つねに一人ひとりのもとへと出向き、その人が無関心であろうとも拒絶しようとも、み国の幸福に招いておられます。同じく、よい羊飼いであり、御父から遣わされたかたであるイエス・キリストは、イスラエルの民の失われた羊を探しに出掛け、いちばん遠くにいる羊のもとにまで行き着くために、さらに遠くへ出掛けたいと望んでおられたのです(ヨハネ10・16参照)。このかたは、ご自分の復活の前も後も弟子たちに「行きなさい」と命じ、ご自分の宣教に彼らを引き入れました(ルカ10・3、マルコ16・15参照)。だからこそ教会は、主から受けた使命を忠実に果たすために、境界線をことごとく越えて進み続け、困難や障害に直面しても疲れを知らずに、落胆することなく、何度でも出掛けていくのです。
この機会に、宣教者の皆さんに感謝したいと思います。キリストの呼びかけにこたえ、祖国を離れ遠くへ行き、福音をまだ受け取っていない人々、あるいは、受け取ったばかりの人たちのもとに届けるため、すべてと決別したかたがたです。親愛なる皆さん。皆さんの惜しみない献身は、イエスが弟子たちに託された、諸国民への宣教という責務の具体的な表出です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)。ですから地の果てまで福音化する働きのために、新たな多くの宣教者の召命を求めて、神に祈り、感謝し続けましょう。
ですから忘れてはなりません。すべてのキリスト者は、どんな環境においても、福音について自分に固有のあかしをもって、この全世界への宣教に加わるよう求められています。それは、教会全体でもって、主であり師であるかたとともに、今日の世界の「町の大通り」にたえず出ていくためです。そうです。「今日の教会の悲劇は、イエスは扉を内側からたたき続けているのに、わたしたちがイエスを外に出ないようにしていることです。主が来られたのは宣教のためで、わたしたちが宣教者となることを望んでいるのに、主を『わがもの』として引き留め、出て行かないようにする……、そうした教会となってしまうことばかりです」(教皇フランシスコ「教皇庁いのち・信徒・家庭省主催会議――司牧者と信徒の協働(2023年2月18日)――参加者へのあいさつ」)。洗礼を受けたわたしたち皆が、それぞれの立場に応じて、キリスト教の黎明期のように、新たな宣教運動を始めるため再出発する覚悟をもつことができますように。
たとえ話の中の、家来たちに対する王の命令に話を戻すと、出向くことは、声をかけること、より正確にいえば招くことと一緒になっています。「さあ、婚宴においでください」(マタイ22・4)というようにです。このことは、神から託された使命にある、もう一つの重要な側面を示唆します。想像に難くないことですが、使者を務めたこの家来たちは、王の招きを大急ぎで、けれども深い敬意と慎みをもって伝えました。同じように、すべての造られたものに福音をのべ伝えるという宣教には、必然的に、そこで告げられているかたと同じ姿勢がなければなりません。「死んで復活したイエス・キリストにおいて現される、救いをもたらす神の愛の美」(使徒的勧告『福音の喜び』36)を世に告げ知らせるとき、宣教する弟子たちはそれを、自身にもたらされた聖霊の実である、喜び、寛容、親切(ガラテヤ5・22参照)をもって行うのです。押しつけず、無理強いせず、改宗を強要せずに、神の流儀、神のなさり方の映しとして、必ず寄り添いの心、思いやり、優しさをもって宣教するのです。
2.婚宴に――キリストと教会の宣教にある、終末的視点とエウカリスチアの視点
このたとえ話の中で、王は家来たちに、息子の婚宴への招待状を届けるよう命じています。この婚宴は終わりの日の宴の映しであり、救い主、神の御子、イエスの到来によってすでに実現している神の国での、最終的な救いのイメージです。イエスはわたしたちに豊かないのちを与えてくださったかたです(ヨハネ10・10参照)。それは、神が「死を永久に滅ぼしてくださる」ときの、「よい肉と古い酒」(イザヤ25・6−8)が豪華に並んだ食卓によって象徴されるものです。
キリストの使命は、その宣教の初めにご自身が告げたように、時の充満とつながっています。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)。だからキリストの弟子たちは、師であり主であるかたと同じその使命を受け継ぐよう招かれているのです。これに関しては、第二バチカン公会議の、教会の宣教の務めがもつ終末的特徴についての教えを思い起こしてみましょう。「宣教活動の期間は、主の最初の到来と、……二度目の来臨までの間である。ということは、主が来られるまでに、あらゆる民に福音がのべ伝えられなければならない」(『教会の宣教活動に関する教令』9)。
わたしたちは、初代教会のキリスト者の宣教熱には、終末的な側面が色濃いことを知っています。彼らは福音を告げ知らせることに切迫感をもっていました。現代においても、この視点を覚えておくことは大切です。それが、「主は近くにおられる」と知る人の喜びと、神の国でわたしたち皆がキリストとともにあずかる婚宴という目的地に向かう人の希望とを携え、福音宣教する助けとなるからです。こうして、世が消費主義、利己的な幸福、蓄財、個人主義といったさまざまな「婚宴」を示す中で、福音はすべての人を、神との、そして人間相互の交わりにおいて、喜び、分かち合い、正義、友愛が支配する、神の宴へと招いています。
キリストからのたまものである、このようないのちの充満は、教会が主に命じられ、主を記念して祝う聖体の宴に先取りされています。ですから、わたしたちが福音宣教によってすべての人に届ける終わりの日の宴への招きは、主がご自分のことばと、御からだと御血とをもって養ってくださる聖体の食卓への招きに、本来的に結ばれています。ベネディクト十六世が教えていたとおりです。「感謝の祭儀が行われるごとに、終わりの日の神の民の集いが秘跡の形で実現します。わたしたちにとって聖体の宴は最後の宴の実際の先取りです。この最後の宴は、預言者たちによって前もって語られ(イザヤ25・6−9参照)、新約の中では、諸聖人の交わりの喜びのうちに祝われる、『小羊の婚礼』(黙示録19・7−9)と述べられます」(使徒的勧告『愛の秘跡』31)。
そのためわたしたちは皆、感謝の祭儀をそのあらゆる面で、なかでも終末的な面と宣教的な面において、いっそう熱心に味わうよう求められています。この点について、次のことを今一度確認したいと思います。「宣教のわざへと導かれることなしに、聖体の食卓に近づくことはできません。宣教は、神のみ心によって計画され、すべての人に達することを目指すからです」(同84)。コロナ禍を経て、多くの地方教会が見事に復活させている感謝の祭儀は、信者一人ひとりに宣教の心をかき立てるための、いっそうの基盤となるでしょう。ミサのたびに、さらなる信仰と熱い心をもって応唱すべきです。「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」。
