カトリック教会のお知らせ
2025年「世界平和の日」教皇メッセージ(2025.1.1)
(2025年1月1日)
わたしたちの負い目をゆるしてください、あなたの平和をお与えください
Ⅰ.危機に瀕する人類の叫びを聞いて
1.天の御父が与えてくださったこの新しい年、希望を掲げる聖年の幕開けにあたりお伝えします。すべての人に、とりわけ自身の境遇に打ちひしがれ、自らの過ちに苛まれ、他者の裁きに押しつぶされ、もはや人生に光なく未来が描けずにいる人にこそ、平和があるようせつに願っています。すべての皆さんに、希望と平和がありますように。今年は、あがない主のみ心からもたらされる、恵みの年だからです。
2.2025年の間に、カトリック教会は聖年を祝います。人々の心を希望で満たす出来事です。「聖年」の起源は、古代ユダヤの伝統にまでさかのぼるものです。それは、49年ごとにすべての民に債務帳消しと解放を告げる、雄羊の角笛(ヘブライ語で「ヨベル」)が鳴り響く時でした(レビ25・10参照)。この荘厳な笛の音は、理念としては国中に響き渡るべきもので(レビ25・9参照)、生活のさまざまな領域において、たとえば土地の使用、財産の所有、隣人との関係、とりわけもっとも貧しい人や不幸にある人との関係において、神の義を取り戻すことを求めるものでした。角笛の響きは、富める人にも貧しい人にも、すべての民に思い起こさせます。虐げられるためにこの世に生まれてきた人はいないのだと――、わたしたちは同じ御父の子らであり、兄弟姉妹なのだと――、主のみ心のままに自由な者となるよう生まれてきたのだと――(レビ25・17、25、43、46、55参照)。
3.現代においても聖年は、解放という神の義を地上のすべてに求めるよう、わたしたちを駆り立てる出来事です。この恵みの聖年の始まりに、角笛の代わりに、「助けを求める必死の訴え」1に耳を傾けたいと思います。その訴えは、義人アベルの血が叫んだように、大地のさまざまな場所からわき上がるもので(創世記4・10参照)、神はそれを決して聞き逃すことはありません。そしてわたしたちもまた、地球を搾取し、隣人を抑圧する多くの状況に対して、声を上げるよう迫られていると自覚します2。そうした不正義は、聖ヨハネ・パウロ二世が「構造的な罪」3と定義した様相を呈することがあります。それらは一部の人の罪によるだけでなく、いわば、広範な共犯関係が加担し、強固になったものだからです。
4.間接的であったとしても、人類を苦しめている争いをあおる行為をはじめとして、共通の家に対する破壊行為に対し何らかの責任があることを、一人ひとりが自覚しなければなりません。そうして別々の、けれども相互に関連する構造的な課題が拡大し、絡み合い、この地球を苦しめることになるのです4 。具体的には、あらゆるたぐいの不平等、移住者への非人道的対応、環境破壊、悪意をもって偽情報から引き起こされる混乱、あらゆる対話の拒絶、軍需産業の巨額の資金調達に関与することです。このどれもが、人類全体の生存にとって具体的な脅威となる要因です。それゆえ、この年の初めに、人類のこうした叫びに耳を傾けたいと思います。そしてともに、また個々人で、不正義の鎖を断ち切り、神の義を告げ知らせるよう呼ばれているとの自覚をもちたいと思います。各所で慈善活動を積み重ねるだけでは足りません。それ以上に、持続的な変化をもたらすには、文化的・構造的な変革が必要なのです5。
Ⅱ.文化の変革――わたしたちは皆、負い目がある
5.聖年という出来事は、不正義と不平等の現状に立ち向かうため、わたしたちにさまざまな変革を促すものであり、地上の富は一部の特権階級だけのものではなく、すべての人のものであることを思い起こさせてくれます6。カイサリアの聖バジリオが記したものを思い起こすといいでしょう。「何があなたのものなのか、教えてください。あなたはそれをどこからもってきて、自分の人生に取り込んだのですか。……あなたは母の胎から、何もまとわず裸で出てきたのではないですか。そして再び、裸で土に還るのではないですか。今あなたが手にしている富は、どこから来たのですか。たまたま自分にもたらされたというのなら、それは神の否定であり、創造主を認めないことで、与え主であるかたへの感謝がないということになるでしょう」7。感謝が欠ければ、神の恵みが分からなくなってしまいます。けれども、限りないいつくしみをもって主は、ご自分に対して罪を犯した者を見捨てることなく、むしろ、イエス・キリストを通してすべての人に与えられる救いであるゆるしによって、いのちのたまものを確かなものとしてくださるのです。だからこそ、イエスは「主の祈り」を教え、「わたしたちの負い目をゆるしてください」(マタイ6・12)と祈るよう招いているのです。
6.御父とのきずなを見失うと、その人は、他者との関係性は搾取の論理でもって支配しうるという考えを抱くようになります。強者には弱者をほしいままにする権利があるとする論理です8。イエスの時代のエリートたちが貧しい人々の苦しみを利用していたように、現代の、互いに結びついている地球村においても9、国際システムが連帯と相互扶助の論理を燃料としなければ、不正義が生じ、腐敗によってそれに拍車がかかり、もっとも貧しい国々を陥れることになります。債務者からは搾取してよいという論理はまた、とくにグローバル・サウスで数々の国を苦しめている、現在の「債務危機」の要旨ともいえます。
7.対外債務が支配の手段となっており、この債務を通じて富裕国の政府や民間金融機関が、自国市場の需要を満たすために、貧困国の人的資源・天然資源を見境なく搾取することに何のためらいももたずにいることを、わたしは訴え続けます10。加えて、すでに国際債務に苦しむ国々の民が、先進国のエコロジカルな債務という重荷までも背負わざるをえなくなっています11。エコロジカルな債務と対外債務は同じコインの裏表であり、搾取の論理の産物で、これが債務危機というかたちで頂点に達しているのです12。この聖年をきっかけに、国際社会に呼びかけます。世界の南北間にあるエコロジカルな債務の存在を認識しつつ、対外債務の帳消しに向けた取り組みを進めてください。これは、連帯への呼びかけであると同時に、何よりも正義を求めるものなのです13。
8.この危機を乗り越えるための文化的・構造的変革は、最終的に、わたしたち皆が御父の子であるとの自覚をもち、神のみ前ではだれもが負い目のある者であるとともに、皆が互いを必要としているのだと告白するときに実現するでしょう。それは、共有され、それぞれに異なる責任の論理に呼応するものです。「わたしたちには互いが必要で、互いに対し義務を負っていることに、はっきり気づく」14ことができるはずです。
Ⅲ.希望の旅路――取りうる三つの行動
9.わたしたちがこれら必要な変革に心動かされたならば、この恵みの聖年は、一人ひとりに希望の道を再び開いてくれるでしょう。希望は、神の永遠に限りのないいつくしみを経験することから生まれるのです15。
神は、だれに対しても負い目なく、すべての人に恵みといつくしみを絶え間なく与え続けておられます。7世紀の東方教会の教父、ニネベのイサクは次のように記しています。「あなたの愛は、わたしの負い目よりはるかに大きなものです。わたしの罪の数は、海の波の数すらささやかなものにしてしまうほどですが、わたしの罪を天秤にかけてあなたの愛と比べるなら、それは何もなかったかのように消えてしまいます」16。神は人間が犯した悪を数えることはなさいません。きわめて「あわれみ豊かな神は、わたしたちをこのうえなく愛してくださる」(エフェソ2・4)のです。そうしてまた、貧しい人の叫びと、大地の叫びを聞いておられます。この年の初めに、しばし立ち止まって、神がわたしたちの罪をそのたびにゆるし、すべての負い目をゆるしてくださる恵みを思い起こすなら、わたしたちの心は、希望と平安で満たされるでしょう。
10.だからこそイエスは、「主の祈り」に、要求の厳しい文言を入れています。わたしたちの負い目をゆるしてくださいと御父に願った後で、「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるします」と加えています(マタイ6・12参照)。他者の負い目をゆるし、その人に希望を与えるには、まさしく、神のいつくしみからもたらされる同じ希望で、自分の人生が満たされていなければなりません。希望は、勘定を抜きにした寛大さの中にあふれ、債務者からの支払いに執心せず、自分の利益を案じずに、一つの目的だけを見据えています。倒れた人を立ち上がらせ、折れた心をいやし、いかなる形態であれ奴隷状態から解放するのです。
11.そこでわたしは、この恵みの聖年の始まりにあたり、債務危機を打開し、すべての人が自分はゆるされた債務者であるとの思いを新たにできるよう、すべての人民の生活に尊厳を回復し、希望の道に立ち帰らせることのできる、3つのアクションを提案したいと思います。
まず第一に、2000年の大聖年に際し聖ヨハネ・パウロ二世教皇が打ち出した、「多くの国々の将来に深刻な脅威となっている累積債務をすべて帳消しにしないまでも、大幅に削減すること」17を検討するようにとの呼びかけを再び取り上げたいと思います。エコロジカルな債務を認識することで、富裕国には、あらゆる手を打って、返済の困難な国々の債務を免除するという使命感をもっていただきたいのです。ただしそれを単発の温情措置で終わらせると、新たな融資と債務という悪循環を引き起こす危険があるので、新しい金融制度を同時に構築する必要があります。諸国民の間での連帯と調和を基盤とした、金融界のグローバルな憲章の策定を目指すべきです。
