カトリック教会のお知らせ
2024年11月24日
「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)
親愛なる若者の皆さん
昨年わたしたちは、「希望をもって喜びなさい」(ローマ12・12)というパウロのことばを黙想し、聖年に向けた希望の旅を歩み始めました。まさに、2025年の聖年の旅の準備のため、今年は「主に望みをおく人は、……歩いても疲れない」(イザヤ40・31)と語る預言者イザヤからヒントをもらいます。この句は、慰めの書(イザヤ40~55章)と呼ばれる箇所から取られたものです。これは、イスラエルのバビロン捕囚の終わりと、歴史において、主がその子らに開いてくださる新たな「道」(イザヤ40・3参照)のおかげで祖国帰還を果たす神の民の希望と再生に満ちた新時代の始まりとを告げる箇所です。
今日も、打ちのめされて、将来を晴れやかな気持ちで見ることなどできない、悲惨な状況が目立つ時代にあります。戦争の悲劇、社会的不正義、格差、飢餓、人間の搾取と被造物の搾取――。高い付けを払うのは、大抵若者の皆さんです。将来に不安を覚え、夢を具体的に描けないため、希望をもてずに、倦怠と憂鬱から抜け出せず、時には犯罪や破壊行為への幻想に引き込まれかねません(大勅書『希望は欺かない』12参照)。ですから、親愛なる若者の皆さん。バビロンでイスラエルの民が知らされたように、皆さんにも希望の知らせを届けたいのです。今日もなお、主は皆さんの前に道を開き、喜びと希望をもってその道を歩むよう招いておられます。
1.いのちの旅とその困難
イザヤは、「歩いても疲れない」と預言しています。そこで、この二つの要素、「歩く」と「疲れる」について考察しましょう。
わたしたちの人生は旅であり、それは、自分自身を超えようとする旅、幸福を探し求める旅です。とくにキリスト者の人生は、わたしたちの救いであり、すべての善の充満である、神へと向かう旅です。旅路にある成果、収穫、成功が、物質的なものにとどまるならば、一瞬満足はしても、依然として渇きはいえず、深い意義を求め続けることになります。事実、それらはわたしたちの魂を十分に満足させません。なぜならわたしたちは、無限であるかたに創造されたものであるため、内に超越への願いを宿し、大いなる願望の充足へと、「より偉大なもの」に向かう焦燥感へと、駆られ続けるからです。ですから何度も申し上げてきましたが、若者の皆さんには、「観客席から人生を眺める」だけでは物足りないのです。
とはいえ、情熱をもって旅に出ても、いずれは疲れを感じるようになるのは普通のことです。勉強や仕事、私生活において、一定の成功を収めなければならないという社会的圧力によって、不安や心の疲弊が生じることもあります。そうしたことが悲嘆を生じさせる一方で、無数のことがらで一日を埋め尽くしているにもかかわらず、十分ではない、まだまだ足りないという気にさせる、むなしい活動至上主義に息を切らして生きているのです。こうした疲弊に倦怠が加わることもよくあります。それは、歩き出さず、決断せず、選択せず、リスクを冒さず、楽なところにとどまろうとして、自分の殻に閉じこもり、問題や他者や生活に触れて「手を汚す」ことは決してせずに、画面越しでしか世界を見ずに裁く人の、無関心や不平を抱いた状態のことです。この種の疲労はセメントのようなもので、わたしたちの足がそこに浸かると、次第に固まり、重くなり、不随にして動けなくします。わたしは、歩いている人の疲れのほうが、歩く気もなくじっとしている人の倦怠よりも、好ましく思います。
逆説的ですが、疲労の解消法は、じっと休んだままではいないことです。そうではなくて、出発して、希望の巡礼者となるのです。わたしから皆さんに掛ける声はこれです――希望をもって歩んでください。希望はどんな疲れも危機も不安も、ことごとく打ち破り、前進するための力強い動機づけを与えてくれます。というのも、この希望は、神ご自身からいただくプレゼントだからです。神は、わたしたちの時間のすべてを意味あるもので満たし、わたしたちの道を照らし、人生の道筋と目標を示してくださいます。使徒聖パウロは、勝利を収めようと走る競技場での選手のたとえを用いました(一コリント9・24参照)。皆さんの中でも、観客ではなく選手として競技に参加したことのある人なら、ゴール到達に必要な内なる力をよくご存じでしょう。希望とはまさに、神がわたしたちに吹き込んでくださる新たな力であり、それがあるからレースを続けることができ、「先を見つめる目」をもてるので、その時々の困難を乗り越えて確かなゴール、すなわち神との交わりと永遠のいのちの充満へと導かれるのです。すばらしいフィニッシュラインがあるのだから、人生の行き着く先が無ではないのだから、夢見て、思い描き、なし遂げたものは何ら失われないのだから、歩き続けること、汗を流すこと、障害を耐え忍ぶこと、疲れに負けないことに価値があるのです。終わりの日の報いは、すばらしいものだからです。
2.荒れ野の旅人
人生の旅には、立ちはだかる不可避の難局が存在するものです。昔の長旅では、季節や気候の変化に対応しなくてはなりませんでした。心地よい草原や涼しい森もあれば、雪を頂く山々や灼熱の荒れ野もありました。信者にとっても、人生の旅、そして遠い目的地までの歩みは、苦労の多いものです。イスラエルの民の、約束の地へと向かう荒れ野の旅と同じです。
皆さんにしても同じです。信仰のたまものを受け取った人でも、神がいてくださる、そばにおられると感じられる幸せなときもあれば、孤独を味わうときもあります。勉学や仕事に対する当初の熱意、あるいはキリストに従おうとする熱い思い――結婚生活において、司祭職において、奉献生活において――が、荒れ野を歩む困難な旅に人生が思える危機の時に転じてしまうことは起こりえます。ですがこのような危機の時は、むなしい時でも無駄な時でもなく、成長のための重要な時となりえるのです。それは、希望が純化される機会なのです。危機においてこそ、わたしたちの心には見合わない、多くの偽りの「希望」が消失します。その仮面が剥がれると、わたしたちはただ独り、人生の根本的な問いの前に、まやかしもなく、裸の姿で立たされるのです。そしてそのとき、それぞれが自らに問うはずです。自分はどんな希望を支えに生きているのか、それは本物か、それともまやかしか――と。
そのようなときに、主はわたしたちを見捨てません。わたしたちのそばに父として来られ、力を取り戻して再び旅路に赴くためのパンを、必ず与えてくださいます。思い出してください。神が荒れ野の民にマナを与えてくださったことを(出エジプト16章参照)。さらに、疲れ果て気落ちしていた預言者エリヤに、「神の山ホレブ」まで「四十日四十夜歩き続け」ることができるよう、二度にわたってパン菓子と水とをお与えになったことを(列王記上19・3−8参照)。こうした聖書の物語に、教会の信仰は、聖体という尊いたまものの前表を見てきました。旅するわたしたちを支えるべく神が与えてくださる、まことのマナ、まことの旅路の糧です。福者カルロ・アクティスが語ったように、聖体は天へと続く高速道路です。この若者は、聖体を、日々のもっとも大事な、神と会うための約束としていました。そのように主と親しく結ばれていれば、主が一緒に歩んでおられるのですから、わたしたちは疲れることなく歩むのです(マタイ28・20参照)。皆さんが、聖体というすばらしい贈り物を再発見しますように。
この世の旅路では避けようのない疲弊の最中には、イエスのように、そしてイエスのうちに、休息することを学びましょう。宣教から戻った弟子たちに休息するよう勧めたイエスは(マルコ6・31参照)、あなたがたには肉体の休息が必要なことを、友人と過ごしたり、スポーツをしたり、睡眠も含め、くつろぐ時間が必要なことを知っておられます。ですが、もっと深いレベルの休息があります。多くの人が求めていながら、わずかな人しか見いだすことのない、キリストにおいてのみ得られる、魂の休息です。内的疲労はすべて、主において慰めを得るのだと理解してください。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。旅の疲れに押しつぶされそうなときは、イエスに立ち帰ってください。イエスのうちに憩い、イエスのうちにとどまることを学んでください。「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)のですから。