こうした展望を踏まえ、2025年の聖年を準備する祈りの年である今年、皆さんに呼びかけたいのは、教会の福音宣教のために、何よりもミサに参加すること、そして熱心に祈ることです。教会は救い主のことばに従順で、感謝の祭儀や典礼祭儀のたびに、「み国が来ますように」と祈る「主の祈り」を神にささげ続けています。このように、日々の祈りと、とりわけ感謝の祭儀が、わたしたちを神のうちでの終わることのないいのちへと、神がすべての子らに用意してくださる婚宴へと向かう旅路を歩む、希望の巡礼者、希望の宣教者にしてくれるのです。
3.「だれでも」――キリストの弟子たちの世界への宣教と、ひたすらシノドス的で宣教的な教会
最後となる三つ目の考察は、王の招待を受けた人たちについてです。「だれでも」――。はっきり申し上げたとおりです。「この『だれでも』こそが宣教の核心です。だれ一人、例外はいません。だれでもです。ですからわたしたちの宣教はことごとく、すべての人をご自分へと引き寄せるために、キリストのみ心から生じるものなのです」(教皇フランシスコ「教皇庁宣教事業総会参加者へのあいさつ(2023年6月3日)」)。分断や紛争にさいなまれた世界の中で、今日もなお、キリストの福音は柔和で強い声となり、人々が出会い、互いを兄弟姉妹として認め、多様性の調和を喜ぶよう招いています。神がお望みになるのは、「すべての人々が救われて真理を知るようになること」(一テモテ2・4)です。ですから、宣教活動においてわたしたちは、すべての人に福音を告げるために遣わされた者であることを決して忘れてはなりません。そしてそれは、「新たな義務を人に課すようなものではなく、喜びを分かち合い、美しい地平を示し、だれもが望む宴に招くようなもの」(使徒的勧告『福音の喜び』14)として告げられなければなりません。
キリストの宣教する弟子たちはいつも、その社会的・道徳的状況を問うことなく、すべての人を案じる心を忘れません。婚宴のたとえは、王の命令に従う家来たちは「見かけた人は善人も悪人も皆」(マタイ22・10)集めたと伝えています。さらには、「貧しい人、からだの不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(ルカ14・21)、つまり、社会の中で取り残され、疎外された人たちこそが王の賓客なのです。このように、神が用意された御子の婚宴は、永遠にすべての人に開かれています。わたしたち一人ひとりに対する神の愛は大きく、条件などないからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。変えてくださり救ってくださる神の恵みにあずかるよう、だれもが、あらゆる人が招かれています。わたしたちがすべきことはただ、神からのこの寛大なたまものに「はい」と答え、それを受け入れ、それによって変容されるがままになって、「婚礼の礼服」をまとうように、それに身を包むことです(マタイ22・12参照)。
すべての人への宣教には、皆で取り組む必要があります。ですから、福音に仕える、ひたすらシノドス的で宣教的な教会を目指す道を歩み続けなければなりません。シノダリティはそれ自体宣教的であり、逆もまたしかりで、宣教は必ずシノドス的です。だからこそ今日、緊密な宣教協力は、普遍教会においても、また部分教会においても、より緊急かつ必須なものとなっています。第二バチカン公会議と前任の教皇たちに倣い、世界中の全教区に対して、教皇庁宣教事業への協力を要請します。同事業は、「カトリック信者にすでに幼少のころから、真に普遍的、宣教的な精神を浸透させるための手段であり、あるいはまた、全宣教地の益のため、それぞれの必要に応じて、援助のための募金活動を効率よく行うための手段」(『教会の宣教活動に関する教令』38)として主要な部分を担っています。こうした理由から、すべての地方教会で行われる世界宣教の日の献金は全額、世界連帯基金に充当され、教皇庁信仰弘布事業により教皇の名において、教会のあらゆる宣教事業の必要のために分配されます。主がわたしたちを導き、よりシノドス的で宣教に励む教会となるために助けてくださるよう、祈り求めましょう(教皇フランシスコ「シノドス通常総会閉会ミサ説教(2023年10月29日)」参照)。
最後に、マリアに目を向けましょう。ガリラヤにあるカナでの、まさしく婚宴の場で、イエスに最初の奇跡を願い出たかたです(ヨハネ2・1−12参照)。主は花婿花嫁とすべての招待客に、たっぷりの新しいぶどう酒を与えましたが、これは、終わりの日に神がすべての人のために用意しておられる婚宴を予感させるしるしです。今日もまた、キリストの弟子たちの福音宣教のために、マリアの母としての執り成しを祈り願いましょう。聖母の喜びとすぐに動かれる姿勢で、優しさと愛情の力をもって(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』288参照)、出向いて、すべての人に救い主である王の招きを届けましょう。聖マリア、福音宣教の星よ、わたしたちのために祈ってください。
2024年10月は、「使命を担い合う」ために、次のように祈る。
「教会が、共同責任のしるしとして、あらゆる場面でシノドス的な生活様式を維持し、司祭・修道者・信徒の参加と交わりをもって使命を推し進めることができますように」。
教皇フランシスコは、この意向について、メッセージで次のように話された。
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わたしたちキリスト者は皆、教会の使命に責任を負っています。すべての司祭が、すべての人がです。
われわれ司祭は、信徒の上司ではなく、司牧者です。イエスはわたしたち皆を召されました。誰かを誰かの上にではなく、誰かをこちら側に他の人をあちら側にではありません。わたしたちが互いに補い合うように召されました。わたしたちは共同体です。それゆえに、わたしたちは共に歩まなければなりません。
もちろん、皆さんはわたしに尋ねることができるでしょう。自分には何ができるでしょうかと。バスの運転手でしょうか。農業者でしょうか。漁業者でしょうか。皆がすべきことはこれです。自分の人生をとおして証しをもたらすことです。教会の使命の責任を分かち合うことです。
信徒たち、洗礼を受けた人たちは、教会の中に、自分の家にいます。そして、その家の世話をしなくてはなりません。それはわたしたち司祭や修道者にとっても同じです。一人ひとりが自分に得意なことをとおして貢献するのです。わたしたちは教会の使命における共同責任者です。わたしたちは教会の交わりの中で、参加し、生きています。
祈りましょう。教会が、共同責任のしるしとして、あらゆる場面でシノドス的な生活様式を維持し、司祭・修道者・信徒の参加と交わりをもって使命を推し進めることができますように。
教皇フランシスコは、「主の昇天」を祝った5月9日(木)、2025年の聖年を布告する大勅書「希望は欺かない」を発表しました。