また、受胎から自然死に至るまで、人間のいのちの尊厳の尊重を促進するための、断固とした取り組みを求めます。すべての人が自分のいのちを愛し、将来に希望をもち、自分自身と自分の子どもたちの発展と幸福を望めるようにするためです。事実、人生への希望がなければ、新たないのちを生み出したいという望みが、とくに若い世代の心には芽生えにくいのです。ここではとりわけ、いのちの文化を促進する具体的な行動をあらためて呼びかけたいと思います。あらゆる国で死刑を廃止することです。この刑罰は実際、いのちの不可侵性を損なうだけでなく、ゆるしと再生という人間の希望をも完全に打ち砕くのです18。
加えて、幾多の戦争に彩られたこの時にあって、若い世代のために、聖パウロ六世とベネディクト十六世19を支えに、もう一つのことをためらうことなく訴えます。軍事費のせめて一定の割合を、飢餓撲滅と、持続可能な開発を促して気候変動に立ち向かえるようにするための最貧国での教育活動を支援する、世界基金設立に充ててください20。若者たちが思い描く未来を、希望のないものや、愛する家族の流した血に対する復讐で覆われたものにすることになる口実を、一掃する努力が必要です。未来は、過去の過ちを乗り越えて進むための贈り物、平和への新たな道を築くための贈り物です。
Ⅳ.平和というゴール
12.提案された行動によって希望の旅を始める人は、平和という悲願のゴールが近づいてくるのを見るでしょう。詩編作者は固く約束します「いつくしみとまことが出会う」とき、「正義と平和は口づけする」(詩編85・11)。債務という武具を手放し、兄弟姉妹の一人にでも希望の道を再び開くなら、それは神の義をこの地上に回復させることへの貢献であり、平和というゴールへ向けてその人とともに歩み出すことなのです。聖ヨハネ二十三世が語ったように、真の平和は、戦争の苦悩と恐怖から解き放たれた心からしか生まれません21。
13.2025年が、平和の広がる年となりますように。条約の細則の解釈や人間の妥協の場にとどまらない、真の永続的な平和です22。真の平和を求めましょう。武装を解いた心に、神が与えてくださる平和を。どこまでが自分のもので、どこまでが相手のものか計算することに固執しない心、自己中心性が砕かれ、他者との出会いに向かう意欲のある心、神に対して負い目がある自分であることをきっぱりと認め、だからこそ、苦しむ隣人の負い目をゆるす心、この世界にとってはすべての人が財産であるという希望を抱き、未来への不安を乗り越える心です。
14.心の武装解除は、最初の人から最後の人まで、小さな人から大きな人まで、裕福な人から貧しい人まで、すべての人を巻き込む行為です。「ちょっとしたほほえみ、親しみのしぐさ、兄弟としてのまなざし、真摯な傾聴、無償の奉仕」23といった単純なことで十分なときもあります。このような小さくも偉大な行為によって、わたしたちは平和というゴールに近づきます。そして、その途上で兄弟姉妹と再び巡り会い、出発のときとは違う自分になっていると気づくなら、それだけ早く平和にたどりつけるでしょう。実際、平和は戦争の終結によってのみもたらされるものではなく、新しい世界の始まりとともに到来するのです。そこは、皆それぞれ違いがあることを理解し、思い描いていた以上に、一致を深め兄弟姉妹であることが感じられる世界です。
15.主よ、わたしたちにあなたの平和をお与えください――。これこそわたしが、国家元首、政府要人、国際機関責任者、諸宗教指導者、そしてすべての善意のかたがたに、新年のごあいさつを申し上げるにあたって、神にささげる祈りです。
主よ、わたしたちの負い目をゆるしてください、
わたしたちも自分に負い目のある人をゆるします。
この互いにゆるし合う輪の中に、あなたの平和をお与えください。
心の武具を脱ぎ去った者たちに、
希望をもって兄弟姉妹の負い目をゆるそうとする者たちに、
あなたに負い目があることをすすんで告白する者たちに、
貧しい人の叫びに耳を閉ざすことのない者たちに、
あなただけが与えることのできる平和をお与えください。
教皇フランシスコ、2024年降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2024.12.25)
教皇フランシスコ、2024年降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、クリスマスおめでとうございます!
この夜、わたしたちを驚かせ、わたしたちの心を揺さぶることをやめない神秘がまた新たにされました。おとめマリアは神の御子イエスを産みました。イエスを布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。こうして、ベツレヘムの羊飼いたちは喜びにあふれて主を探し当てます。天使たちは賛美の歌を歌っていました。「神に栄光、人々には平和」(ルカ2・6ー14参照)。人々に平和がありますように。
そうです。二千年以上前に起きたこの出来事は、聖霊のわざによって繰り返されます。愛といのちの霊である方はマリアを身ごもらせ、その人のからだの中でイエスは育ちます。そして今日、このわたしたちの時代の苦しみの中で、主は新たに人となられ、真に永遠の救いのことばとなられます。そして、すべての人に、そして全世界に言われます。これがそのメッセージです。「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたをゆるす。わたしに立ち帰りなさい。わたしの心の扉は、あなたのために開かれている」
姉妹、兄弟の皆さん、神の心の扉はいつも開かれています。主に立ち帰りましょう。わたしたちを愛して、ゆるしてくださる心に立ち帰りましょう。主にゆるしていただきましょう。主と和解させていただくのです。神はいつもゆるしてくださいます。神はすべてをゆるします。わたしたちは主にゆるしていただきましょう。
これが、わたしが昨夜、この聖ペトロ大聖堂で開いた聖年の聖なる扉が示していることです。すべての人のために開かれている救いの門であるイエスを示しているのです。イエスは門です。イエスは、いつくしみ深い御父が、この世のただ中、歴史のただ中で開かれた門です。それは、すべての人が主に立ち帰ることができるようにするためです。わたしたちは皆、失われた羊のようであり、牧者を必要としていて、御父の家に帰るための門を必要としているのです。イエスは牧者であり、門です。
兄弟姉妹の皆さん、恐れてはいけません。門は開かれています。門は開け放たれているのです。その門をたたく必要はありません。門は開いているのです。さあ、神と和解させていただきましょう。そして、わたしたち自身と和解しましょう。そして、わたしたちの間でも、敵対している相手とさえも、和解することができるようになりましょう。神のいつくしみは何でもできるのです。あらゆる結び目をほどき、あらゆる分断の壁を打ち壊します。神のいつくしみは憎しみと復讐心を消し去ります。来てください。イエスは平和の門です。
わたしたちは時として、門の入り口で立ち止まってしまいます。門をくぐる勇気がないのです。わたしたちの生き方を見つめ直すことが求められるからです。門を通るには、前に一歩を踏み出すという犠牲が求められます。小さな犠牲です。これほど偉大なことのために一歩を踏み出すには、争いや分裂を捨て去ることが必要です。平和の君である御子の大きく開かれた両腕に自分自身を委ねるためです。聖年の始めのこのクリスマス、わたしは一人ひとりの人、すべての民族と国家に呼びかけます。その扉をくぐる勇気を持って、希望の巡礼者となり、武器の轟音を黙らせ、分裂を克服しましょう。
戦火にひどく苦しんでいるウクライナで、武器の轟音がやみますように。公正で持続的な平和を実現するための交渉や対話と出会いに向けた行動への扉が大胆に開かれますように。
中東で武器の轟音がやみますように。ベツレヘムの飼い葉桶を観想しながら、わたしはパレスチナとイスラエルのキリスト教共同体、とくに大切に思っているガザの共同体を思います。現地の人道的状況は非常に深刻です。停戦が実現しますように。人質となっている方々が解放され、飢えと戦争によって疲弊しきっている人々に援助物資が届きますように。わたしはレバノン、とくにその南部のキリスト教共同体にも、そして最も微妙な時期にあるシリアの共同体にも寄り添っています。紛争によって打ちのめされている中東地域全体で、対話と平和への扉が開かれますように。そして、リビアの国民の皆さんを思い、全国民の和解を可能にする解決策を模索するよう励まします。
救い主の誕生が、コンゴ民主共和国でのはしかの大流行で亡くなっている多くの子どもたちのご遺族に希望の時をもたらしてくれますように。そして、同国東部の人々、ブルキナファソ、マリ、ニジェール、モザンビークの人々にも。この人々を苦しめている人道危機の原因は、主に武力紛争やテロ攻撃による被害にあり、さらに気候変動の壊滅的な影響により事態は悪化していて、多くの人命が失われ、数百万もの人々が家を追われているのです。アフリカの角と呼ばれている国々の人々のことも思っています。その人たちの上に、平和と調和、きょうだい愛のたまものがあることを願っています。いと高き方の御子が国際社会の努力を支え、スーダンの一般市民への人道支援を促進し、停戦のために新たな交渉へと向かわせることができますように。