3.観光旅行から巡礼の旅人へ
親愛なる若者の皆さん。わたしが招いているのは、愛の軌跡に沿って、神のみ顔を探し求めつつ、人生を明らかにしようとする旅への出発です。ですが皆さんに勧めるのは、単なる観光客としてではなく、巡礼者として旅に出ることです。皆さんの旅が、人生の各場面を表面的に通過するだけで、出会ったものがもつ美を捉えることもなく、たどった道の意味も見いだせないまま、細切れの時間、束の間の体験を、自撮りするようなものとならないよう祈ります。それは観光旅行ですることです。一方巡礼者は、行き着いた地の深部に分け入り、その土地に語らせ、その土地を自分の幸せの探求の一要素とするのです。ですから聖年の巡礼は、最終の目的地に達するため、わたしたち全員に求められている、「内なる旅」のしるしでなければならないのです。
このような姿勢で、皆で聖年を準備しましょう。若者の皆さんの多くが、巡礼としてローマに来て、聖なる扉をくぐれるよう願っています。いずれにせよ、すべての人のために、この巡礼を部分教会でも行う機会が用意されます。聖なる忠実な神の民の信仰と信心を大事に守る、地方の多くの聖地・聖堂を再発見する機会となるでしょう。今回の聖年の巡礼が、わたしたち一人ひとりにとって、「救いの『門』である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会い」(大勅書『希望は欺かない』1)となるよう願っています。この巡礼の旅を、三つの基本的な姿勢でもって味わうよう勧めます。感謝の姿勢――、あなたの心を、受けた恵みゆえの、とりわけいのちの恵みゆえの、賛美へと開くためです。探し求める姿勢――、心の渇きを鎮めるのではなく、尽きることなく主を探し求める思いを、旅で表すためです。そして最後は、悔い改めの姿勢――、この姿勢が、自分自身の内面を見つめられるよう、自分の誤った道や選びを認められるよう、そうして主へと、その福音の光へと回心できるよう助けてくれます。
4.宣教に向かう希望の巡礼者
皆さんの旅に向けて、もう一つ、魅力的な情景を紹介しましょう。ローマのサンピエトロ大聖堂に来るには、名高い建築家にして彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計した柱廊で囲まれた広場を通ります。柱廊全体が、大きな抱擁の形をしています。つまり、わが子ら皆を迎える、わたしたちの母、教会の広げた両腕なのです。来る希望の聖年に、あなたがた若者皆に、あわれみ深い神の抱擁を体験してほしいと思います。神のゆるしを、聖書にあるヨベルの年の習わしのように、わたしたちの「内的負債」の全免除を、体験してほしいと思います。そうして、神に迎え入れられ、神において新たに生まれることで、皆さんもまた、広げた腕となってほしいのです。あなたがたが歓迎することで、父なる神の愛に触れることを必要としている、多くの友人や同世代の人のためにです。皆さん一人ひとりが、「ちょっとしたほほえみ、親しみのしぐさ、兄弟としてのまなざし、真摯な傾聴、無償の奉仕を、……それがイエスの霊において豊かな希望の種となることを感じつつ」(同18)差し出し、そうして、疲れを知らない喜びの宣教者となることができますように。
歩むうえでは、視線を上げ、信仰のまなざしをもって、聖人たちを見つめましょう。この道を先に行き、すでにゴールにいる彼らは、わたしたちに励ましのあかしを与えてくれています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(二テモテ4・7−8)。諸聖人の模範は、わたしたちを導き、支えてくれます。
頑張っていきましょう。わたしは皆さんのことを心に留め、聖母マリアに一人ひとりの道をゆだねます。聖母の模範に倣って、あなたがたが希望するものを忍耐強く信頼して待ち、希望と愛の巡礼者として旅を続けることができますように。
年間第33主日 2024年11月17日
「貧しい人の祈りは、神に届きます」(シラ21・5参照)
愛する兄弟姉妹の皆さん。
1.貧しい人の祈りは、神に届きます(シラ21・5参照)。2025年の聖年に向けた祈りの年にあって、聖書のこの知恵のことばは、11月17日に祝う第8回「貧しい人のための世界祈願日」に向けて心を準備するわたしたちに、今までになくふさわしいものです。キリスト者の希望は、わたしたちの祈りは神のみもとに届いているとの確信をも内包しています。ですが、いかなる祈りもそうなのではなく、貧しい人の祈りこそがそうなのです。このみことばについて深めましょう。そして、日々出会う貧しい人の顔に、彼らの人生に、それを「読み取りましょう」。そうすることで、祈りが彼らとの交わりに加わり、彼らの苦しみを分かち合う道となりますように。
2.ここで取り上げるシラ書はあまり知られている書ではありませんが、扱っているテーマの豊かさ、とりわけ神と人との関係、世と人との関係について言及している点において注目すべきものです。その著者ベン・シラは、エルサレム出身の師であり律法学者で、おそらく紀元前2世紀にこれを著しています。イスラエルの伝統をルーツにする賢者で、仕事から家庭、社会生活から青少年教育まで、人間生活のさまざまな領域について教え、神への信仰や律法の遵守に関する問題にも注意を払っています。現代のわたしたちにとっても重要な意味をもつ、自由、悪、神の義といった難題に取り組んでいます。ベン・シラは、聖霊によるひらめきをもって、神と兄弟姉妹との前で生きるにふさわしい賢明な人生としての歩むべき道を、すべての人に伝えようとしています。
3.この聖なる作者が、最大の紙幅を割くテーマの一つが祈りです。彼自身の個人的経験を語っているので、熱い情熱をもって書いています。実際、祈りに関するどんな書も、日々神に向き合い、そのことばに耳を傾けている人によるものでなければ、説得力をもった読みごたえのあるものにはなりえません。ベン・シラは、若いころから知恵を求めてきたと明言しています。「わたしは、若くして放浪の旅に出る前に、祈りの中で公然と知恵を求めた」(シラ51・13)。
4.その旅の中で彼は、啓示における根本的な現実の一つ、すなわち神の心の中では貧しい人が優遇されているという事実を発見します。彼らの苦しみを前にして、神は彼らに義を尽くすのを「待ちきれない」ほどです。「謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高きかたが彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。主はためらうことなく行動し、悪人どもを我慢なさらない」(シラ35・21−22)。神はご自分の子らの苦しみをご存じです。なぜなら神は、すべての人に心を配り、世話してくださる御父だからです。御父としてご自分をもっとも必要とする人――貧しい人、疎外された人、苦しむ人、忘れられた人……――を世話するのです。けれども、神の心から除外されている人などいません。神の前では、だれもが貧しく、助けを求めているのですから。わたしたちは皆物乞いです。神なしでは無に等しいからです。神が与えてくださらなければ、わたしたちには生命さえないのです。にもかかわらず、なぜ、自分たちこそ生命をつかさどる者であるかのように、いのちを支配すべき者であるかのように、生きているばかりなのでしょう。世俗の精神性は、ひとかどの者になること、何が何でも名を上げることを求め、富を得るためには社会規範を破りすらします。なんと悲しい幻想でしょう。他者の権利や尊厳を踏みにじりながら、手に入れられる幸せなどありません。
戦争が引き起こす暴力には、神の目には惨めな存在であるのに、人々に対しては力を振るえるのだとうぬぼれる者たちの傲慢が如実に現れています。兵器を用いるこの悪しき政策から、貧しい人がどれだけ新たに生み出され、罪のない犠牲者がどれだけ出たことでしょう。ですが、後ずさりしているわけにはいきません。主の弟子たちは、この「小さな者たち」一人ひとりに、神の独り子の顔が刻まれているのを知っています。そしてその一人ひとりに、わたしたちの連帯とキリストの愛のしるしを届けなければならないのです。「すべてのキリスト者とすべての共同体は、貧しい人々が社会に十全に組み入れられるようにするため、彼らを解放し高める神の道具となるよう呼ばれています。それは、貧しい人々の叫びに素直に注意深く耳を傾け、彼らを救うようにということです」(使徒的勧告『福音の喜び』187)。