大勅書には、2024年12月29日(日)日本も含めたすべてのカテドラルにおいて、教区司教により聖年の荘厳な開幕としてのミサを捧げるよう記されています。
なお、本大勅書の邦訳は、後日カトリック中央協議会より小冊子の刊行を予定しています。
Spes non confundit(希望は欺かない)全文
関連リンク:バチカンニュース日本語
教皇フランシスコにより発表された
2025年の通常聖年の間に与えられる免償*に関する教令
「そして今、新たな聖年の時が来ました。この聖年の間に聖なる扉が再び大きく開かれ、キリストにおける救いという確かな希望を心に呼び起こす、神の愛の生きた体験がもたらされます」(教皇フランシスコ大勅書『希望は欺かない(2024年5月9日)』6[Spes non confundit])。「過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています」(同8)。このような歴史的瞬間に、教皇は2025年の通常聖年を公布する大勅書で、希望の巡礼者となるようすべてのキリスト信者に呼びかけます。希望という徳は、時のしるしの中で再発見されなければなりません。「救ってくださる神の現存を必要とする人間の心の渇望を含んだ時のしるしは、希望のしるしへと変えられることを望んでいるのです」(同7)。この希望は、何よりも、神の恵みとその満ち満ちたいつくしみからくみ取らなければなりません。
教皇フランシスコは、すでに2015年のいつくしみの特別聖年を公布する大勅書において、聖年の期間中、免償を受けることが「とくに大切」であることを強調しました(教皇フランシスコ、いつくしみの特別聖年公布の大勅書『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔(2015年4月11日)』22[Misericordiae vultus])。なぜなら、神のいつくしみは「キリストの花嫁を介して……御父の免償となり、罪人のもとにゆるしを届けます。そしてその人が……再び罪に陥るのではなくむしろ……罪のあらゆる結果から解放してくださ」るからです(同)。同じように、教皇はこう宣言します。免償のたまものは「神のあわれみがいかに無限であるかを分からせてくれます。古代において、「あわれみ(misericordia)」ということばは、「免償(indulgentia)」ということばと互換性のあるものだったのは偶然ではありません。なぜなら、まさに「免償」は、限界を知らない神のゆるしの十全さを表そうとするものだからです」(『希望は欺かない』23)。それゆえ、免償は聖年の恵みです。
それゆえ、2025年の通常聖年の期間中、教皇の望みにより、免償の授与と使用にかかわるすべてのことがらに責任を負う「いつくしみの法廷」である本内赦院は、信者の魂を力づけ、すべての聖年に固有な恵みのたまものである免償を得ようとする聖なる望みをはぐくむことを目指して、以下の規定を定めます。それは、信者が「聖年の免償を得て、それを有効なものとするための諸規定」(同23)を用いることができるようにするためです。
2025年の通常聖年の期間中、すでに与えられた他の免償は有効であり続けます。心から痛悔し、罪の傾きから離れ(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 20, § 1]参照)、愛の精神に動かされ、聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます。これは代願のかたちで、煉獄の霊魂に対して与えられることも可能です。
一 聖なる巡礼
希望の巡礼者である信者は、聖なる巡礼を行うことにより、教皇から聖年の免償を受けることができます。
聖年の巡礼所への巡礼 聖なるミサに敬虔に参加する(典礼規則が認めるかぎりにおいて、まずは聖年のためのミサ、あるいは、和解のため、罪のゆるしのため、愛徳を願うため、一致を深めるための信心ミサをささげる)。キリスト教入信の秘跡や病者の塗油を授けるための儀式ミサ、神のことばの祭儀、教会の祈り(読書、朝の祈り、晩の祈り)、十字架の道行、ロザリオの祈りに参加する。アカティストスの聖母賛歌を唱える。ゆるしの式―儀式書『ゆるしの秘跡』で定められているような(第2形式)、個人の罪の告白で終わる式―に参加する。
ローマへの巡礼 四つの教皇バジリカ―バチカン・サンピエトロ大聖堂、ラテラノ・サンティッシモ・サルヴァトーレ(聖救世主)大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ(城外の聖パウロ)大聖堂―の少なくとも一つに巡礼を行う。
聖地への巡礼 三つのバジリカ―エルサレム・聖墳墓大聖堂、ベツレヘム・降誕大聖堂、ナザレ・お告げの大聖堂―の少なくとも一つに巡礼を行う。
他の教会地域への巡礼 地区裁治権者の指定した司教座聖堂、他の聖堂、または巡礼所。司教は、信者の必要を考慮するとともに、回心と和解の大きな必要性を示すことができる、象徴的な力を含む巡礼がもつあらゆる意味を保つ機会について配慮しなければならない。
二 巡礼所への聖なる訪問
同じように、信者は、個人またはグループで、聖年の巡礼地を敬虔に訪れ、そこで適切な時間、聖体礼拝と黙想を行い、終わりに主の祈り、正式なかたちでの信仰宣言、神の母マリアへの祈願を唱えるなら、聖年の免償を受けることができます。それは、聖年の間、すべての人が「わが子を決して見捨てない母の中でもっとも愛情深い母であるかた……の寄り添いを味わう」(『希望は欺かない』24)ためです。
聖年の特別な期間、上記の著名な巡礼地のほか、他の聖なる場所を同じ条件で訪問することもできます。
ローマ サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ(エルサレムの聖十字架)大聖堂、サン・ロレンツォ・アル・ヴェラノ(城外の聖ラウレンチオ)大聖堂、サン・セバスティアーノ大聖堂(聖フィリポ・ネリが愛した「ローマの7巡礼聖堂」を敬虔に訪問することは大いに推奨されます)、サントゥアリオ・デル・ディヴィノ・アモーレ(神の愛の巡礼大聖堂)、サント・スピリト・イン・サッシア教会堂、使徒パウロの殉教地であるサン・パオロ・アッレ・トレ・フォンターネ教会堂、ローマのカタコンベ、『イテル・エウロペウム』(Iter Europaeum)(訳注:2021年に制定された、EU加盟国に紐づけられた教会を巡るローマ市内の巡礼路)に示された聖年の巡礼教会および「ヨーロッパの女性守護聖人と教会博士」にささげられた教会堂(サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、サンタ・ブリジダ・ア・カンポ・デ・フィオーリ教会、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会、トリニタ・デイ・モンティ教会、サンタ・チェチリア・ア・トラステヴェレ教会、サンタゴスチーノ・イン・カンポ・マルツィオ教会)。