主の降誕の知らせがミャンマーの人々に慰めをもたらしますように。武力衝突が続く中で、ひどい苦しみに遭い、自宅からの避難を強いられているのです。
幼子イエスが全アメリカ大陸の政治指導者とすべての善意の人を促し、社会の調和を促進するため、真理と正義のうちに、早急に効果的な解決策を見出させてくださいますように。わたしはとくに、ハイチ、ベネズエラ、コロンビア、ニカラグアのことを思っています。この聖年の間の努力によって、政治的な分裂を乗り越えて、共通善が促進され、すべての人の尊厳が尊重されますように。
聖年があらゆる隔ての壁を打ち壊す機会になりますように。その中には、政治の局面をしばしば左右するイデオロギーによる壁があり、物理的な壁もあります。もう50年間もキプロス島を悩ませている分裂は、人と社会の営みを傷つけてきました。わたしは双方の合意に基づく解決策が得られることを願っています。キプロスの共同体全体の権利と尊厳を完全に尊重する方法で分裂に終止符を打つ解決策です。
人となられた神の永遠のみことばであるイエスは、開け放たれた門です。主はわたしたちが通るようにと招かれている開け放たれた門なのです。それは、わたしたちが生きている意味とすべてのいのちの神聖さ――すべてのいのちは神聖です――を見出し、家族としての人類の価値を回復するためです。主は入り口でわたしたちを待っておられます。わたしたち一人ひとりを、とくに最も弱くされている人たちを待っておられます。子どもたちを、戦争と飢えに苦しむすべてのこどもたちを待っておられます。しばしば孤独や見捨てられた状況に追いやられている高齢者を待っておられます。自分の家を失い、安全な逃れ場を見出そうと祖国から避難する人々を待っておられます。職を失ったか見つけられない人々を待っておられます。何があろうとも、神の子どもたちであり続け、常に神の子どもたちである受刑者たちを待っておられます。自身の信仰のために迫害されている人々を待っておられます。そして、そういう人々はとても多いのです。
このお祝いの日に、静かに、そして誠実に善のために尽くしている人々に感謝することを忘れないようにしましょう。思い浮かぶのは、両親たち、教育者たち、先生たちです。将来の世代の養成に大きな責任を担っているのです。医療従事者や法執行機関で働く人々を思い、慈善のわざに携わる人々、とくに全世界で働く宣教者たちのことを思います。困難に遭っている多くの人に光と慰めをもたらしているのです。こうしたすべての人に、わたしたちは言いたいのです。ありがとうございます。
兄弟姉妹の皆さん、聖年が、とくに最貧国に重くのしかかる債務を免除する機会となりますように。わたしたち一人ひとりが、自分に負い目のある人をゆるすことを求められています。寒さと夜の闇の中でお生まれになった神の御子は、わたしたちの負い目をゆるしてくださったからです。主はわたしたちを癒し、ゆるすために来られたのです。希望の巡礼者として、主と出会いに出かけましょう。主に向かって、わたしたちの心の扉を開きましょう。主がご自分の心の扉をわたしたちに大きく開いてくださったように。
皆さんが穏やかなクリスマスを過ごされますように。
12月の教皇の祈りの意向:希望の巡礼者
2024年12月は、キリスト者が「希望の巡礼者」となれるように、次のように祈る。
「聖年が、わたしたちの信仰を強め、復活のキリストを生活のただ中で見出す助けとなり、わたしたちキリスト者を希望に満ちた巡礼者に変える力となりますように。」
教皇フランシスコは、この意向について、次のように語られた。
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キリスト教的希望は、わたしたちの人生を喜びで満たす神の賜物です。
そして、今日、わたしたちはそれを大いに必要としています。世界はそれを大変に必要としているのです。
明日、自分の子どもたちに食べさせられるかどうか、あるいは、自分が勉強していることが尊厳ある仕事を得ることに役立つかどうかもわからない時、失望するのは簡単なことです。
どこに希望を求めたらいいのでしょうか。
希望とは錨(いかり)です。ロープと一緒に投げて、つなぎ留めるためのアンカーです。
わたしたちは希望のロープにしがみつかなければなりません。しっかりとしがみつくことです。
わたしたちにいのちを与えてくださるキリストとの出会いを発見するために、互いに助け合いましょう。そして、人生を祝うために、希望の巡礼者として旅に出ましょう。その人生における次のステージとして、来たる聖年を迎えましょう。
わたしたちの毎日を神が与えてくださる希望の賜物で満たし、わたしたちを通して、それを求めるすべての人に届くようにしましょう。
希望は決して裏切らないということを、忘れないようにしましょう。
祈りましょう。聖年が、わたしたちの信仰を強め、復活のキリストを生活のただ中で見出す助けとなり、わたしたちキリスト者を希望に満ちた巡礼者に変える力となりますように。
オンライン版『教会の祈り』の公開について
教皇フランシスコは、通常聖年(2025年)を迎える準備のために、今年(2024年)を「祈りの年」と宣言されました。これを契機に、日本カトリック典礼委員会は、これまで準備してきたオンライン版『教会の祈り』を、新しい典礼暦年のスタート(12月1日)に合わせて、ご利用いただけるよう、本日より公開します。
以下のURLから、無料でアクセスできます。
従来「教会の祈り」は「聖務日課」とも呼ばれて、聖職者や修道者固有の祈りのように思われてきました。しかし、第二バチカン公会議の典礼刷新によって、キリストを頭とする教会共同体が、祈りを伴って時間(生活)をささげる奉仕であることが強調され、「時課の典礼」(Liturgia Horarum)と改称されました。そのために日本の教会においては、「時課の典礼」を「教会の祈り」と呼ぶことにして、信徒の皆様にも唱えていただくように勧めてきました。このオンライン版『教会の祈り』は、日々の生活の中で、キリストとともにささげる奉仕の祈りに、よりいっそう可能な範囲で、親しんでいただくための補助的な手段です。
ラテン語規範版「時課の典礼」は4巻本として編集されていますが、日本の教会では、この規範版に従う『教会の祈り』4巻本の出版を目指していく過渡的な段階にあります。このたびのオンライン版の公開は、そのための出版準備となるものです。また、オンライン版『教会の祈り』は、新しい「ミサの式次第」に準拠した式文や聖人名の新しい表記、随時追加されていく新しい聖人等の結びの祈願などを、(書籍版)『教会の祈り』に補足する役割を担うものでもあります。
「教会の祈り」を一緒に唱える際、司牧的配慮やさまざまな理由から、書籍版とオンライン版の併用は避けられないかもしれませんが、教会共同体でこの伝統的な祈りを唱える典礼祭儀においては、書籍版の使用が望ましいことを、共通理解として大切にしていきたいと思います。
オンラインで公開されるデータは、おもにスマートフォンでの利用を配慮して編集されています。そのため、その他の端末を利用する場合、表示画面がディスプレイにうまく収まらないことがあるかもしれませんが、ご理解をいただきたいと思います。なお、簡単なオンライン版『教会の祈り』利用ガイドを準備いたしますので、参照していただければ幸いです。
このオンライン版『教会の祈り』が、利用者の皆様の「祈りの友」となることを願いつつ。
2024年11月25日
日本カトリック典礼委員会
- 書籍版では「イエズス」を使用していますが、オンライン版では「イエス」に修正しています。
- 聖人の固有名詞表記は、2024年12月1日(待降節第1主日)から採用される新しい固有名詞表記に修正しています。
『ディレクシット・ノス』イエスの聖心への信心をめぐる教皇の回勅
アレッサンドロ・ディ・ブッソロ
「わたしたちを愛してくださった」(ローマ8,37)と、キリストについて記した聖パウロは、いかなるものもこの神の愛から「わたしたちを引き離すことはできない」(同8,39)ことをわたしたちに気づかせようとした。イエス・キリストの聖心の人間的・神的愛に捧げた、教皇フランシスコの4番目の回勅『ディレクシット・ノス』は、このように始まる。イエスの開いた聖心は、わたしたちに先立ち、無条件にわたしたちを待っている。イエスはわたしたちを愛し、ご自身の友情を与えるために、何の資格も求めない。神は先にわたしたちを愛された(参照 1ヨハネ4,10)。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じている」(同4,16)(1)。
聖心に表されたキリストの愛