5.祈りの年である今年、貧しい人々の祈りを自分の祈りとし、彼らとともに祈らなければなりません。それはわたしたちが引き受けるべき挑戦であり、励まされるべき司牧活動です。まさしく、「貧しい人が苦しんでいるもっともひどい差別とは、霊的配慮の欠如なのです。貧しい人々の大多数は、信仰に対して特別に開かれています。彼らには神が必要で、わたしたちは彼らに、神の友情、神の祝福、神のことば、秘跡の執行、信仰における成長と成熟の道への促し、これらを差し出すことをやめてはなりません。貧しい人々を優先する選択は、おもに彼らを特権的に優遇した宗教的配慮につなげなければなりません」(同200)。
以上のことから、物乞いとなる勇気のある謙虚な心が求められます。自分が貧しい者、助けを必要とする者だと自覚できる心です。実際、貧しさと謙遜と信頼の間には相関関係があります。聖アウグスティヌス司教が語ったように、真に貧しい人は謙遜です。「貧しい人には誇るものがないが、金持ちは誇るものを手放さなければならない。だからわたしのいうことを聞きなさい。真に貧しくあれ、有徳であれ、謙遜であれ」(『説教』14・4)。謙遜な人には、自慢するもの、うぬぼれるものがなく、自分自身に頼ることはできないと知っています。ですが、神のあわれみ深い愛に訴えることができると固く信じています。父親の抱擁を受けるために悔い改めて家に帰ってくる放蕩息子のように(ルカ15・11−24参照)、その神のみ前でたたずんでいるのです。貧しい人には頼るべきものが何もないので、神から力を授かり、神に全幅の信頼を置いています。まさしく謙虚さから、神は決してわたしたちを見捨てず、返事もせずに置き去りになさることなどないという確信が生まれるのです。
6.わたしたちの街に住み、この地域社会の一員である貧しい人々に、申し上げたいと思います。その確信を失わないでください。神は、皆さん一人ひとりに心を配る、皆さんの味方です。皆さんを忘れることはありませんし、いまだかつて忘れたことはありません。だれしも、応答がないままであるような祈りを経験しています。苦しみや辱めとなる悲惨さから救い出してくださいと祈っても、神にはその嘆願が聞こえていないかのように思えることがあります。しかし神の沈黙は、わたしたちの苦しみに気を留めておられないからではありません。むしろそれには、神と神のみ旨とにわたしたちをゆだね、信頼のうちに受け入れるよう求める、ことばが込められているのです。このことを証言するのもまた、シラです。「主の裁定は、貧しい人に速やかに下される」(シラ21・5参照)。それゆえ、貧しさから、もっとも純な希望の歌が生まれるのです。忘れないでください。「内的生活が自己の関心のみに閉ざされていると、もはや他者に関心を示したり、貧しい人々のことを考えたり、神の声に耳を傾けたり、神の愛がもたらす甘美な喜びを味わうこともなくなり、ついには、善を行う熱意も失ってしまうのです。……それは復活したキリストの心からわき出る聖霊に結ばれた生活でもありません」(『福音の喜び』2)。
7.「貧しい人のための世界祈願日」は、すべての教会共同体にとって今や通例となっています。軽んじることのできない、司牧の機会です。というのもこの日、貧しい人の祈りに耳を傾け、彼らの存在と彼らの必要に気づくよう、全信者が促されるからです。貧しい人たちを具体的に助ける取り組みの実践にとって、また、いちばんの困窮者のために情熱を注いで、身を粉にして働く多くのボランティアへの感謝と支援にとっても絶好の機会です。もっとも貧しい人の声に耳を傾け、彼らを支援するために力を尽くす人々のことを、主に感謝しなければなりません。彼らは、そのあかしをもって、神に訴える人々の祈りへの神のこたえに声を与える司祭であり、奉献生活者であり、信徒たちです。つまり沈黙は、貧困にあえぐ兄弟姉妹が受け入れられ、抱擁されるたびに、破られているのです。貧しい人々からは、なお多くのことを教えられます。富を第一とし、人間の尊厳を物質的財という祭壇の上でいけにえとすることの少なくない文化の中で、貧しい人々は、人生において本質的なものは、それとはまったく違う別のものだと明らかにすることで、その流れに逆らっているからです。
それゆえ、祈りの真正さは、出会いや寄り添いとなる愛のわざによって見定められます。祈りが具体的な行動に移されないのなら、それはむなしい祈りです。まさしく、「行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)。ですが、愛のわざも祈りを欠くならば、すぐに息切れする慈善事業になりかねません。「日々、忠実に祈らなければ、わたしたちの活動はむなしいものとなり、深い魂を失います。それはわたしたちを最終的に満足させることのない、単なる活動主義に陥るのです」(教皇ベネディクト十六世「一般謁見演説(2012年4月25日)」)。わたしたちはこの誘惑を退け、いのちの与え主である聖霊から授けられる力と忍耐力をもって、たえず目覚めていなければなりません。
8.このような中で、貧しい人のために生涯をささげた、コルカタのマザー・テレサがわたしたちに残したあかしを思い起こすのはふさわしいことです。この聖人は、祈りこそが自身の力と信仰を引き出す場であり、もっとも虐げられている人々への奉仕という自身の使命を支えていると、事あるごとに繰り返していました。1985年10月26日、国連総会での演説で、いつも手にもっているロザリオを皆に示しながらこう語りました。「わたしはただ祈るだけの貧しい修道女です。祈る中で、イエスはわたしの心に愛を注ぎ、わたしはその愛を、行く先々で出会う貧しい人すべてに与えるために出向いて行くのです。皆さんも祈ってください。祈ってくだされば、皆さんもすぐ近くに貧しい人たちがいることに気づくでしょう。皆さんの住居の同じフロアにいるかもしれません。皆さんの家にも、あなたの愛を待っている人がいるかもしれません。祈ってください。そうすれば皆さんの目は開かれ、皆さんの心は愛で満たされるでしょう」。
そしてここ、ローマ市においては、聖ベネディクト・ジョセフ・ラブレ(1748−1783年)を忘れてはなりません。彼の遺体は、サンタ・マリア・アイ・モンティ小教区に安置され、崇敬を受けています。フランス出身でローマに来た巡礼者であった彼は、多くの修道院で受け入れられず、晩年は貧しい人々の中で貧しく生活し、何時間も何時間も、ご聖体の前で祈り、ロザリオを祈り、聖務日課を唱え、新約聖書や『キリストに倣いて(イミタツィオ・クリスティ)』を読みふけっていました。寝泊まりするささやかな部屋すらもたず、コロッセオの廃墟の片隅で身を横たえ、「神の放浪者」として、自身の存在を、神の元へと昇っていく絶えざる祈りとしました。
9.聖年への途上にあって、一人ひとりが希望の巡礼者となり、よりよい未来のための確かなしるしをもたらしてください。「ささやかな愛情表現」(使徒的勧告『喜びに喜べ』145)を大切にすることを忘れないでください。立ち止まること、近づくこと、ちょっとした気遣い、微笑むこと、優しく触れること、慰めのことばをかけること……。こうした振る舞いはにわか仕込みではできません。むしろ、日々忠実であることを必要とし、大抵は隠れて目立ちませんが、祈りによって強められるものです。希望の歌が、武器の轟音に、あまりに多い罪なき負傷者の叫びに、戦争による無数の犠牲者の沈黙に、取って代わられたかに思えるこの時代にわたしたちは、平和を求めて神に祈ります。わたしたちは平和において貧しい者ですから、尊い贈り物である平和を受け取るために手を差し出し、さらに自分たち自身も、日々の生活の中で、平和の修復に努めましょう。
10.わたしたちは、もっとも虐げられた人々との連帯を示した最初のかた、イエスの足跡をたどって、いかなる状況にあっても貧しい人の友となるよう求められています。バヌー(ベルギー)に出現された神の母聖マリアが、この道を行くわたしたちを支えてくださいますように。このかたが残されたメッセージを、わたしたちは忘れてはなりません。「わたしは貧しい人の聖母です」。神は、その謙遜な貧しさゆえにマリアに目を留め、その従順さを用いて偉大なわざの数々をなし遂げました。その聖母マリアに、わたしたちの祈りをゆだねます。この祈りが天に昇り、聞き届けられると固く信じつつ。