世界の他の地域への巡礼 アッシジの二つの教皇小バジリカ(サン・フランチェスコ聖堂、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂)、ロレトの聖母教皇バジリカ、ポンペイの聖母教皇バジリカ、パドヴァの聖アントニオ教皇バジリカ、あらゆる小バジリカ、司教座聖堂、共同司教座聖堂、聖母巡礼所、ならびに、信者の善益のために教区司教ないし東方教会司教区司教が指定したあらゆる著名な参事会聖堂または巡礼所、司教協議会によって定められた、「歓待する聖所、希望を呼び起こす特別な場となる」(『希望は欺かない』24)、各国巡礼所および国際的巡礼所。
心から罪を痛悔していても、重大な理由でさまざまな荘厳な典礼への参加や、巡礼や聖なる訪問ができない信者(とくに男女の隠世修道者、高齢者、病者、受刑者、また、病院や他の看護施設で継続的に病者に奉仕する人々)は、同じ条件のもとに聖年の免償を受けることができます。すなわち、とくに教皇や教区司教のことばがさまざまなコミュニケーション手段によって伝えられるときに、そばにいる信者と心を一つにし、自宅または自分がとどまらなければならない場所(たとえば、隠世修道院、病院、看護施設、刑務所の礼拝堂)で、主の祈り、認可されたかたちでの信仰宣言、聖年の目的にかなう他の祈りを唱え、自分たちの苦しみと生活の困難をささげることによって。
三 慈善と償いのわざ
さらに信者は、敬虔な心で、宣教活動、霊操、教皇の精神に従って教会や他の適切な場所で行われる『第二バチカン公会議公文書』や『カトリック教会のカテキズム』の勉強会に参加するなら、聖年の免償を受けることができます。
全免償は1日に1回しか受けられないという規定(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 18, § 1]参照)にもかかわらず、煉獄の霊魂のために愛のわざを行う信者は、同じ日に合法的に2回目の聖体拝領をするなら、同じ日に死者にのみ適用される、2回目の全免償を受けることができます(これは感謝の祭儀の中でのみのことです。教会法第917条、教皇庁教会法解釈委員会『疑問に対する応答(1984年7月11日)』1[Responsa ad dubia]参照)。この二重の奉献により、地上の旅にある信者を、キリストの神秘的なからだのうちに、すでに旅路を終えた信者と結びつけるきずなを通じて、褒むべき超自然的な愛のわざがなし遂げられます。「聖年の免償は、祈りの力によって、わたしたちより先に召された人々が満ち足りたあわれみにあずかれるよう、特別な方法で彼らのためにも意図されている」(『希望は欺かない』22)からです。
しかし特別なしかたで、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」(『希望は欺かない』10)。それゆえ免償は、回心の始まりをあかしする、慈善と償いのわざとも結びつけられるのです。信者は、キリストの模範と命令に従って、愛と慈善のわざをいっそう頻繁に行うよう駆り立てられています。このわざはおもに、さまざまな困難に苦しむ兄弟への奉仕によってなされます。とくに「身体的な慈善のわざをあらためて見てみましょう。飢えている人に食べさせること、渇いている人に飲み物を与えること、着る物をもたない人に衣服を与えること、宿のない人に宿を提供すること、病者を訪問すること、受刑者を訪問すること、死者を埋葬すること―、これです」(『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』15)。また、「精神的な慈善のわざも忘れてはなりません。疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ること―、これです」(同)。
同じように信者は、困窮や困難のうちにある兄弟(病者、受刑者、孤独な高齢者、障害者……)をふさわしい頻度で訪問することにより、聖年の免償を受けることができます。いわば、通常の霊的・秘跡的また祈りの条件に従って、その人々のうちにおられるキリストへの巡礼を行うことによってです(マタイ25・34―36参照)。信者は間違いなく、聖年の期間中、このような訪問を繰り返すことにより、毎日でも、そのつど全免償を受けることができます。
聖年の全免償は、具体的かつ寛大なしかたで償いの精神を実践する取り組みによっても与えられます。償いの精神はいわば聖年の魂です。とくに金曜日の償いとしての意味を再発見しなければなりません。償いの精神をもって少なくとも週に1日、無益な娯楽(現実の娯楽とともに、たとえばメディアやソーシャル・ネットワークを通じた仮想の娯楽)や過剰な消費を控えること(たとえば、教会の一般的な規則や司教の指示に従った断食や節制のわざによって)。また、貧しい人々に適切な金額の寄付をすること。宗教的・社会的な性格の援助活動―とくにあらゆる段階におけるいのちを保護し、守るだけでなく、見捨てられた子どもたち、困難のうちにある若者、困窮や孤独のうちにある高齢者、さまざまな国からの移住者の、生活の質を守ることです。移住者は「自分自身と家族のために、よりよい生活を求めて故郷を去る」(『希望は欺かない』13)のです。免償は、適切な量の自由時間を、共同体に奉仕するボランティア活動や、他の同様な個人的な取り組みにささげることによっても与えられます。
教区と東方教会の司教区司教、および法的にこれに相当する立場にある人々は、聖年の期間の適切な日に、司教座聖堂や個々の聖年の教会堂で主要な祭儀を行うときに、全免償を伴う教皇祝福を与えることができます。この全免償は、通常の条件のもとでこの祝福を受けるすべての信者が受けることができるものです。
ゆるしの秘跡に近づくことと、「(聖ペトロの)鍵の力」(訳注:マタイ16・19、18・18参照)による神のゆるしを得ることを司牧的に助けるために、地区裁治権者は、司教座聖堂や聖年のために指定された教会堂で信者の告白を聞く参事会員や司祭に、『東方教会法』第728条第2項で定める東方教会の信者の内的法廷に限定された権能、また、留保された場合においては第727条の権能を与えるように招かれます。第728条第1項が述べる場合を除外することはいうまでもありません。ラテン教会の信者の場合、教会法第508条第1項で述べられる権能がこれに該当します。
これに関連して、本内赦院はすべての司祭に対して、救いの手段から益を得るための最大限の機会を信者に与えるために、寛大な協力と献身を促します。そのために、主任司祭や近隣の教会主管者司祭の同意のもとに、告白の時間割を作成・公表し、進んで告白場で告白を聞き、時間を固定して頻繁にゆるしの式を行うことを計画してください。さらには、司牧的な職務をもたない引退司祭を、できるかぎり動員してください。場合により、教皇ヨハネ・パウロ二世自発教令『神のいつくしみ―ゆるしの秘跡の執行に関する若干の側面(2002年4月7日)』(Misericordia Dei)に従い、感謝の祭儀の司式中にも告白を聞く司牧的な機会があることを司祭は思い起こさなければなりません。