「愛の神との個人的な関係に言及しない様々な宗教性」(87)が広がる社会において、キリスト教が「信仰の優しさ、奉仕に励む喜び、人から人に宣教する情熱」(88)を忘れがちである中、教皇フランシスコは、キリストの聖心に表される愛をめぐる新たな深い考察を示す。教皇は、キリストの心の中に「福音のすべてを見出すことができ」(89)、聖心の中でこそ「わたしたちはようやく自分自身を知り、愛することを学ぶ」(30)という事実を思い出させながら、イエスの聖心に対する本物の信心を新たにするよう招いている。
心を失ったように見える世界
教皇フランシスコは、キリストの愛に出会うことで、わたしたちは「兄弟的な絆を紡ぎ、すべての人の尊厳を認め、共に暮らすわたしたちの家(=地球)を思いやることが可能になる」(217)と説明する。そして、「この傷ついた地をもう一度憐れみ」、その上にご自身の「光と愛の賜物」を注ぎ、「戦争、社会・経済的不均衡、消費主義、人間性に反したテクノロジーの利用」の中で世界が生き延び、「最も重要で必要なもの、すなわち心を取り戻すことができるように」と、キリストの聖心を前に、主に願っている(31)。この文書は、聖マルガリタ・マリア・アラコクへのイエスの最初の出現(1673年)から350年の記念年(2023年12月27日−2025年6月27日)を機会に公布された。
心に立ち返ることの大切さ
イエスの聖心への信心をめぐるこの回勅は、5つの章から構成される。そこには、過去の様々な書物と聖書にさかのぼる長い歴史からの貴重な考察を集めながら、霊的な美しさに満ちたこの信心を今日の全教会に改めて示している。
第1章「心の重要性」では、「飽くなき消費主義者」(2)となる危険に陥りがちなこの世界で、「心に立ち返る」ことがなぜ必要かを説明している。教皇は、今日の心を重要視しない傾向は、「理性、意志、自由」などの概念を優先させた「ギリシアおよびキリスト教以前の合理主義、キリスト教以後の観念論、そして唯物論」から生まれたと考察、心のための位置付けを見いだせないままに、「すべてを統合させる、人間の中心にあるもの、すなわち愛についての考えでさえも広く発展させることができなかった」と述べている(10)。
イエスの愛の態度と言葉
第2章は、わたしたちを友として扱い、神の「親密さ、憐れみ、優しさ」を表すキリストの愛の態度と言葉に捧げられている。キリストの眼差しは、「人々にすべての関心を注ぎ」、その苦しみに寄り添うものである。友ラザロのために泣き、ゲツセマネで苦しみ、「深く愛した人々の手によって」暴力的な死を遂げることを意識したイエスの、最も雄弁な愛の言葉は、「十字架に釘付けされる」ことであった(46)。
福音の受肉化した総体に立ち返る
第3章で、教皇は、キリストの聖心が「三つの愛」を含んでいることを明らかにする。それは、感受性を持った肉体的な心の愛と、人間的かつ神的な二重の霊的な愛である(66)。そして、わたしたちはそこに「無限の中の無限」を見出す(64)。教皇フランシスコは、社会に存在する 「肉のない霊性の新しい徴候 」に対抗するためにも、キリストの聖心への信心を新たにするように呼びかけている(87)。「対外的な活動、福音の欠如した組織改革、強迫観念的な制度、現世的な計画、世俗化された思考」、「時にすべての人に押しつけがちな提案」にのみ力を注ぐ共同体や司牧者を前に(88)、「福音の受肉した総体」に立ち戻る必要を説いている(90)。
「渇きをいやす」愛に満たされた聖人たち
第4章で教皇は、「イエスの脇腹の傷」を、「神の愛へのわたしたちの渇きをいやす、聖霊の水が湧き出でる場所」とする教父たちの言葉を引用。特に聖アウグスティヌスが「主との個人的な出会いの場としての聖心への信心の道を開いた」と指摘する(103)。この脇腹の傷は、次第に「心臓の形をとるようになった」と教皇は述べると共に、「主の聖心の中に安らぐことを特徴とする、キリストとの出会いの体験」を語った何人かの聖女たちの名を挙げている(110)。
聖マルガリタ・マリア・アラコクへの出現
こうした霊性のもとに、聖マルガリタ・マリア・アラコクは、1673年12月末から1675年6月にかけて、パレ・ル・モニアルで受けた、イエスの最初の出現について語っている。聖マルガリタが伝えたメッセージの核心は、彼女が聞いたこの言葉に集約されている。「自らの愛を彼らに証しするために、使い果たされ、すり切れるまでに」、「人間たちを深く愛したその心を見よ」(121)。
リジューの聖テレーズが、イエスを『わたしの心臓と一緒に鼓動する方』と呼んだこと(134)、聖ファウスティナ・コワルスカがその体験を通し「神のいつくしみ」を強調した信心を再び提示したこと、これに刺激された聖ヨハネ・パウロ2世が「神のいつくしみをめぐる考察を、キリストの聖心への信心と密接に結びつけた」ことを、教皇は思い出している(149)。
同回勅は、「なぐさめの信心」について語りながら、復活したキリストの聖心に残された受難のしるしを前にして、「キリストがあまりにも大きな愛のために耐え忍ぶことを受け入れたその痛み」に、「信者たちが応えたいと望む」のは当然であると述べている(151)。そして、「民間信心を通してキリストをなぐさめようとする、神の忠実な民の信仰的熱情の表現を、誰も嘲笑することがないように」(160)と願っている。それは、「キリストをなぐさめようとして、わたしたちがなぐさめられる」ためであると同時に、「あらゆる苦しみの中にある人々をわたしたちも慰めることができる」からであると記している(162)。
わたしたちを兄弟たちに向かわせるキリストの聖心への信心
最終章である第5章は、キリストの聖心への真の信心の共同体的、社会的、宣教的側面について掘り下げている。キリストの聖心への信心は、「わたしたちを御父に導き、兄弟たちに向かわせる(163)。実際、「兄弟たちへの愛」こそ、「愛に対する愛、としてお返しに差し出すことができる、最も偉大な態度」なのである(167)。
教皇は、霊性の歴史に目を向けながら、聖シャルル・ド・フーコーの宣教への熱意が、彼を「普遍的な兄弟」としたこと、彼がキリストの聖心によって自分を形作らせ、苦しむすべての人類を兄弟的な心の中に迎え入れようとしたことを振り返っている(179)。
教皇はまた、聖ヨハネ・パウロ2世が説明したように、「贖罪」についても言及。
「キリストの聖心に自分たちを捧げることによって、憎しみと暴力が積み重なる廃墟の上に、渇望される愛の文明、すなわちキリストの聖心の王国を築くことができるだろう」と述べている(182)。
世界に愛をもたらす宣教
同回勅は、再び聖ヨハネ・パウロ2世と共に、キリストの聖心への奉献は「教会の宣教活動そのものに寄り添わせるべきもの」であると思い起こさせている。その結果として、キリスト者を通して、「教会というキリストの体を築き、正義と平和と兄弟愛の社会をも築くことができるようにと、人の心に愛が注がれる」(206)。
また、聖パウロ6世が指摘したように、宣教において「多くが語られ、行われても、キリストの愛との幸福な出会いを生むことができない」という大きなリスクを避けるために(208)、キリストに魅了され続ける、キリストを深く愛する宣教者たち」が必要と強調している(209)。
教皇フランシスコの祈り
同回勅は、教皇フランシスコのこの祈りをもって締めくくられている。「主イエスに祈ります。わたしたちを苦しめる傷をいやし、わたしたちの愛と奉仕の力を強め、公正で連帯した兄弟愛に満ちた世界を目指して共に歩むことを学ぶようにとわたしたちを励ますために、聖心から皆のために生ける水が川のように流れますように。わたしたちが天の御国で祝宴を共に喜び祝うその時まで。復活されたキリストは、そこで開かれた聖心からあふれ続ける光を通し、わたしたちのすべての違いを調和させられるでしょう。キリストがいつも称えられますように !」
2024年第39回「世界青年の日」教皇メッセージ(2024.11.24)
2024年11月24日
「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)
親愛なる若者の皆さん
昨年わたしたちは、「希望をもって喜びなさい」(ローマ12・12)というパウロのことばを黙想し、聖年に向けた希望の旅を歩み始めました。まさに、2025年の聖年の旅の準備のため、今年は「主に望みをおく人は、……歩いても疲れない」(イザヤ40・31)と語る預言者イザヤからヒントをもらいます。この句は、慰めの書(イザヤ40~55章)と呼ばれる箇所から取られたものです。これは、イスラエルのバビロン捕囚の終わりと、歴史において、主がその子らに開いてくださる新たな「道」(イザヤ40・3参照)のおかげで祖国帰還を果たす神の民の希望と再生に満ちた新時代の始まりとを告げる箇所です。
今日も、打ちのめされて、将来を晴れやかな気持ちで見ることなどできない、悲惨な状況が目立つ時代にあります。戦争の悲劇、社会的不正義、格差、飢餓、人間の搾取と被造物の搾取――。高い付けを払うのは、大抵若者の皆さんです。将来に不安を覚え、夢を具体的に描けないため、希望をもてずに、倦怠と憂鬱から抜け出せず、時には犯罪や破壊行為への幻想に引き込まれかねません(大勅書『希望は欺かない』12参照)。ですから、親愛なる若者の皆さん。バビロンでイスラエルの民が知らされたように、皆さんにも希望の知らせを届けたいのです。今日もなお、主は皆さんの前に道を開き、喜びと希望をもってその道を歩むよう招いておられます。
1.いのちの旅とその困難