今年のテーマは「初めに言があった。」(ヨハネ1・1)といたしました。
『聖書に親しむ』について
リーフレット『聖書に親しむ』は、全国の小教区をはじめ、修道院ならびにカトリック系学校および諸施設にお届けしております。
教会などに在庫が無い時には、このホームページからダウンロードしてご覧ください。
「苦しんでいる子どもたち、とりわけ家を失ったり、孤児となったり、戦争の犠牲となった子どもたちが、教育を受けることを保証され、また家庭の愛に触れる機会に恵まれますように」。
教皇フランシスコは、この祈りの意向について、次のように語られた。
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いまだ無数の少年少女たちが奴隷に近い状態を生き、苦しんでいます。
彼らは単なる数字ではありません。それぞれの名前と顔、神から与えられたアイデンティーを持った人間です。
あまりにしばしば、わたしたちは自らの責任を忘れ、搾取されるこれらの子どもたちを前に目を背けてしまいます。彼らには遊び、勉強し、夢を見る権利もありません。家庭の温かささえ知ることがありません。
疎外され、家族から見捨てられ、教育も医療ケアも受けられない子どもたち一人ひとりが、一つの叫びです。その叫びは神に上げられ、わたしたち大人が築き上げたシステムを訴えています。
見捨てられた子どもは、わたしたちの責任です。
子どもたちが一人ぼっちで見捨てられたように感じることがこれ以上あってはなりません。神が彼らを決してお忘れにならないことを知るために、教育を受け、家族の愛を感じる必要があります。
祈りましょう。苦しんでいる子どもたち、とりわけ家を失ったり、孤児となったり、戦争の犠牲となった子どもたちが、教育を受けることを保証され、また家庭の愛に触れる機会に恵まれますように。
「出て、だれでも婚宴に連れてきなさい」(マタイ22・9参照)
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
今年の世界宣教の日のテーマには、福音書から婚宴のたとえ話(マタイ22・1−14参照)を選びました。招かれた者たちが招待を断ると、物語の主人公である王は家来たちにいいます。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい」(9節)。鍵となるこの一節を、たとえ話とイエスの生涯という文脈で考えてみると、福音宣教のいくつかの重要な側面――シノドスの旅の最終段階にある現在、キリストの宣教する弟子であるわたしたち全員にとって、目下集中的に話題となっていること――が照らされます。今回のシノドスは、「交わり、参加、宣教」というテーマのもと、教会をその最優先課題である、現代世界における福音宣教に向けて再始動させなければならないとするものです。
1.「出て、連れてきなさい」―― 疲れを知らずに出向き、主の宴に招くものである宣教
王の家来たちへの命令の冒頭に、宣教の核心を表す二つの動詞、「出て」と「連れてくる」――「招きなさい」の意味――が登場します。
前者については、前もって家来たちは、招こうとする者たちに王のことばを伝えるべく遣わされたこと(3−4節参照)を思い出さなければなりません。ここから、宣教とは、全人類のもとへと疲れを知らずに出向き、神との出会いと交わりに招くことだと教えられます。疲れを知らずに――。愛に満ち、いつくしみ豊かな神は、つねに一人ひとりのもとへと出向き、その人が無関心であろうとも拒絶しようとも、み国の幸福に招いておられます。同じく、よい羊飼いであり、御父から遣わされたかたであるイエス・キリストは、イスラエルの民の失われた羊を探しに出掛け、いちばん遠くにいる羊のもとにまで行き着くために、さらに遠くへ出掛けたいと望んでおられたのです(ヨハネ10・16参照)。このかたは、ご自分の復活の前も後も弟子たちに「行きなさい」と命じ、ご自分の宣教に彼らを引き入れました(ルカ10・3、マルコ16・15参照)。だからこそ教会は、主から受けた使命を忠実に果たすために、境界線をことごとく越えて進み続け、困難や障害に直面しても疲れを知らずに、落胆することなく、何度でも出掛けていくのです。
この機会に、宣教者の皆さんに感謝したいと思います。キリストの呼びかけにこたえ、祖国を離れ遠くへ行き、福音をまだ受け取っていない人々、あるいは、受け取ったばかりの人たちのもとに届けるため、すべてと決別したかたがたです。親愛なる皆さん。皆さんの惜しみない献身は、イエスが弟子たちに託された、諸国民への宣教という責務の具体的な表出です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)。ですから地の果てまで福音化する働きのために、新たな多くの宣教者の召命を求めて、神に祈り、感謝し続けましょう。
ですから忘れてはなりません。すべてのキリスト者は、どんな環境においても、福音について自分に固有のあかしをもって、この全世界への宣教に加わるよう求められています。それは、教会全体でもって、主であり師であるかたとともに、今日の世界の「町の大通り」にたえず出ていくためです。そうです。「今日の教会の悲劇は、イエスは扉を内側からたたき続けているのに、わたしたちがイエスを外に出ないようにしていることです。主が来られたのは宣教のためで、わたしたちが宣教者となることを望んでいるのに、主を『わがもの』として引き留め、出て行かないようにする……、そうした教会となってしまうことばかりです」(教皇フランシスコ「教皇庁いのち・信徒・家庭省主催会議――司牧者と信徒の協働(2023年2月18日)――参加者へのあいさつ」)。洗礼を受けたわたしたち皆が、それぞれの立場に応じて、キリスト教の黎明期のように、新たな宣教運動を始めるため再出発する覚悟をもつことができますように。
たとえ話の中の、家来たちに対する王の命令に話を戻すと、出向くことは、声をかけること、より正確にいえば招くことと一緒になっています。「さあ、婚宴においでください」(マタイ22・4)というようにです。このことは、神から託された使命にある、もう一つの重要な側面を示唆します。想像に難くないことですが、使者を務めたこの家来たちは、王の招きを大急ぎで、けれども深い敬意と慎みをもって伝えました。同じように、すべての造られたものに福音をのべ伝えるという宣教には、必然的に、そこで告げられているかたと同じ姿勢がなければなりません。「死んで復活したイエス・キリストにおいて現される、救いをもたらす神の愛の美」(使徒的勧告『福音の喜び』36)を世に告げ知らせるとき、宣教する弟子たちはそれを、自身にもたらされた聖霊の実である、喜び、寛容、親切(ガラテヤ5・22参照)をもって行うのです。押しつけず、無理強いせず、改宗を強要せずに、神の流儀、神のなさり方の映しとして、必ず寄り添いの心、思いやり、優しさをもって宣教するのです。
2.婚宴に――キリストと教会の宣教にある、終末的視点とエウカリスチアの視点
このたとえ話の中で、王は家来たちに、息子の婚宴への招待状を届けるよう命じています。この婚宴は終わりの日の宴の映しであり、救い主、神の御子、イエスの到来によってすでに実現している神の国での、最終的な救いのイメージです。イエスはわたしたちに豊かないのちを与えてくださったかたです(ヨハネ10・10参照)。それは、神が「死を永久に滅ぼしてくださる」ときの、「よい肉と古い酒」(イザヤ25・6−8)が豪華に並んだ食卓によって象徴されるものです。
キリストの使命は、その宣教の初めにご自身が告げたように、時の充満とつながっています。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)。だからキリストの弟子たちは、師であり主であるかたと同じその使命を受け継ぐよう招かれているのです。これに関しては、第二バチカン公会議の、教会の宣教の務めがもつ終末的特徴についての教えを思い起こしてみましょう。「宣教活動の期間は、主の最初の到来と、……二度目の来臨までの間である。ということは、主が来られるまでに、あらゆる民に福音がのべ伝えられなければならない」(『教会の宣教活動に関する教令』9)。