聴罪司祭の任務を助けるために、教皇庁内赦院は、教皇の命令により、自教区外で聖年の巡礼に同行ないし参加する司祭に、自教区内で正当な権威者によって与えられたのと同じ権能を与えます。さらに本教皇庁内赦院は、ローマの教皇バジリカの聴罪司祭、参事会聴罪司祭、および個々の教会区域に設立された教区聴罪司祭にも、特別な権能を与えます。
聴罪司祭は、留保と懲戒が伴う罪の重大性を信者に愛をもって教えた後、司牧的な愛をもって適切な秘跡的な償いを定めなければなりません。罪を悔い改めた人が、悔い改めをできるかぎり確固たるものとし、事例の性格に従い、つまずきと損害をも修復できるようにするためです。
最後に、本内赦院は、教え、統治し、聖化するという三つの任務を担う司教の皆様を心から招きます。場所、文化、伝統をとくに考慮しながら、信者の聖化のために、ここに定めた規定と原則を明快に説明するようにしてください。各国民の社会的・文化的性格に合わせたカテケージスは、福音とキリスト教のメッセージ全体を効果的に提示し、教会の仲介を通して与えられる、免償という固有のたまものへの望みを、人々の心に深く根づかせることができます。
本教令は2025年の通常聖年の期間中、有効です。対立する規定類がある場合、本規定が優先します。
2024年5月13日、ファティマの聖母の記念日
内赦院長
アンジェロ・デ・ドナーティス枢機卿
内赦執行官
クシストフ・ニキエル
*訳注 ^ 免償とは、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしである。キリスト信者はふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の助けによってこれを獲得する。免償は、罪のために負わされる有限の罰からの解放が部分的であるか全体的であるかによって、部分免償および全免償とに分けられる(教会法第992~993条、『カトリック教会のカテキズム』1471、『カトリック教会のカテキズム要約』312参照)。
教皇フランシスコは、2023年を第二バチカン公会議の成果である文書をじっくりと味わう年とした後、2024年を祈りの年とするよう求めました。その祈りの年の始まりを、今年で5回目を迎える「神のことばの主日」である2024年1月21日に発表しました。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、これから数カ月後、聖なる扉が開かれ、聖年が始まります。この恵みあふれる聖年に備えられるように、また神の希望の力を経験できるように、さらに祈りを深めてください。
今日、1月21日に、わたしたちは祈りの年を始めます。つまり、個人的な生活の中で、教会生活の中で、世界の中で、祈りの素晴らしい価値と祈りの絶対的な必要性を再発見するための一年とするのです。
聖年の開催の責任を福音宣教省に委ねるため、以前、2022年2月11日に、福音宣教省世界宣教部門副長官サルバトーレ(リノ)・フィジケラ大司教に宛てた書簡で、教皇はこう綴りました。
「この準備の時期に、聖年の行事に先立つ2024年を、偉大な祈りの「響き合い」に捧げることができると思うとうれしいかぎりです。何よりもまず、主の前に立ち、主の声を聴き、主を崇めるという願いを回復しましょう」。
そのため、聖年への準備に向けて、今年は個人的な祈り、そして共同体としての祈りを中心に据えるよう、各教区は招かれています。
神はその民とともに歩まれる
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。
世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会は、2023年10月29日に第1会期を終了し、教会本来の召命であるシノダリティについての理解を深めることができました。「シノダリティは、おもに、神の民の共同の旅として、また、み国の到来に奉仕するカリスマと奉仕職の実りある対話として提示されます」(「『まとめ』報告書」はじめに)。
教会は、シノドス的次元の強調により、歴史を歩む神の民、すなわち天のみ国を目指す旅人――いわば「移民」としての、旅する己の本性(『教会憲章』49参照)の再発見に至ります。約束の地へと向かうイスラエルの民を描いた、出エジプトの聖書の記述が自然と思い起こさせるのは、奴隷状態から解放への長い旅で、それは終わりの日の主との出会いまで続く教会の旅の予表です。
同じく現代の移民――どの時代の移民もですが――にも、永遠のふるさとへの途上にある神の民の実像を見ることができます。彼らの希望の旅は、次のことを思い起こさせます。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3・20)。
出エジプトと移民という二つの像には、いくつかの共通点があります。モーセの時代のイスラエルの民のように、移民は多くの場合、抑圧や虐待、情勢不安や差別、発展の機会の不足といった状況から逃れるのです。砂漠のヘブライ人と同様、移民もまたその旅路において多くの障害に遭遇します。飢えと渇きに耐え、苦労や病で疲弊し、絶望に傾くのです。
ですが移住にとって、あらゆる移住にとっての根本的な事実とは、神はご自分の民の旅路で、そして時代と場所を超えそのすべての子らの旅路で、先頭に立って、ともにいてくださっているということです。その民のただ中に神がおられるのは、救いの歴史において確かなことです。「あなたの神、主は、あなたとともに歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(申命記31・6)。エジプトを脱出した民にとって、この現存はさまざまなかたちで顕示されます。雲の柱と火の柱は、道を示して照らします(出エジプト13・21参照)。契約の箱を納める臨在の幕屋は、神が近くにおられる確かなしるしとなります(同33・7参照)。青銅の蛇のついた旗竿は、神の保護を約束します(民数記21・8−9参照)。マナと水は、飢え渇いた民への神からの恵みです(出エジプト16~17章参照)。天幕は、主がとりわけ喜ばれた臨在のかたちです。ダビデの治世に、神は神殿に囲われるのを拒み、ご自分の民とともに「天幕から天幕へ、幕屋から幕屋へと」(歴代誌上17・5)歩めるよう、天幕を住まいとし続けることを望まれました。
多くの移民は、神を旅の仲間、導き手、救いの錨として実感しています。出発の前から神に身をゆだね、苦しいときには神により頼みます。気持ちが沈むときには神になぐさめを求めます。神のおかげで、道すがら、よいサマリア人と出会います。祈りを通して、神に希望を託します。どれだけの聖書が、福音書が、祈祷書が、ロザリオが、いくつもの砂漠、川、海を渡り、大陸の境を越える旅路の移民たちとともにあるか、想像してみてください。