イザヤは、「歩いても疲れない」と預言しています。そこで、この二つの要素、「歩く」と「疲れる」について考察しましょう。
わたしたちの人生は旅であり、それは、自分自身を超えようとする旅、幸福を探し求める旅です。とくにキリスト者の人生は、わたしたちの救いであり、すべての善の充満である、神へと向かう旅です。旅路にある成果、収穫、成功が、物質的なものにとどまるならば、一瞬満足はしても、依然として渇きはいえず、深い意義を求め続けることになります。事実、それらはわたしたちの魂を十分に満足させません。なぜならわたしたちは、無限であるかたに創造されたものであるため、内に超越への願いを宿し、大いなる願望の充足へと、「より偉大なもの」に向かう焦燥感へと、駆られ続けるからです。ですから何度も申し上げてきましたが、若者の皆さんには、「観客席から人生を眺める」だけでは物足りないのです。
とはいえ、情熱をもって旅に出ても、いずれは疲れを感じるようになるのは普通のことです。勉強や仕事、私生活において、一定の成功を収めなければならないという社会的圧力によって、不安や心の疲弊が生じることもあります。そうしたことが悲嘆を生じさせる一方で、無数のことがらで一日を埋め尽くしているにもかかわらず、十分ではない、まだまだ足りないという気にさせる、むなしい活動至上主義に息を切らして生きているのです。こうした疲弊に倦怠が加わることもよくあります。それは、歩き出さず、決断せず、選択せず、リスクを冒さず、楽なところにとどまろうとして、自分の殻に閉じこもり、問題や他者や生活に触れて「手を汚す」ことは決してせずに、画面越しでしか世界を見ずに裁く人の、無関心や不平を抱いた状態のことです。この種の疲労はセメントのようなもので、わたしたちの足がそこに浸かると、次第に固まり、重くなり、不随にして動けなくします。わたしは、歩いている人の疲れのほうが、歩く気もなくじっとしている人の倦怠よりも、好ましく思います。
逆説的ですが、疲労の解消法は、じっと休んだままではいないことです。そうではなくて、出発して、希望の巡礼者となるのです。わたしから皆さんに掛ける声はこれです――希望をもって歩んでください。希望はどんな疲れも危機も不安も、ことごとく打ち破り、前進するための力強い動機づけを与えてくれます。というのも、この希望は、神ご自身からいただくプレゼントだからです。神は、わたしたちの時間のすべてを意味あるもので満たし、わたしたちの道を照らし、人生の道筋と目標を示してくださいます。使徒聖パウロは、勝利を収めようと走る競技場での選手のたとえを用いました(一コリント9・24参照)。皆さんの中でも、観客ではなく選手として競技に参加したことのある人なら、ゴール到達に必要な内なる力をよくご存じでしょう。希望とはまさに、神がわたしたちに吹き込んでくださる新たな力であり、それがあるからレースを続けることができ、「先を見つめる目」をもてるので、その時々の困難を乗り越えて確かなゴール、すなわち神との交わりと永遠のいのちの充満へと導かれるのです。すばらしいフィニッシュラインがあるのだから、人生の行き着く先が無ではないのだから、夢見て、思い描き、なし遂げたものは何ら失われないのだから、歩き続けること、汗を流すこと、障害を耐え忍ぶこと、疲れに負けないことに価値があるのです。終わりの日の報いは、すばらしいものだからです。
2.荒れ野の旅人
人生の旅には、立ちはだかる不可避の難局が存在するものです。昔の長旅では、季節や気候の変化に対応しなくてはなりませんでした。心地よい草原や涼しい森もあれば、雪を頂く山々や灼熱の荒れ野もありました。信者にとっても、人生の旅、そして遠い目的地までの歩みは、苦労の多いものです。イスラエルの民の、約束の地へと向かう荒れ野の旅と同じです。
皆さんにしても同じです。信仰のたまものを受け取った人でも、神がいてくださる、そばにおられると感じられる幸せなときもあれば、孤独を味わうときもあります。勉学や仕事に対する当初の熱意、あるいはキリストに従おうとする熱い思い――結婚生活において、司祭職において、奉献生活において――が、荒れ野を歩む困難な旅に人生が思える危機の時に転じてしまうことは起こりえます。ですがこのような危機の時は、むなしい時でも無駄な時でもなく、成長のための重要な時となりえるのです。それは、希望が純化される機会なのです。危機においてこそ、わたしたちの心には見合わない、多くの偽りの「希望」が消失します。その仮面が剥がれると、わたしたちはただ独り、人生の根本的な問いの前に、まやかしもなく、裸の姿で立たされるのです。そしてそのとき、それぞれが自らに問うはずです。自分はどんな希望を支えに生きているのか、それは本物か、それともまやかしか――と。
そのようなときに、主はわたしたちを見捨てません。わたしたちのそばに父として来られ、力を取り戻して再び旅路に赴くためのパンを、必ず与えてくださいます。思い出してください。神が荒れ野の民にマナを与えてくださったことを(出エジプト16章参照)。さらに、疲れ果て気落ちしていた預言者エリヤに、「神の山ホレブ」まで「四十日四十夜歩き続け」ることができるよう、二度にわたってパン菓子と水とをお与えになったことを(列王記上19・3−8参照)。こうした聖書の物語に、教会の信仰は、聖体という尊いたまものの前表を見てきました。旅するわたしたちを支えるべく神が与えてくださる、まことのマナ、まことの旅路の糧です。福者カルロ・アクティスが語ったように、聖体は天へと続く高速道路です。この若者は、聖体を、日々のもっとも大事な、神と会うための約束としていました。そのように主と親しく結ばれていれば、主が一緒に歩んでおられるのですから、わたしたちは疲れることなく歩むのです(マタイ28・20参照)。皆さんが、聖体というすばらしい贈り物を再発見しますように。
この世の旅路では避けようのない疲弊の最中には、イエスのように、そしてイエスのうちに、休息することを学びましょう。宣教から戻った弟子たちに休息するよう勧めたイエスは(マルコ6・31参照)、あなたがたには肉体の休息が必要なことを、友人と過ごしたり、スポーツをしたり、睡眠も含め、くつろぐ時間が必要なことを知っておられます。ですが、もっと深いレベルの休息があります。多くの人が求めていながら、わずかな人しか見いだすことのない、キリストにおいてのみ得られる、魂の休息です。内的疲労はすべて、主において慰めを得るのだと理解してください。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。旅の疲れに押しつぶされそうなときは、イエスに立ち帰ってください。イエスのうちに憩い、イエスのうちにとどまることを学んでください。「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)のですから。
3.観光旅行から巡礼の旅人へ
親愛なる若者の皆さん。わたしが招いているのは、愛の軌跡に沿って、神のみ顔を探し求めつつ、人生を明らかにしようとする旅への出発です。ですが皆さんに勧めるのは、単なる観光客としてではなく、巡礼者として旅に出ることです。皆さんの旅が、人生の各場面を表面的に通過するだけで、出会ったものがもつ美を捉えることもなく、たどった道の意味も見いだせないまま、細切れの時間、束の間の体験を、自撮りするようなものとならないよう祈ります。それは観光旅行ですることです。一方巡礼者は、行き着いた地の深部に分け入り、その土地に語らせ、その土地を自分の幸せの探求の一要素とするのです。ですから聖年の巡礼は、最終の目的地に達するため、わたしたち全員に求められている、「内なる旅」のしるしでなければならないのです。
このような姿勢で、皆で聖年を準備しましょう。若者の皆さんの多くが、巡礼としてローマに来て、聖なる扉をくぐれるよう願っています。いずれにせよ、すべての人のために、この巡礼を部分教会でも行う機会が用意されます。聖なる忠実な神の民の信仰と信心を大事に守る、地方の多くの聖地・聖堂を再発見する機会となるでしょう。今回の聖年の巡礼が、わたしたち一人ひとりにとって、「救いの『門』である主イエスとの、生き生きとした個人的な出会い」(大勅書『希望は欺かない』1)となるよう願っています。この巡礼の旅を、三つの基本的な姿勢でもって味わうよう勧めます。感謝の姿勢――、あなたの心を、受けた恵みゆえの、とりわけいのちの恵みゆえの、賛美へと開くためです。探し求める姿勢――、心の渇きを鎮めるのではなく、尽きることなく主を探し求める思いを、旅で表すためです。そして最後は、悔い改めの姿勢――、この姿勢が、自分自身の内面を見つめられるよう、自分の誤った道や選びを認められるよう、そうして主へと、その福音の光へと回心できるよう助けてくれます。
4.宣教に向かう希望の巡礼者