わたしたちは、初代教会のキリスト者の宣教熱には、終末的な側面が色濃いことを知っています。彼らは福音を告げ知らせることに切迫感をもっていました。現代においても、この視点を覚えておくことは大切です。それが、「主は近くにおられる」と知る人の喜びと、神の国でわたしたち皆がキリストとともにあずかる婚宴という目的地に向かう人の希望とを携え、福音宣教する助けとなるからです。こうして、世が消費主義、利己的な幸福、蓄財、個人主義といったさまざまな「婚宴」を示す中で、福音はすべての人を、神との、そして人間相互の交わりにおいて、喜び、分かち合い、正義、友愛が支配する、神の宴へと招いています。
キリストからのたまものである、このようないのちの充満は、教会が主に命じられ、主を記念して祝う聖体の宴に先取りされています。ですから、わたしたちが福音宣教によってすべての人に届ける終わりの日の宴への招きは、主がご自分のことばと、御からだと御血とをもって養ってくださる聖体の食卓への招きに、本来的に結ばれています。ベネディクト十六世が教えていたとおりです。「感謝の祭儀が行われるごとに、終わりの日の神の民の集いが秘跡の形で実現します。わたしたちにとって聖体の宴は最後の宴の実際の先取りです。この最後の宴は、預言者たちによって前もって語られ(イザヤ25・6−9参照)、新約の中では、諸聖人の交わりの喜びのうちに祝われる、『小羊の婚礼』(黙示録19・7−9)と述べられます」(使徒的勧告『愛の秘跡』31)。
そのためわたしたちは皆、感謝の祭儀をそのあらゆる面で、なかでも終末的な面と宣教的な面において、いっそう熱心に味わうよう求められています。この点について、次のことを今一度確認したいと思います。「宣教のわざへと導かれることなしに、聖体の食卓に近づくことはできません。宣教は、神のみ心によって計画され、すべての人に達することを目指すからです」(同84)。コロナ禍を経て、多くの地方教会が見事に復活させている感謝の祭儀は、信者一人ひとりに宣教の心をかき立てるための、いっそうの基盤となるでしょう。ミサのたびに、さらなる信仰と熱い心をもって応唱すべきです。「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」。
こうした展望を踏まえ、2025年の聖年を準備する祈りの年である今年、皆さんに呼びかけたいのは、教会の福音宣教のために、何よりもミサに参加すること、そして熱心に祈ることです。教会は救い主のことばに従順で、感謝の祭儀や典礼祭儀のたびに、「み国が来ますように」と祈る「主の祈り」を神にささげ続けています。このように、日々の祈りと、とりわけ感謝の祭儀が、わたしたちを神のうちでの終わることのないいのちへと、神がすべての子らに用意してくださる婚宴へと向かう旅路を歩む、希望の巡礼者、希望の宣教者にしてくれるのです。
3.「だれでも」――キリストの弟子たちの世界への宣教と、ひたすらシノドス的で宣教的な教会
最後となる三つ目の考察は、王の招待を受けた人たちについてです。「だれでも」――。はっきり申し上げたとおりです。「この『だれでも』こそが宣教の核心です。だれ一人、例外はいません。だれでもです。ですからわたしたちの宣教はことごとく、すべての人をご自分へと引き寄せるために、キリストのみ心から生じるものなのです」(教皇フランシスコ「教皇庁宣教事業総会参加者へのあいさつ(2023年6月3日)」)。分断や紛争にさいなまれた世界の中で、今日もなお、キリストの福音は柔和で強い声となり、人々が出会い、互いを兄弟姉妹として認め、多様性の調和を喜ぶよう招いています。神がお望みになるのは、「すべての人々が救われて真理を知るようになること」(一テモテ2・4)です。ですから、宣教活動においてわたしたちは、すべての人に福音を告げるために遣わされた者であることを決して忘れてはなりません。そしてそれは、「新たな義務を人に課すようなものではなく、喜びを分かち合い、美しい地平を示し、だれもが望む宴に招くようなもの」(使徒的勧告『福音の喜び』14)として告げられなければなりません。
キリストの宣教する弟子たちはいつも、その社会的・道徳的状況を問うことなく、すべての人を案じる心を忘れません。婚宴のたとえは、王の命令に従う家来たちは「見かけた人は善人も悪人も皆」(マタイ22・10)集めたと伝えています。さらには、「貧しい人、からだの不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(ルカ14・21)、つまり、社会の中で取り残され、疎外された人たちこそが王の賓客なのです。このように、神が用意された御子の婚宴は、永遠にすべての人に開かれています。わたしたち一人ひとりに対する神の愛は大きく、条件などないからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。変えてくださり救ってくださる神の恵みにあずかるよう、だれもが、あらゆる人が招かれています。わたしたちがすべきことはただ、神からのこの寛大なたまものに「はい」と答え、それを受け入れ、それによって変容されるがままになって、「婚礼の礼服」をまとうように、それに身を包むことです(マタイ22・12参照)。
すべての人への宣教には、皆で取り組む必要があります。ですから、福音に仕える、ひたすらシノドス的で宣教的な教会を目指す道を歩み続けなければなりません。シノダリティはそれ自体宣教的であり、逆もまたしかりで、宣教は必ずシノドス的です。だからこそ今日、緊密な宣教協力は、普遍教会においても、また部分教会においても、より緊急かつ必須なものとなっています。第二バチカン公会議と前任の教皇たちに倣い、世界中の全教区に対して、教皇庁宣教事業への協力を要請します。同事業は、「カトリック信者にすでに幼少のころから、真に普遍的、宣教的な精神を浸透させるための手段であり、あるいはまた、全宣教地の益のため、それぞれの必要に応じて、援助のための募金活動を効率よく行うための手段」(『教会の宣教活動に関する教令』38)として主要な部分を担っています。こうした理由から、すべての地方教会で行われる世界宣教の日の献金は全額、世界連帯基金に充当され、教皇庁信仰弘布事業により教皇の名において、教会のあらゆる宣教事業の必要のために分配されます。主がわたしたちを導き、よりシノドス的で宣教に励む教会となるために助けてくださるよう、祈り求めましょう(教皇フランシスコ「シノドス通常総会閉会ミサ説教(2023年10月29日)」参照)。
最後に、マリアに目を向けましょう。ガリラヤにあるカナでの、まさしく婚宴の場で、イエスに最初の奇跡を願い出たかたです(ヨハネ2・1−12参照)。主は花婿花嫁とすべての招待客に、たっぷりの新しいぶどう酒を与えましたが、これは、終わりの日に神がすべての人のために用意しておられる婚宴を予感させるしるしです。今日もまた、キリストの弟子たちの福音宣教のために、マリアの母としての執り成しを祈り願いましょう。聖母の喜びとすぐに動かれる姿勢で、優しさと愛情の力をもって(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』288参照)、出向いて、すべての人に救い主である王の招きを届けましょう。聖マリア、福音宣教の星よ、わたしたちのために祈ってください。
2024年10月は、「使命を担い合う」ために、次のように祈る。
「教会が、共同責任のしるしとして、あらゆる場面でシノドス的な生活様式を維持し、司祭・修道者・信徒の参加と交わりをもって使命を推し進めることができますように」。
教皇フランシスコは、この意向について、メッセージで次のように話された。
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わたしたちキリスト者は皆、教会の使命に責任を負っています。すべての司祭が、すべての人がです。
われわれ司祭は、信徒の上司ではなく、司牧者です。イエスはわたしたち皆を召されました。誰かを誰かの上にではなく、誰かをこちら側に他の人をあちら側にではありません。わたしたちが互いに補い合うように召されました。わたしたちは共同体です。それゆえに、わたしたちは共に歩まなければなりません。