神は、ご自分の民とともに歩むだけでなく、ご自分の民の中でも歩んでおられます。歴史の中を旅する人々、とりわけいちばん弱い人、貧しい人、隅に追いやられた人に、ご自身を重ねておられるという意味で、受肉の神秘の拡大であるかのようにです。
ですから移民との出会いは、助けを必要としている兄弟姉妹一人ひとりとの出会いと同様、「キリストとの出会いでもあるのです。キリストご自身がそう語っておられます。飢えて、渇いて、よそから来て、裸で、病を患い、牢にいて、顔を見てほしい、助けてほしいと求めながら、扉をたたいている人はキリストなのです」(ローマ郊外サクロファーノ近くの移民受け入れ施設「フラテルナ・ドムス(友愛の家)」を会場にした集会――「不安からの解放」参加者とのミサ説教、2019年2月15日)。マタイ福音書25章で語られる終わりの日の裁きに、疑う余地はありません。「お前たちは、わたしが……旅をしていたときに宿を貸してくれた」(35節)、そして「はっきりいっておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)という裁きです。ですから旅路の出会いの一つ一つが主との出会いの機会であり、それは救いの任務を負う機会なのです。わたしたちの助けを必要とする兄弟姉妹のうちに、イエスはおられるからです。その意味で、貧しい人はわたしたちを救います。彼らがわたしたちを、主のみ顔に引き合わせてくれるからです(「第3回貧しい人の世界祈願日教皇メッセージ(2019年11月17日)」参照)。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。難民、移住者、移動者にささげられたこの日に、尊厳ある生活環境を求めて祖国を離れなければならなかったすべての人のために、心を合わせて祈りましょう。彼らとともに旅する意識をもって、ともに「シノドス」を築きましょう。そして彼ら皆を、そして次期シノドス総会をも、「旅を続ける忠実な神の民にとって確かな希望と慰めのしるしであるおとめマリアの執り成し」(「『まとめ』報告書」旅を続けながら)にゆだねましょう。
祈り
全能の父なる神よ、
わたしたちは天のみ国へと向かって歩む、
あなたの旅する教会です。
わたしたちはそれぞれ自分の祖国にいても、
異国の民のように暮らしています。
あらゆる異国の地がわたしたちにとって祖国であっても
わたしたちにはどの祖国も異国の地なのです。
地上に暮らしていても、
わたしたちの国籍は天にあります。
あなたが仮の住まいとして与えてくださった世の一部を
支配する者とならないよう、
わたしたちを導いてください。
あなたが用意してくださった永遠の住まいに向かって、
移住を求める兄弟姉妹とともに
歩み続けることができるよう支えてください。
わたしたちの目と心を開いてください。
助けを必要とする人との一つ一つの出会いが、
あなたの子、わたしたちの主イエスとの出会いとなりますように。
アーメン。
被造物とともにあって、希望し行動しよう
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
「被造物とともにあって、希望し行動しよう」が、来る9月1日に祝われる「被造物を大切にする世界祈願日」のテーマです。これは、聖パウロのローマの信徒への手紙8章19−25節から取られています。使徒パウロが、霊に従って生きるとはどういうことかを明らかにし、キリストにおける新たないのちという、信仰による救いへの固い希望に焦点を当てる箇所です。
1.さて、はっきりとは答えられないかもしれませんが、まずは簡単な質問から始めます。わたしたちが真に信じる者だという場合、どのようにして信仰を得るのでしょうか。理性では捉えられない超越的なもの、遥かかなたの、おぼろげな、えもいわれぬ、把握しがたい神の神秘を「信じている」からではありません。むしろ聖パウロがいうように、聖霊がわたしたちの内に住まうからなのです。そうです。わたしたちが信じる者であるのは、まさに「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」からなのです(ローマ5・5)。ですから聖霊は、今も、まことに、「わたしたちがみ国を受け継ぐための保証」(エフェソ1・14)であり、美と善の充満であるイエスの人間性に従って、永遠の宝をつねに求めて生きるように促すのです。聖霊は信じる者を、愛のわざにおいて創造的で積極的にします。信じる者を霊における自由の大いなる旅へと導きますが、そこはこの世の論理と霊の論理――それぞれ相反する実を結びます(ガラテヤ5・16−17参照)――との相克から免れているわけではありません。ご承知のように、霊の第一の実は、他のすべての実の要約である、愛です。ですから聖霊に導かれることで、信者は神の子となり、もはや死の恐怖に陥ることのない者の自由をもって――イエスは死者のうちから復活されたからです――、イエスのように神を「アッバ、父よ」(ローマ8・15)と呼ぶことができるのです。それこそ大いなる希望です。神の愛は勝利を収め、今も勝利していて、これからも永遠に勝利し続けるのです。肉体の死はあろうとも、霊に生きる新しい人にとって、栄光の未来はすでに確たるものなのです。この、希望は欺かないということを、来年の聖年を公布する大勅書も思い出させてくれます1。
2.キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です。主の到来(パルーシア)、再臨の「遅れ」は問題ではありません。問うべきは別のこと、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18・8)です。そうです。信仰は贈り物、わたしたちの内なる聖霊の実なのです。けれども同時に、自由意志で、イエスの愛の命令への従順をもって果たすべき務めでもあります。これこそが、わたしたちがあかしすべき恵みの希望です。どこで、いつ、どのようにでしょうか。苦しむ生身の人間の悲劇においてです。夢を見るのであれば、今は、愛、兄弟愛、友情、すべての人のための正義といったヴィジョンから力を得て、開かれた目で夢を見なければなりません。キリスト教が告げる救いは、世界の苦しみ――人間だけでなく宇宙全体、自然そのもの、人間のオイコス(訳注:ギリシア語で「家」の意)、人間の生きる環境に及んでいます――の深みにまで分け入ります。被造界を、すべての人にとっての喜びの場、幸福を約束する場となるべき「地上の楽園」、母なる大地と捉えています。キリスト者の楽観論は、生きた希望に基づいています。すべては神の栄光へ、神の平和の充満たる終わりの日の完成へ、義とされてのからだの復活へ、「栄光から栄光へ」と向かっていると知っているのです。けれどもわたしたちは、進みゆく時間の中で、痛みや苦しみをともにしています。被造物がすべてうめき(ローマ8・19−22参照)、キリスト者がうめき(同23−25節参照)、霊ご自身もうめいておられるのです(同26−27節参照)。うめきの声は、不安や苦しみであるとともに、切実さや強い願いの表れです。うめくことは、聖霊における喜び、愛、平和である、神の計画の実現を見据えての、神への信頼を、そして神の愛深く、多くを期待される寄り添いへの全幅の信頼を表しているのです。