皆さんの旅に向けて、もう一つ、魅力的な情景を紹介しましょう。ローマのサンピエトロ大聖堂に来るには、名高い建築家にして彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計した柱廊で囲まれた広場を通ります。柱廊全体が、大きな抱擁の形をしています。つまり、わが子ら皆を迎える、わたしたちの母、教会の広げた両腕なのです。来る希望の聖年に、あなたがた若者皆に、あわれみ深い神の抱擁を体験してほしいと思います。神のゆるしを、聖書にあるヨベルの年の習わしのように、わたしたちの「内的負債」の全免除を、体験してほしいと思います。そうして、神に迎え入れられ、神において新たに生まれることで、皆さんもまた、広げた腕となってほしいのです。あなたがたが歓迎することで、父なる神の愛に触れることを必要としている、多くの友人や同世代の人のためにです。皆さん一人ひとりが、「ちょっとしたほほえみ、親しみのしぐさ、兄弟としてのまなざし、真摯な傾聴、無償の奉仕を、……それがイエスの霊において豊かな希望の種となることを感じつつ」(同18)差し出し、そうして、疲れを知らない喜びの宣教者となることができますように。
歩むうえでは、視線を上げ、信仰のまなざしをもって、聖人たちを見つめましょう。この道を先に行き、すでにゴールにいる彼らは、わたしたちに励ましのあかしを与えてくれています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(二テモテ4・7−8)。諸聖人の模範は、わたしたちを導き、支えてくれます。
頑張っていきましょう。わたしは皆さんのことを心に留め、聖母マリアに一人ひとりの道をゆだねます。聖母の模範に倣って、あなたがたが希望するものを忍耐強く信頼して待ち、希望と愛の巡礼者として旅を続けることができますように。
2024年 第8回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ(2024.11.17)
年間第33主日 2024年11月17日
「貧しい人の祈りは、神に届きます」(シラ21・5参照)
愛する兄弟姉妹の皆さん。
1.貧しい人の祈りは、神に届きます(シラ21・5参照)。2025年の聖年に向けた祈りの年にあって、聖書のこの知恵のことばは、11月17日に祝う第8回「貧しい人のための世界祈願日」に向けて心を準備するわたしたちに、今までになくふさわしいものです。キリスト者の希望は、わたしたちの祈りは神のみもとに届いているとの確信をも内包しています。ですが、いかなる祈りもそうなのではなく、貧しい人の祈りこそがそうなのです。このみことばについて深めましょう。そして、日々出会う貧しい人の顔に、彼らの人生に、それを「読み取りましょう」。そうすることで、祈りが彼らとの交わりに加わり、彼らの苦しみを分かち合う道となりますように。
2.ここで取り上げるシラ書はあまり知られている書ではありませんが、扱っているテーマの豊かさ、とりわけ神と人との関係、世と人との関係について言及している点において注目すべきものです。その著者ベン・シラは、エルサレム出身の師であり律法学者で、おそらく紀元前2世紀にこれを著しています。イスラエルの伝統をルーツにする賢者で、仕事から家庭、社会生活から青少年教育まで、人間生活のさまざまな領域について教え、神への信仰や律法の遵守に関する問題にも注意を払っています。現代のわたしたちにとっても重要な意味をもつ、自由、悪、神の義といった難題に取り組んでいます。ベン・シラは、聖霊によるひらめきをもって、神と兄弟姉妹との前で生きるにふさわしい賢明な人生としての歩むべき道を、すべての人に伝えようとしています。
3.この聖なる作者が、最大の紙幅を割くテーマの一つが祈りです。彼自身の個人的経験を語っているので、熱い情熱をもって書いています。実際、祈りに関するどんな書も、日々神に向き合い、そのことばに耳を傾けている人によるものでなければ、説得力をもった読みごたえのあるものにはなりえません。ベン・シラは、若いころから知恵を求めてきたと明言しています。「わたしは、若くして放浪の旅に出る前に、祈りの中で公然と知恵を求めた」(シラ51・13)。
4.その旅の中で彼は、啓示における根本的な現実の一つ、すなわち神の心の中では貧しい人が優遇されているという事実を発見します。彼らの苦しみを前にして、神は彼らに義を尽くすのを「待ちきれない」ほどです。「謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高きかたが彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。主はためらうことなく行動し、悪人どもを我慢なさらない」(シラ35・21−22)。神はご自分の子らの苦しみをご存じです。なぜなら神は、すべての人に心を配り、世話してくださる御父だからです。御父としてご自分をもっとも必要とする人――貧しい人、疎外された人、苦しむ人、忘れられた人……――を世話するのです。けれども、神の心から除外されている人などいません。神の前では、だれもが貧しく、助けを求めているのですから。わたしたちは皆物乞いです。神なしでは無に等しいからです。神が与えてくださらなければ、わたしたちには生命さえないのです。にもかかわらず、なぜ、自分たちこそ生命をつかさどる者であるかのように、いのちを支配すべき者であるかのように、生きているばかりなのでしょう。世俗の精神性は、ひとかどの者になること、何が何でも名を上げることを求め、富を得るためには社会規範を破りすらします。なんと悲しい幻想でしょう。他者の権利や尊厳を踏みにじりながら、手に入れられる幸せなどありません。
戦争が引き起こす暴力には、神の目には惨めな存在であるのに、人々に対しては力を振るえるのだとうぬぼれる者たちの傲慢が如実に現れています。兵器を用いるこの悪しき政策から、貧しい人がどれだけ新たに生み出され、罪のない犠牲者がどれだけ出たことでしょう。ですが、後ずさりしているわけにはいきません。主の弟子たちは、この「小さな者たち」一人ひとりに、神の独り子の顔が刻まれているのを知っています。そしてその一人ひとりに、わたしたちの連帯とキリストの愛のしるしを届けなければならないのです。「すべてのキリスト者とすべての共同体は、貧しい人々が社会に十全に組み入れられるようにするため、彼らを解放し高める神の道具となるよう呼ばれています。それは、貧しい人々の叫びに素直に注意深く耳を傾け、彼らを救うようにということです」(使徒的勧告『福音の喜び』187)。
5.祈りの年である今年、貧しい人々の祈りを自分の祈りとし、彼らとともに祈らなければなりません。それはわたしたちが引き受けるべき挑戦であり、励まされるべき司牧活動です。まさしく、「貧しい人が苦しんでいるもっともひどい差別とは、霊的配慮の欠如なのです。貧しい人々の大多数は、信仰に対して特別に開かれています。彼らには神が必要で、わたしたちは彼らに、神の友情、神の祝福、神のことば、秘跡の執行、信仰における成長と成熟の道への促し、これらを差し出すことをやめてはなりません。貧しい人々を優先する選択は、おもに彼らを特権的に優遇した宗教的配慮につなげなければなりません」(同200)。
以上のことから、物乞いとなる勇気のある謙虚な心が求められます。自分が貧しい者、助けを必要とする者だと自覚できる心です。実際、貧しさと謙遜と信頼の間には相関関係があります。聖アウグスティヌス司教が語ったように、真に貧しい人は謙遜です。「貧しい人には誇るものがないが、金持ちは誇るものを手放さなければならない。だからわたしのいうことを聞きなさい。真に貧しくあれ、有徳であれ、謙遜であれ」(『説教』14・4)。謙遜な人には、自慢するもの、うぬぼれるものがなく、自分自身に頼ることはできないと知っています。ですが、神のあわれみ深い愛に訴えることができると固く信じています。父親の抱擁を受けるために悔い改めて家に帰ってくる放蕩息子のように(ルカ15・11−24参照)、その神のみ前でたたずんでいるのです。貧しい人には頼るべきものが何もないので、神から力を授かり、神に全幅の信頼を置いています。まさしく謙虚さから、神は決してわたしたちを見捨てず、返事もせずに置き去りになさることなどないという確信が生まれるのです。
6.わたしたちの街に住み、この地域社会の一員である貧しい人々に、申し上げたいと思います。その確信を失わないでください。神は、皆さん一人ひとりに心を配る、皆さんの味方です。皆さんを忘れることはありませんし、いまだかつて忘れたことはありません。だれしも、応答がないままであるような祈りを経験しています。苦しみや辱めとなる悲惨さから救い出してくださいと祈っても、神にはその嘆願が聞こえていないかのように思えることがあります。しかし神の沈黙は、わたしたちの苦しみに気を留めておられないからではありません。むしろそれには、神と神のみ旨とにわたしたちをゆだね、信頼のうちに受け入れるよう求める、ことばが込められているのです。このことを証言するのもまた、シラです。「主の裁定は、貧しい人に速やかに下される」(シラ21・5参照)。それゆえ、貧しさから、もっとも純な希望の歌が生まれるのです。忘れないでください。「内的生活が自己の関心のみに閉ざされていると、もはや他者に関心を示したり、貧しい人々のことを考えたり、神の声に耳を傾けたり、神の愛がもたらす甘美な喜びを味わうこともなくなり、ついには、善を行う熱意も失ってしまうのです。……それは復活したキリストの心からわき出る聖霊に結ばれた生活でもありません」(『福音の喜び』2)。