もちろん、皆さんはわたしに尋ねることができるでしょう。自分には何ができるでしょうかと。バスの運転手でしょうか。農業者でしょうか。漁業者でしょうか。皆がすべきことはこれです。自分の人生をとおして証しをもたらすことです。教会の使命の責任を分かち合うことです。
信徒たち、洗礼を受けた人たちは、教会の中に、自分の家にいます。そして、その家の世話をしなくてはなりません。それはわたしたち司祭や修道者にとっても同じです。一人ひとりが自分に得意なことをとおして貢献するのです。わたしたちは教会の使命における共同責任者です。わたしたちは教会の交わりの中で、参加し、生きています。
祈りましょう。教会が、共同責任のしるしとして、あらゆる場面でシノドス的な生活様式を維持し、司祭・修道者・信徒の参加と交わりをもって使命を推し進めることができますように。
教皇フランシスコは、「主の昇天」を祝った5月9日(木)、2025年の聖年を布告する大勅書「希望は欺かない」を発表しました。
大勅書には、2024年12月29日(日)日本も含めたすべてのカテドラルにおいて、教区司教により聖年の荘厳な開幕としてのミサを捧げるよう記されています。
なお、本大勅書の邦訳は、後日カトリック中央協議会より小冊子の刊行を予定しています。
Spes non confundit(希望は欺かない)全文
関連リンク:バチカンニュース日本語
教皇フランシスコにより発表された
2025年の通常聖年の間に与えられる免償*に関する教令
「そして今、新たな聖年の時が来ました。この聖年の間に聖なる扉が再び大きく開かれ、キリストにおける救いという確かな希望を心に呼び起こす、神の愛の生きた体験がもたらされます」(教皇フランシスコ大勅書『希望は欺かない(2024年5月9日)』6[Spes non confundit])。「過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています」(同8)。このような歴史的瞬間に、教皇は2025年の通常聖年を公布する大勅書で、希望の巡礼者となるようすべてのキリスト信者に呼びかけます。希望という徳は、時のしるしの中で再発見されなければなりません。「救ってくださる神の現存を必要とする人間の心の渇望を含んだ時のしるしは、希望のしるしへと変えられることを望んでいるのです」(同7)。この希望は、何よりも、神の恵みとその満ち満ちたいつくしみからくみ取らなければなりません。
教皇フランシスコは、すでに2015年のいつくしみの特別聖年を公布する大勅書において、聖年の期間中、免償を受けることが「とくに大切」であることを強調しました(教皇フランシスコ、いつくしみの特別聖年公布の大勅書『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔(2015年4月11日)』22[Misericordiae vultus])。なぜなら、神のいつくしみは「キリストの花嫁を介して……御父の免償となり、罪人のもとにゆるしを届けます。そしてその人が……再び罪に陥るのではなくむしろ……罪のあらゆる結果から解放してくださ」るからです(同)。同じように、教皇はこう宣言します。免償のたまものは「神のあわれみがいかに無限であるかを分からせてくれます。古代において、「あわれみ(misericordia)」ということばは、「免償(indulgentia)」ということばと互換性のあるものだったのは偶然ではありません。なぜなら、まさに「免償」は、限界を知らない神のゆるしの十全さを表そうとするものだからです」(『希望は欺かない』23)。それゆえ、免償は聖年の恵みです。
それゆえ、2025年の通常聖年の期間中、教皇の望みにより、免償の授与と使用にかかわるすべてのことがらに責任を負う「いつくしみの法廷」である本内赦院は、信者の魂を力づけ、すべての聖年に固有な恵みのたまものである免償を得ようとする聖なる望みをはぐくむことを目指して、以下の規定を定めます。それは、信者が「聖年の免償を得て、それを有効なものとするための諸規定」(同23)を用いることができるようにするためです。
2025年の通常聖年の期間中、すでに与えられた他の免償は有効であり続けます。心から痛悔し、罪の傾きから離れ(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 20, § 1]参照)、愛の精神に動かされ、聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます。これは代願のかたちで、煉獄の霊魂に対して与えられることも可能です。
一 聖なる巡礼
希望の巡礼者である信者は、聖なる巡礼を行うことにより、教皇から聖年の免償を受けることができます。
聖年の巡礼所への巡礼 聖なるミサに敬虔に参加する(典礼規則が認めるかぎりにおいて、まずは聖年のためのミサ、あるいは、和解のため、罪のゆるしのため、愛徳を願うため、一致を深めるための信心ミサをささげる)。キリスト教入信の秘跡や病者の塗油を授けるための儀式ミサ、神のことばの祭儀、教会の祈り(読書、朝の祈り、晩の祈り)、十字架の道行、ロザリオの祈りに参加する。アカティストスの聖母賛歌を唱える。ゆるしの式―儀式書『ゆるしの秘跡』で定められているような(第2形式)、個人の罪の告白で終わる式―に参加する。
ローマへの巡礼 四つの教皇バジリカ―バチカン・サンピエトロ大聖堂、ラテラノ・サンティッシモ・サルヴァトーレ(聖救世主)大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ(城外の聖パウロ)大聖堂―の少なくとも一つに巡礼を行う。
聖地への巡礼 三つのバジリカ―エルサレム・聖墳墓大聖堂、ベツレヘム・降誕大聖堂、ナザレ・お告げの大聖堂―の少なくとも一つに巡礼を行う。
他の教会地域への巡礼 地区裁治権者の指定した司教座聖堂、他の聖堂、または巡礼所。司教は、信者の必要を考慮するとともに、回心と和解の大きな必要性を示すことができる、象徴的な力を含む巡礼がもつあらゆる意味を保つ機会について配慮しなければならない。
二 巡礼所への聖なる訪問
同じように、信者は、個人またはグループで、聖年の巡礼地を敬虔に訪れ、そこで適切な時間、聖体礼拝と黙想を行い、終わりに主の祈り、正式なかたちでの信仰宣言、神の母マリアへの祈願を唱えるなら、聖年の免償を受けることができます。それは、聖年の間、すべての人が「わが子を決して見捨てない母の中でもっとも愛情深い母であるかた……の寄り添いを味わう」(『希望は欺かない』24)ためです。
聖年の特別な期間、上記の著名な巡礼地のほか、他の聖なる場所を同じ条件で訪問することもできます。
ローマ サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ(エルサレムの聖十字架)大聖堂、サン・ロレンツォ・アル・ヴェラノ(城外の聖ラウレンチオ)大聖堂、サン・セバスティアーノ大聖堂(聖フィリポ・ネリが愛した「ローマの7巡礼聖堂」を敬虔に訪問することは大いに推奨されます)、サントゥアリオ・デル・ディヴィノ・アモーレ(神の愛の巡礼大聖堂)、サント・スピリト・イン・サッシア教会堂、使徒パウロの殉教地であるサン・パオロ・アッレ・トレ・フォンターネ教会堂、ローマのカタコンベ、『イテル・エウロペウム』(Iter Europaeum)(訳注:2021年に制定された、EU加盟国に紐づけられた教会を巡るローマ市内の巡礼路)に示された聖年の巡礼教会および「ヨーロッパの女性守護聖人と教会博士」にささげられた教会堂(サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、サンタ・ブリジダ・ア・カンポ・デ・フィオーリ教会、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会、トリニタ・デイ・モンティ教会、サンタ・チェチリア・ア・トラステヴェレ教会、サンタゴスチーノ・イン・カンポ・マルツィオ教会)。
世界の他の地域への巡礼 アッシジの二つの教皇小バジリカ(サン・フランチェスコ聖堂、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂)、ロレトの聖母教皇バジリカ、ポンペイの聖母教皇バジリカ、パドヴァの聖アントニオ教皇バジリカ、あらゆる小バジリカ、司教座聖堂、共同司教座聖堂、聖母巡礼所、ならびに、信者の善益のために教区司教ないし東方教会司教区司教が指定したあらゆる著名な参事会聖堂または巡礼所、司教協議会によって定められた、「歓待する聖所、希望を呼び起こす特別な場となる」(『希望は欺かない』24)、各国巡礼所および国際的巡礼所。