3.被造界全体が、新たに生まれるこうしたプロセスにかかわり、うめきながら、解放を待ち望んでいます。それは、「大木になるからし種」や「生地に混ぜられたパン種」(マタイ13・31−33参照)と同じように成熟する、ひそかな成長です。最初は取るに足らないほどなのに、待ちに待った結末は、限りなくすばらしいものなのです。誕生、すなわち神の子たちの現れを待つのと同じく、希望とは、逆境の最中にも揺るがずにい続ける力であり、苦難のときや、人間の非道さを前にしても、あきらめない力です。キリスト者の希望は欺きませんし、偽りで錯覚させることもしません。被造物、キリスト者、そして霊のうめきが、すでに実現しつつある救いの前表であり期待であるなら、わたしたちは今、聖パウロが「艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」(ローマ8・35参照)と表現する多くの苦しみに浸されているのです。ですから希望とは、歴史や人生のさまざまな出来事を、別の角度から読み解くことです。幻想ではなく現実的で、見えないものを見る信仰のリアリズムです。この希望は、見ずに信じるアブラハムのように、忍耐強く待つというものです。優れた幻視(ヴィジョン)を語る信者であり、ダンテ・アリギエリによれば「預言の霊を賦与された」2人である、カラブリアの修道院長フィオーレのヨアキムが思い出されます。教皇と皇帝の対立、十字軍、異端、教会の世俗化など、血なまぐさい争いが重ねられた時代に、福音を生きたことで実る、普遍的な兄弟愛とキリスト教的平和に基づいた、人々の共生という新たな精神の理想を示しえた人物です。わたしは『兄弟の皆さん』で、こうした社会的友愛と普遍的な兄弟愛の精神を提案しました。そして、人間どうしのこうした調和は被造界へと拡大されるべきで、それは「状況化された人間中心主義(situated anthropocentrism)」(『ラウダーテ・デウム』67参照)のもとにあり、わたしたちがともに暮らす家、またそこに住むわたしたちにとっての救いの道である、人間的で総合的なエコロジーに対する責任を帯びているのです。
4.なぜこの世には、こんなにも悪が存在するのでしょうか。なぜ、これほどの不正義が、子どもたちを死なせ、町を破壊し、人間の生活環境を汚染し、母なる大地を蹂躙し荒廃させる兄弟殺しの争いがあるのでしょうか。アダムの罪に暗に言及しつつ、聖パウロは述べています。「被造物がすべて今日まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ローマ8・22)。キリスト者の道徳的葛藤は、被造物の、「虚無に服している」(20節)がための、うめきと結ばれています。全宇宙とすべての被造物は、現況が打開され本来の状態が回復するよう、「せつなる思いで」うめき、願っています。まさに人間の解放は、人間の状況と連動して奴隷のくびきを負わされている、他の全被造物の解放をも意味します。被造物は、それ自身の罪業ではないのに、人類と同じく隷属状態にあり、本来望まれたこと、すなわち永続的な意味と目的をもつことができずにいます。人間による自然の濫用で劣化し、被造界は消滅と死の危機にさらされているのです。ですがその反面、キリストにおける人間の救いが、被造物にとっても確かな希望なのです。まさに「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれる」(ローマ8・21)のです。ですから、キリストのあがないにおいて、人間と他の全被造物との連帯のきずなが、希望のうちに見えてくるのです。
5.イエスが栄光のうちに到来するのを希望をもって辛抱強く待ち望んでいる信者の共同体を、聖霊は目覚めさせておき、たえず教え、ライフスタイルの転換を促し、人間が引き起こす環境悪化を阻止して、変革の可能性の何よりのあかしとなる社会批評を表明するよう招くのです。この回心は、他者や自然を意のままにし、操作する対象へと貶める者の傲慢さから、他者と被造物をケアする者の謙遜さへの転換を意味します。「人間は、神に代わる存在になろうとするとき、自分自身の最悪の敵になるのです」(『ラウダーテ・デウム』73)。アダムの罪が、人間が生きる基盤となる関係、すなわち神との関係、自分自身との関係、他の人間との関係、そして万物との関係を壊したからです。これらの関係は、すべて相互作用的に、修復され、救済され、「正常化」されなければなりません。どれか一つが欠けてもだめなのです。一つでも欠ければ、すべてが破綻します。
6.被造物とともにあって、希望し行動するということは、まず第一に力を合わせることであり、善意あるすべての人とともに歩みつつ、「人間の力という問題を、その意味と限界を、あらためて問い直す」べく尽くすことです。「わたしたちの力は、ここ数十年のうちに猛烈な勢いで増大したからです。強烈で圧巻の技術進歩を遂げてきたものの、同時に、多くの生き物の生命とわたしたち自身の生存とを脅かしうる非常に危険な存在になってしまった、ということに気づいてはいません」(『ラウダーテ・デウム』28)。野放しの力は怪物を生み、わたしたち自身に矛先を向けます。ですから今日、AI(人工知能)の開発に倫理的な制約を設けることが急務です。AIは、その計算能力とシミュレーション能力をもって、平和と全人的発展のために用いられずに、人間と自然を支配するために利用されかねないのです(「2024年世界平和の日教皇メッセージ」参照)。
7.「聖霊は人生の間わたしたちとともにいてくださる」。三位一体の主日に重なった第1回世界こどもの日に、サンピエトロ広場に集まった子どもたちは、これをよく理解しました。神とは、無限というような抽象概念ではありません。愛あふれる御父であり、すべての人の友にしてあがない主であられる御子であり、愛の道を行くわたしたちの歩みを導いてくださる聖霊です。愛の霊に従順であれば、人の姿勢はがらりと変わります。つまり園を「略奪する者」から「耕す人」へと変えられるのです。大地は人間にゆだねられていますが、神のものであることに変わりはありません(レビ25・23参照)。これが、ユダヤ・キリスト教の伝統に基づく、神学的人間中心主義です。したがって、自然を所有し、支配し、意のままに操ろうとする思い上がりは、一種の偶像崇拝なのです。傲慢にも、地球を「不遇」な状態、すなわち、神の恵みが奪われた状態に置くのは、自らの技術主義(テクノクラティック)の力に酔いしれた、プロメテウスのような人間です。しかしながら、神の恵みが死んで復活したイエスであるのならば、ベネディクト十六世が語ったことは真実です。「科学は人間をあがなってくれません。人間をあがなうのは愛」(回勅『希望による救い』26)、キリストにおける神の愛であり、何事も、何者も、わたしたちをその愛から引き離すことはできないのです(ローマ8・38−39参照)。己の未来へとたえず引き寄せられているのですから、被造界は静止しているわけでも、それ自体で閉じているわけでもありません。今日、現代物理学による発見のおかげで、物質と精神の結びつきは、いっそう魅力的に理解されるようになっています。