7.「貧しい人のための世界祈願日」は、すべての教会共同体にとって今や通例となっています。軽んじることのできない、司牧の機会です。というのもこの日、貧しい人の祈りに耳を傾け、彼らの存在と彼らの必要に気づくよう、全信者が促されるからです。貧しい人たちを具体的に助ける取り組みの実践にとって、また、いちばんの困窮者のために情熱を注いで、身を粉にして働く多くのボランティアへの感謝と支援にとっても絶好の機会です。もっとも貧しい人の声に耳を傾け、彼らを支援するために力を尽くす人々のことを、主に感謝しなければなりません。彼らは、そのあかしをもって、神に訴える人々の祈りへの神のこたえに声を与える司祭であり、奉献生活者であり、信徒たちです。つまり沈黙は、貧困にあえぐ兄弟姉妹が受け入れられ、抱擁されるたびに、破られているのです。貧しい人々からは、なお多くのことを教えられます。富を第一とし、人間の尊厳を物質的財という祭壇の上でいけにえとすることの少なくない文化の中で、貧しい人々は、人生において本質的なものは、それとはまったく違う別のものだと明らかにすることで、その流れに逆らっているからです。
それゆえ、祈りの真正さは、出会いや寄り添いとなる愛のわざによって見定められます。祈りが具体的な行動に移されないのなら、それはむなしい祈りです。まさしく、「行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)。ですが、愛のわざも祈りを欠くならば、すぐに息切れする慈善事業になりかねません。「日々、忠実に祈らなければ、わたしたちの活動はむなしいものとなり、深い魂を失います。それはわたしたちを最終的に満足させることのない、単なる活動主義に陥るのです」(教皇ベネディクト十六世「一般謁見演説(2012年4月25日)」)。わたしたちはこの誘惑を退け、いのちの与え主である聖霊から授けられる力と忍耐力をもって、たえず目覚めていなければなりません。
8.このような中で、貧しい人のために生涯をささげた、コルカタのマザー・テレサがわたしたちに残したあかしを思い起こすのはふさわしいことです。この聖人は、祈りこそが自身の力と信仰を引き出す場であり、もっとも虐げられている人々への奉仕という自身の使命を支えていると、事あるごとに繰り返していました。1985年10月26日、国連総会での演説で、いつも手にもっているロザリオを皆に示しながらこう語りました。「わたしはただ祈るだけの貧しい修道女です。祈る中で、イエスはわたしの心に愛を注ぎ、わたしはその愛を、行く先々で出会う貧しい人すべてに与えるために出向いて行くのです。皆さんも祈ってください。祈ってくだされば、皆さんもすぐ近くに貧しい人たちがいることに気づくでしょう。皆さんの住居の同じフロアにいるかもしれません。皆さんの家にも、あなたの愛を待っている人がいるかもしれません。祈ってください。そうすれば皆さんの目は開かれ、皆さんの心は愛で満たされるでしょう」。
そしてここ、ローマ市においては、聖ベネディクト・ジョセフ・ラブレ(1748−1783年)を忘れてはなりません。彼の遺体は、サンタ・マリア・アイ・モンティ小教区に安置され、崇敬を受けています。フランス出身でローマに来た巡礼者であった彼は、多くの修道院で受け入れられず、晩年は貧しい人々の中で貧しく生活し、何時間も何時間も、ご聖体の前で祈り、ロザリオを祈り、聖務日課を唱え、新約聖書や『キリストに倣いて(イミタツィオ・クリスティ)』を読みふけっていました。寝泊まりするささやかな部屋すらもたず、コロッセオの廃墟の片隅で身を横たえ、「神の放浪者」として、自身の存在を、神の元へと昇っていく絶えざる祈りとしました。
9.聖年への途上にあって、一人ひとりが希望の巡礼者となり、よりよい未来のための確かなしるしをもたらしてください。「ささやかな愛情表現」(使徒的勧告『喜びに喜べ』145)を大切にすることを忘れないでください。立ち止まること、近づくこと、ちょっとした気遣い、微笑むこと、優しく触れること、慰めのことばをかけること……。こうした振る舞いはにわか仕込みではできません。むしろ、日々忠実であることを必要とし、大抵は隠れて目立ちませんが、祈りによって強められるものです。希望の歌が、武器の轟音に、あまりに多い罪なき負傷者の叫びに、戦争による無数の犠牲者の沈黙に、取って代わられたかに思えるこの時代にわたしたちは、平和を求めて神に祈ります。わたしたちは平和において貧しい者ですから、尊い贈り物である平和を受け取るために手を差し出し、さらに自分たち自身も、日々の生活の中で、平和の修復に努めましょう。
10.わたしたちは、もっとも虐げられた人々との連帯を示した最初のかた、イエスの足跡をたどって、いかなる状況にあっても貧しい人の友となるよう求められています。バヌー(ベルギー)に出現された神の母聖マリアが、この道を行くわたしたちを支えてくださいますように。このかたが残されたメッセージを、わたしたちは忘れてはなりません。「わたしは貧しい人の聖母です」。神は、その謙遜な貧しさゆえにマリアに目を留め、その従順さを用いて偉大なわざの数々をなし遂げました。その聖母マリアに、わたしたちの祈りをゆだねます。この祈りが天に昇り、聞き届けられると固く信じつつ。
聖書週間 2024年11月17日~24日
今年のテーマは「初めに言があった。」(ヨハネ1・1)といたしました。
『聖書に親しむ』について
リーフレット『聖書に親しむ』は、全国の小教区をはじめ、修道院ならびにカトリック系学校および諸施設にお届けしております。
教会などに在庫が無い時には、このホームページからダウンロードしてご覧ください。
11月の教皇の祈りの意向:「苦しんでいる子どもたち」のために
「苦しんでいる子どもたち、とりわけ家を失ったり、孤児となったり、戦争の犠牲となった子どもたちが、教育を受けることを保証され、また家庭の愛に触れる機会に恵まれますように」。
教皇フランシスコは、この祈りの意向について、次のように語られた。
**********
いまだ無数の少年少女たちが奴隷に近い状態を生き、苦しんでいます。
彼らは単なる数字ではありません。それぞれの名前と顔、神から与えられたアイデンティーを持った人間です。
あまりにしばしば、わたしたちは自らの責任を忘れ、搾取されるこれらの子どもたちを前に目を背けてしまいます。彼らには遊び、勉強し、夢を見る権利もありません。家庭の温かささえ知ることがありません。
疎外され、家族から見捨てられ、教育も医療ケアも受けられない子どもたち一人ひとりが、一つの叫びです。その叫びは神に上げられ、わたしたち大人が築き上げたシステムを訴えています。
見捨てられた子どもは、わたしたちの責任です。
子どもたちが一人ぼっちで見捨てられたように感じることがこれ以上あってはなりません。神が彼らを決してお忘れにならないことを知るために、教育を受け、家族の愛を感じる必要があります。
祈りましょう。苦しんでいる子どもたち、とりわけ家を失ったり、孤児となったり、戦争の犠牲となった子どもたちが、教育を受けることを保証され、また家庭の愛に触れる機会に恵まれますように。
2024年「世界宣教の日」教皇メッセージ(2024.10.20)
「出て、だれでも婚宴に連れてきなさい」(マタイ22・9参照)
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
今年の世界宣教の日のテーマには、福音書から婚宴のたとえ話(マタイ22・1−14参照)を選びました。招かれた者たちが招待を断ると、物語の主人公である王は家来たちにいいます。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい」(9節)。鍵となるこの一節を、たとえ話とイエスの生涯という文脈で考えてみると、福音宣教のいくつかの重要な側面――シノドスの旅の最終段階にある現在、キリストの宣教する弟子であるわたしたち全員にとって、目下集中的に話題となっていること――が照らされます。今回のシノドスは、「交わり、参加、宣教」というテーマのもと、教会をその最優先課題である、現代世界における福音宣教に向けて再始動させなければならないとするものです。
1.「出て、連れてきなさい」―― 疲れを知らずに出向き、主の宴に招くものである宣教
王の家来たちへの命令の冒頭に、宣教の核心を表す二つの動詞、「出て」と「連れてくる」――「招きなさい」の意味――が登場します。
前者については、前もって家来たちは、招こうとする者たちに王のことばを伝えるべく遣わされたこと(3−4節参照)を思い出さなければなりません。ここから、宣教とは、全人類のもとへと疲れを知らずに出向き、神との出会いと交わりに招くことだと教えられます。疲れを知らずに――。愛に満ち、いつくしみ豊かな神は、つねに一人ひとりのもとへと出向き、その人が無関心であろうとも拒絶しようとも、み国の幸福に招いておられます。同じく、よい羊飼いであり、御父から遣わされたかたであるイエス・キリストは、イスラエルの民の失われた羊を探しに出掛け、いちばん遠くにいる羊のもとにまで行き着くために、さらに遠くへ出掛けたいと望んでおられたのです(ヨハネ10・16参照)。このかたは、ご自分の復活の前も後も弟子たちに「行きなさい」と命じ、ご自分の宣教に彼らを引き入れました(ルカ10・3、マルコ16・15参照)。だからこそ教会は、主から受けた使命を忠実に果たすために、境界線をことごとく越えて進み続け、困難や障害に直面しても疲れを知らずに、落胆することなく、何度でも出掛けていくのです。