心から罪を痛悔していても、重大な理由でさまざまな荘厳な典礼への参加や、巡礼や聖なる訪問ができない信者(とくに男女の隠世修道者、高齢者、病者、受刑者、また、病院や他の看護施設で継続的に病者に奉仕する人々)は、同じ条件のもとに聖年の免償を受けることができます。すなわち、とくに教皇や教区司教のことばがさまざまなコミュニケーション手段によって伝えられるときに、そばにいる信者と心を一つにし、自宅または自分がとどまらなければならない場所(たとえば、隠世修道院、病院、看護施設、刑務所の礼拝堂)で、主の祈り、認可されたかたちでの信仰宣言、聖年の目的にかなう他の祈りを唱え、自分たちの苦しみと生活の困難をささげることによって。
三 慈善と償いのわざ
さらに信者は、敬虔な心で、宣教活動、霊操、教皇の精神に従って教会や他の適切な場所で行われる『第二バチカン公会議公文書』や『カトリック教会のカテキズム』の勉強会に参加するなら、聖年の免償を受けることができます。
全免償は1日に1回しか受けられないという規定(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 18, § 1]参照)にもかかわらず、煉獄の霊魂のために愛のわざを行う信者は、同じ日に合法的に2回目の聖体拝領をするなら、同じ日に死者にのみ適用される、2回目の全免償を受けることができます(これは感謝の祭儀の中でのみのことです。教会法第917条、教皇庁教会法解釈委員会『疑問に対する応答(1984年7月11日)』1[Responsa ad dubia]参照)。この二重の奉献により、地上の旅にある信者を、キリストの神秘的なからだのうちに、すでに旅路を終えた信者と結びつけるきずなを通じて、褒むべき超自然的な愛のわざがなし遂げられます。「聖年の免償は、祈りの力によって、わたしたちより先に召された人々が満ち足りたあわれみにあずかれるよう、特別な方法で彼らのためにも意図されている」(『希望は欺かない』22)からです。
しかし特別なしかたで、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます」(『希望は欺かない』10)。それゆえ免償は、回心の始まりをあかしする、慈善と償いのわざとも結びつけられるのです。信者は、キリストの模範と命令に従って、愛と慈善のわざをいっそう頻繁に行うよう駆り立てられています。このわざはおもに、さまざまな困難に苦しむ兄弟への奉仕によってなされます。とくに「身体的な慈善のわざをあらためて見てみましょう。飢えている人に食べさせること、渇いている人に飲み物を与えること、着る物をもたない人に衣服を与えること、宿のない人に宿を提供すること、病者を訪問すること、受刑者を訪問すること、死者を埋葬すること―、これです」(『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』15)。また、「精神的な慈善のわざも忘れてはなりません。疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ること―、これです」(同)。
同じように信者は、困窮や困難のうちにある兄弟(病者、受刑者、孤独な高齢者、障害者……)をふさわしい頻度で訪問することにより、聖年の免償を受けることができます。いわば、通常の霊的・秘跡的また祈りの条件に従って、その人々のうちにおられるキリストへの巡礼を行うことによってです(マタイ25・34―36参照)。信者は間違いなく、聖年の期間中、このような訪問を繰り返すことにより、毎日でも、そのつど全免償を受けることができます。
聖年の全免償は、具体的かつ寛大なしかたで償いの精神を実践する取り組みによっても与えられます。償いの精神はいわば聖年の魂です。とくに金曜日の償いとしての意味を再発見しなければなりません。償いの精神をもって少なくとも週に1日、無益な娯楽(現実の娯楽とともに、たとえばメディアやソーシャル・ネットワークを通じた仮想の娯楽)や過剰な消費を控えること(たとえば、教会の一般的な規則や司教の指示に従った断食や節制のわざによって)。また、貧しい人々に適切な金額の寄付をすること。宗教的・社会的な性格の援助活動―とくにあらゆる段階におけるいのちを保護し、守るだけでなく、見捨てられた子どもたち、困難のうちにある若者、困窮や孤独のうちにある高齢者、さまざまな国からの移住者の、生活の質を守ることです。移住者は「自分自身と家族のために、よりよい生活を求めて故郷を去る」(『希望は欺かない』13)のです。免償は、適切な量の自由時間を、共同体に奉仕するボランティア活動や、他の同様な個人的な取り組みにささげることによっても与えられます。
教区と東方教会の司教区司教、および法的にこれに相当する立場にある人々は、聖年の期間の適切な日に、司教座聖堂や個々の聖年の教会堂で主要な祭儀を行うときに、全免償を伴う教皇祝福を与えることができます。この全免償は、通常の条件のもとでこの祝福を受けるすべての信者が受けることができるものです。
ゆるしの秘跡に近づくことと、「(聖ペトロの)鍵の力」(訳注:マタイ16・19、18・18参照)による神のゆるしを得ることを司牧的に助けるために、地区裁治権者は、司教座聖堂や聖年のために指定された教会堂で信者の告白を聞く参事会員や司祭に、『東方教会法』第728条第2項で定める東方教会の信者の内的法廷に限定された権能、また、留保された場合においては第727条の権能を与えるように招かれます。第728条第1項が述べる場合を除外することはいうまでもありません。ラテン教会の信者の場合、教会法第508条第1項で述べられる権能がこれに該当します。
これに関連して、本内赦院はすべての司祭に対して、救いの手段から益を得るための最大限の機会を信者に与えるために、寛大な協力と献身を促します。そのために、主任司祭や近隣の教会主管者司祭の同意のもとに、告白の時間割を作成・公表し、進んで告白場で告白を聞き、時間を固定して頻繁にゆるしの式を行うことを計画してください。さらには、司牧的な職務をもたない引退司祭を、できるかぎり動員してください。場合により、教皇ヨハネ・パウロ二世自発教令『神のいつくしみ―ゆるしの秘跡の執行に関する若干の側面(2002年4月7日)』(Misericordia Dei)に従い、感謝の祭儀の司式中にも告白を聞く司牧的な機会があることを司祭は思い起こさなければなりません。
聴罪司祭の任務を助けるために、教皇庁内赦院は、教皇の命令により、自教区外で聖年の巡礼に同行ないし参加する司祭に、自教区内で正当な権威者によって与えられたのと同じ権能を与えます。さらに本教皇庁内赦院は、ローマの教皇バジリカの聴罪司祭、参事会聴罪司祭、および個々の教会区域に設立された教区聴罪司祭にも、特別な権能を与えます。
聴罪司祭は、留保と懲戒が伴う罪の重大性を信者に愛をもって教えた後、司牧的な愛をもって適切な秘跡的な償いを定めなければなりません。罪を悔い改めた人が、悔い改めをできるかぎり確固たるものとし、事例の性格に従い、つまずきと損害をも修復できるようにするためです。
最後に、本内赦院は、教え、統治し、聖化するという三つの任務を担う司教の皆様を心から招きます。場所、文化、伝統をとくに考慮しながら、信者の聖化のために、ここに定めた規定と原則を明快に説明するようにしてください。各国民の社会的・文化的性格に合わせたカテケージスは、福音とキリスト教のメッセージ全体を効果的に提示し、教会の仲介を通して与えられる、免償という固有のたまものへの望みを、人々の心に深く根づかせることができます。
本教令は2025年の通常聖年の期間中、有効です。対立する規定類がある場合、本規定が優先します。
2024年5月13日、ファティマの聖母の記念日
内赦院長
アンジェロ・デ・ドナーティス枢機卿
内赦執行官
クシストフ・ニキエル