8.それゆえ被造界の保全は、倫理的な問題であるだけでなく、きわめて神学的な問題でもあります。まさに、人間の神秘と神の神秘とによって編まれるものにかかわるからです。この編み物は、神がキリストにおいて人間を創造された、その愛のわざにまでさかのぼるものなので、「創造的」と言い表せます。こうした神の創造する行為が人間に、その自由意志による行動と、あらゆる倫理性とを与え、基礎づけているのです。つまり自由は、イエス・キリストである神の似姿に創造された人間のまさに本性であり、それゆえ人間は、キリストご自身における被造物の「代表者」なのです。キリスト者には、「財貨は万人のためにあるという原理」をも踏まえて、世界で正義と平和を促進する責任を担う、超越的な(神学的・倫理的)動機が存在します。それは、被造物が産みの苦しみにうめくがごとく待ち望んでいる、神の子たちの現れにかかわることなのです。歴史の中にあって、危機に瀕しているのは、人間の地上の生活だけではありません。人間の永遠の未来、祝福された最後の裁きが、つまり、宇宙の主であり、愛ゆえに十字架で死に復活したかた、キリストにおける、わたしたちの平和の楽園が危機にさらされているのです。
9.ですから、被造物とともにあって、希望し行動するということは、受肉した信仰を生きるということです。その信仰は、人々の苦しみつつも希望に満ちた肉体に分け入って、信じる者が主キリストによって約束されている、からだの復活の待望を分かち合うということです。人となった永遠の御子イエスにおいて、わたしたちはまことに御父の子らとされています。信仰と洗礼によって、信者には聖霊に従う生き方が始まります(ローマ8・2参照)。それは、聖なる生き方、イエスのように御父の子どもとして生きることです(ローマ8・14−17参照)。聖霊の力によって、キリストがわたしたちの内に生きておられるからです(ガラテヤ2・20参照)。一つの人生が、神への、人類への、被造物との、そして被造物への、愛の歌となって、そこに聖性の充満があるのです3。
2024年6月27日
フランシスコ
2024年9月は、「地球の叫び」のために、次のように祈る。
「私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように」。
教皇フランシスコは、この意向をめぐり、次のように語られた。
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地球の叫びのために祈りましょう。
地球の体温を測るならば、熱があることがわかるでしょう。具合が悪い人と同じように、地球も具合が良くないと感じています。
しかし、わたしたちは地球の苦しみに耳をすませているでしょうか。
環境災害の何百万という被害者たちの苦しみに耳を傾けているでしょうか。
こうした災害の影響によって最も苦しんでいるのは、貧しい人たちです。これらの人々は、洪水や、熱波、あるいは干ばつのために、自分の家を離れざるを得ませんでした。
気候危機や、汚染、生物多様性の喪失など、人間によって引き起こされた環境危機に立ち向かうには、エコロジー的な回答だけでなく、社会的、経済的、政治的な回答をも要求されます。
わたしたち個人や共同体の習慣を変えながら、貧困との闘い、自然の保護に取り組む必要があります。
祈りましょう。私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように。
8月の教皇の祈りの意向:政治におけるリーダーのために
「政治におけるリーダーが、人々への奉仕において、人類として不可欠な成長と公益のために働き、職を失った人々に配慮し、貧しい人々を優先することができますように」教皇フランシスコは、この意向をめぐり、次のように話された。
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今日、政治は、贈収賄、スキャンダル、人々の日常生活からかけ離れていることなど、あまり良い評判を得ていません。
しかし、良い政治なしに、わたしたちは普遍的な兄弟愛に向かって進歩できるでしょうか?いいえ、できません。
パウロ6世が言ったように、政治は愛の最も高度な形の一つです。なぜなら、それは公益を追求するからです。
わたしが言っているのは、大きな意味での政治であり、政治的な駆け引きのことではありません。現実に耳を傾け、貧しい人に奉仕し、長い廊下の大きな建物に閉じ込められない、そういう政治のことです。
ここで話したいのは、失業者に配慮し、月曜日にまた働きに行けないことが、日曜日にいかに悲しく思われるかをよく知っている政治のことです。
このように見るならば、政治はもっと貴いものになります。
権力ではない、奉仕の精神をもって、自身の課題に取り組む多くの政治家たちの、共通善に対するすべての奉仕のために感謝しましょう。
祈りましょう。政治におけるリーダーが、人々への奉仕において、人類として不可欠な成長と公益のために働き、職を失った人々に配慮し、貧しい人々を優先することができますように。
カトリック教会は、毎月、「教皇の祈りの意向」を示し、教会全体が日々の祈りの中で、その意向に基づいて祈るように招いている。
2024年7月は、「病者への司牧的ケア」のために、次のように祈る。
「病者の塗油の秘跡が、それに授かる方とその方の愛する人たちに主の力を与え、誰の目にも共感と希望のしるしとして映し出されますように」。
教皇フランシスコは、この意向をめぐり、ビデオを通し次のように話された。
**********
今月は病者への司牧的ケアのために祈りましょう。
病者の塗油は、臨終にある人のためだけの秘跡ではありません。これをはっきりさせておくことが重要です。
司祭が塗油の秘跡のために、ある人に近づく時、それは必ずしもこの世との別れを助けているわけではありません。そう考えるならば、あらゆる希望を失ってしまいます。
それは司祭の後には葬儀業者がやって来るのだと思い込むことです。
病者の塗油は、「いやし」と「回復」の秘跡の一つであり、魂をいやすものです。
ある人が重い病状にある時、病者の塗油を授けることが勧められます。そして、ある人が高齢である場合、病者の塗油を受けるのはよいことです。
祈りましょう。病者の塗油の秘跡が、それに授かる方とその方の愛する人たちに主の力を与え、誰の目にも共感と希望のしるしとして映し出されますように。
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