*訳注 ^ 免償とは、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしである。キリスト信者はふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の助けによってこれを獲得する。免償は、罪のために負わされる有限の罰からの解放が部分的であるか全体的であるかによって、部分免償および全免償とに分けられる(教会法第992~993条、『カトリック教会のカテキズム』1471、『カトリック教会のカテキズム要約』312参照)。
教皇フランシスコは、2023年を第二バチカン公会議の成果である文書をじっくりと味わう年とした後、2024年を祈りの年とするよう求めました。その祈りの年の始まりを、今年で5回目を迎える「神のことばの主日」である2024年1月21日に発表しました。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、これから数カ月後、聖なる扉が開かれ、聖年が始まります。この恵みあふれる聖年に備えられるように、また神の希望の力を経験できるように、さらに祈りを深めてください。
今日、1月21日に、わたしたちは祈りの年を始めます。つまり、個人的な生活の中で、教会生活の中で、世界の中で、祈りの素晴らしい価値と祈りの絶対的な必要性を再発見するための一年とするのです。
聖年の開催の責任を福音宣教省に委ねるため、以前、2022年2月11日に、福音宣教省世界宣教部門副長官サルバトーレ(リノ)・フィジケラ大司教に宛てた書簡で、教皇はこう綴りました。
「この準備の時期に、聖年の行事に先立つ2024年を、偉大な祈りの「響き合い」に捧げることができると思うとうれしいかぎりです。何よりもまず、主の前に立ち、主の声を聴き、主を崇めるという願いを回復しましょう」。
そのため、聖年への準備に向けて、今年は個人的な祈り、そして共同体としての祈りを中心に据えるよう、各教区は招かれています。
神はその民とともに歩まれる
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。
世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会は、2023年10月29日に第1会期を終了し、教会本来の召命であるシノダリティについての理解を深めることができました。「シノダリティは、おもに、神の民の共同の旅として、また、み国の到来に奉仕するカリスマと奉仕職の実りある対話として提示されます」(「『まとめ』報告書」はじめに)。
教会は、シノドス的次元の強調により、歴史を歩む神の民、すなわち天のみ国を目指す旅人――いわば「移民」としての、旅する己の本性(『教会憲章』49参照)の再発見に至ります。約束の地へと向かうイスラエルの民を描いた、出エジプトの聖書の記述が自然と思い起こさせるのは、奴隷状態から解放への長い旅で、それは終わりの日の主との出会いまで続く教会の旅の予表です。
同じく現代の移民――どの時代の移民もですが――にも、永遠のふるさとへの途上にある神の民の実像を見ることができます。彼らの希望の旅は、次のことを思い起こさせます。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3・20)。
出エジプトと移民という二つの像には、いくつかの共通点があります。モーセの時代のイスラエルの民のように、移民は多くの場合、抑圧や虐待、情勢不安や差別、発展の機会の不足といった状況から逃れるのです。砂漠のヘブライ人と同様、移民もまたその旅路において多くの障害に遭遇します。飢えと渇きに耐え、苦労や病で疲弊し、絶望に傾くのです。
ですが移住にとって、あらゆる移住にとっての根本的な事実とは、神はご自分の民の旅路で、そして時代と場所を超えそのすべての子らの旅路で、先頭に立って、ともにいてくださっているということです。その民のただ中に神がおられるのは、救いの歴史において確かなことです。「あなたの神、主は、あなたとともに歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(申命記31・6)。エジプトを脱出した民にとって、この現存はさまざまなかたちで顕示されます。雲の柱と火の柱は、道を示して照らします(出エジプト13・21参照)。契約の箱を納める臨在の幕屋は、神が近くにおられる確かなしるしとなります(同33・7参照)。青銅の蛇のついた旗竿は、神の保護を約束します(民数記21・8−9参照)。マナと水は、飢え渇いた民への神からの恵みです(出エジプト16~17章参照)。天幕は、主がとりわけ喜ばれた臨在のかたちです。ダビデの治世に、神は神殿に囲われるのを拒み、ご自分の民とともに「天幕から天幕へ、幕屋から幕屋へと」(歴代誌上17・5)歩めるよう、天幕を住まいとし続けることを望まれました。
多くの移民は、神を旅の仲間、導き手、救いの錨として実感しています。出発の前から神に身をゆだね、苦しいときには神により頼みます。気持ちが沈むときには神になぐさめを求めます。神のおかげで、道すがら、よいサマリア人と出会います。祈りを通して、神に希望を託します。どれだけの聖書が、福音書が、祈祷書が、ロザリオが、いくつもの砂漠、川、海を渡り、大陸の境を越える旅路の移民たちとともにあるか、想像してみてください。
神は、ご自分の民とともに歩むだけでなく、ご自分の民の中でも歩んでおられます。歴史の中を旅する人々、とりわけいちばん弱い人、貧しい人、隅に追いやられた人に、ご自身を重ねておられるという意味で、受肉の神秘の拡大であるかのようにです。
ですから移民との出会いは、助けを必要としている兄弟姉妹一人ひとりとの出会いと同様、「キリストとの出会いでもあるのです。キリストご自身がそう語っておられます。飢えて、渇いて、よそから来て、裸で、病を患い、牢にいて、顔を見てほしい、助けてほしいと求めながら、扉をたたいている人はキリストなのです」(ローマ郊外サクロファーノ近くの移民受け入れ施設「フラテルナ・ドムス(友愛の家)」を会場にした集会――「不安からの解放」参加者とのミサ説教、2019年2月15日)。マタイ福音書25章で語られる終わりの日の裁きに、疑う余地はありません。「お前たちは、わたしが……旅をしていたときに宿を貸してくれた」(35節)、そして「はっきりいっておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)という裁きです。ですから旅路の出会いの一つ一つが主との出会いの機会であり、それは救いの任務を負う機会なのです。わたしたちの助けを必要とする兄弟姉妹のうちに、イエスはおられるからです。その意味で、貧しい人はわたしたちを救います。彼らがわたしたちを、主のみ顔に引き合わせてくれるからです(「第3回貧しい人の世界祈願日教皇メッセージ(2019年11月17日)」参照)。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。難民、移住者、移動者にささげられたこの日に、尊厳ある生活環境を求めて祖国を離れなければならなかったすべての人のために、心を合わせて祈りましょう。彼らとともに旅する意識をもって、ともに「シノドス」を築きましょう。そして彼ら皆を、そして次期シノドス総会をも、「旅を続ける忠実な神の民にとって確かな希望と慰めのしるしであるおとめマリアの執り成し」(「『まとめ』報告書」旅を続けながら)にゆだねましょう。
祈り
全能の父なる神よ、
わたしたちは天のみ国へと向かって歩む、
あなたの旅する教会です。
わたしたちはそれぞれ自分の祖国にいても、
異国の民のように暮らしています。
あらゆる異国の地がわたしたちにとって祖国であっても
わたしたちにはどの祖国も異国の地なのです。
地上に暮らしていても、
わたしたちの国籍は天にあります。
あなたが仮の住まいとして与えてくださった世の一部を
支配する者とならないよう、
わたしたちを導いてください。
あなたが用意してくださった永遠の住まいに向かって、
移住を求める兄弟姉妹とともに
歩み続けることができるよう支えてください。
わたしたちの目と心を開いてください。
助けを必要とする人との一つ一つの出会いが、
あなたの子、わたしたちの主イエスとの出会いとなりますように。
アーメン。
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