この機会に、宣教者の皆さんに感謝したいと思います。キリストの呼びかけにこたえ、祖国を離れ遠くへ行き、福音をまだ受け取っていない人々、あるいは、受け取ったばかりの人たちのもとに届けるため、すべてと決別したかたがたです。親愛なる皆さん。皆さんの惜しみない献身は、イエスが弟子たちに託された、諸国民への宣教という責務の具体的な表出です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)。ですから地の果てまで福音化する働きのために、新たな多くの宣教者の召命を求めて、神に祈り、感謝し続けましょう。
ですから忘れてはなりません。すべてのキリスト者は、どんな環境においても、福音について自分に固有のあかしをもって、この全世界への宣教に加わるよう求められています。それは、教会全体でもって、主であり師であるかたとともに、今日の世界の「町の大通り」にたえず出ていくためです。そうです。「今日の教会の悲劇は、イエスは扉を内側からたたき続けているのに、わたしたちがイエスを外に出ないようにしていることです。主が来られたのは宣教のためで、わたしたちが宣教者となることを望んでいるのに、主を『わがもの』として引き留め、出て行かないようにする……、そうした教会となってしまうことばかりです」(教皇フランシスコ「教皇庁いのち・信徒・家庭省主催会議――司牧者と信徒の協働(2023年2月18日)――参加者へのあいさつ」)。洗礼を受けたわたしたち皆が、それぞれの立場に応じて、キリスト教の黎明期のように、新たな宣教運動を始めるため再出発する覚悟をもつことができますように。
たとえ話の中の、家来たちに対する王の命令に話を戻すと、出向くことは、声をかけること、より正確にいえば招くことと一緒になっています。「さあ、婚宴においでください」(マタイ22・4)というようにです。このことは、神から託された使命にある、もう一つの重要な側面を示唆します。想像に難くないことですが、使者を務めたこの家来たちは、王の招きを大急ぎで、けれども深い敬意と慎みをもって伝えました。同じように、すべての造られたものに福音をのべ伝えるという宣教には、必然的に、そこで告げられているかたと同じ姿勢がなければなりません。「死んで復活したイエス・キリストにおいて現される、救いをもたらす神の愛の美」(使徒的勧告『福音の喜び』36)を世に告げ知らせるとき、宣教する弟子たちはそれを、自身にもたらされた聖霊の実である、喜び、寛容、親切(ガラテヤ5・22参照)をもって行うのです。押しつけず、無理強いせず、改宗を強要せずに、神の流儀、神のなさり方の映しとして、必ず寄り添いの心、思いやり、優しさをもって宣教するのです。
2.婚宴に――キリストと教会の宣教にある、終末的視点とエウカリスチアの視点
このたとえ話の中で、王は家来たちに、息子の婚宴への招待状を届けるよう命じています。この婚宴は終わりの日の宴の映しであり、救い主、神の御子、イエスの到来によってすでに実現している神の国での、最終的な救いのイメージです。イエスはわたしたちに豊かないのちを与えてくださったかたです(ヨハネ10・10参照)。それは、神が「死を永久に滅ぼしてくださる」ときの、「よい肉と古い酒」(イザヤ25・6−8)が豪華に並んだ食卓によって象徴されるものです。
キリストの使命は、その宣教の初めにご自身が告げたように、時の充満とつながっています。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1・15)。だからキリストの弟子たちは、師であり主であるかたと同じその使命を受け継ぐよう招かれているのです。これに関しては、第二バチカン公会議の、教会の宣教の務めがもつ終末的特徴についての教えを思い起こしてみましょう。「宣教活動の期間は、主の最初の到来と、……二度目の来臨までの間である。ということは、主が来られるまでに、あらゆる民に福音がのべ伝えられなければならない」(『教会の宣教活動に関する教令』9)。
わたしたちは、初代教会のキリスト者の宣教熱には、終末的な側面が色濃いことを知っています。彼らは福音を告げ知らせることに切迫感をもっていました。現代においても、この視点を覚えておくことは大切です。それが、「主は近くにおられる」と知る人の喜びと、神の国でわたしたち皆がキリストとともにあずかる婚宴という目的地に向かう人の希望とを携え、福音宣教する助けとなるからです。こうして、世が消費主義、利己的な幸福、蓄財、個人主義といったさまざまな「婚宴」を示す中で、福音はすべての人を、神との、そして人間相互の交わりにおいて、喜び、分かち合い、正義、友愛が支配する、神の宴へと招いています。
キリストからのたまものである、このようないのちの充満は、教会が主に命じられ、主を記念して祝う聖体の宴に先取りされています。ですから、わたしたちが福音宣教によってすべての人に届ける終わりの日の宴への招きは、主がご自分のことばと、御からだと御血とをもって養ってくださる聖体の食卓への招きに、本来的に結ばれています。ベネディクト十六世が教えていたとおりです。「感謝の祭儀が行われるごとに、終わりの日の神の民の集いが秘跡の形で実現します。わたしたちにとって聖体の宴は最後の宴の実際の先取りです。この最後の宴は、預言者たちによって前もって語られ(イザヤ25・6−9参照)、新約の中では、諸聖人の交わりの喜びのうちに祝われる、『小羊の婚礼』(黙示録19・7−9)と述べられます」(使徒的勧告『愛の秘跡』31)。
そのためわたしたちは皆、感謝の祭儀をそのあらゆる面で、なかでも終末的な面と宣教的な面において、いっそう熱心に味わうよう求められています。この点について、次のことを今一度確認したいと思います。「宣教のわざへと導かれることなしに、聖体の食卓に近づくことはできません。宣教は、神のみ心によって計画され、すべての人に達することを目指すからです」(同84)。コロナ禍を経て、多くの地方教会が見事に復活させている感謝の祭儀は、信者一人ひとりに宣教の心をかき立てるための、いっそうの基盤となるでしょう。ミサのたびに、さらなる信仰と熱い心をもって応唱すべきです。「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」。
こうした展望を踏まえ、2025年の聖年を準備する祈りの年である今年、皆さんに呼びかけたいのは、教会の福音宣教のために、何よりもミサに参加すること、そして熱心に祈ることです。教会は救い主のことばに従順で、感謝の祭儀や典礼祭儀のたびに、「み国が来ますように」と祈る「主の祈り」を神にささげ続けています。このように、日々の祈りと、とりわけ感謝の祭儀が、わたしたちを神のうちでの終わることのないいのちへと、神がすべての子らに用意してくださる婚宴へと向かう旅路を歩む、希望の巡礼者、希望の宣教者にしてくれるのです。
3.「だれでも」――キリストの弟子たちの世界への宣教と、ひたすらシノドス的で宣教的な教会
最後となる三つ目の考察は、王の招待を受けた人たちについてです。「だれでも」――。はっきり申し上げたとおりです。「この『だれでも』こそが宣教の核心です。だれ一人、例外はいません。だれでもです。ですからわたしたちの宣教はことごとく、すべての人をご自分へと引き寄せるために、キリストのみ心から生じるものなのです」(教皇フランシスコ「教皇庁宣教事業総会参加者へのあいさつ(2023年6月3日)」)。分断や紛争にさいなまれた世界の中で、今日もなお、キリストの福音は柔和で強い声となり、人々が出会い、互いを兄弟姉妹として認め、多様性の調和を喜ぶよう招いています。神がお望みになるのは、「すべての人々が救われて真理を知るようになること」(一テモテ2・4)です。ですから、宣教活動においてわたしたちは、すべての人に福音を告げるために遣わされた者であることを決して忘れてはなりません。そしてそれは、「新たな義務を人に課すようなものではなく、喜びを分かち合い、美しい地平を示し、だれもが望む宴に招くようなもの」(使徒的勧告『福音の喜び』14)として告げられなければなりません。
キリストの宣教する弟子たちはいつも、その社会的・道徳的状況を問うことなく、すべての人を案じる心を忘れません。婚宴のたとえは、王の命令に従う家来たちは「見かけた人は善人も悪人も皆」(マタイ22・10)集めたと伝えています。さらには、「貧しい人、からだの不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(ルカ14・21)、つまり、社会の中で取り残され、疎外された人たちこそが王の賓客なのです。このように、神が用意された御子の婚宴は、永遠にすべての人に開かれています。わたしたち一人ひとりに対する神の愛は大きく、条件などないからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。変えてくださり救ってくださる神の恵みにあずかるよう、だれもが、あらゆる人が招かれています。わたしたちがすべきことはただ、神からのこの寛大なたまものに「はい」と答え、それを受け入れ、それによって変容されるがままになって、「婚礼の礼服」をまとうように、それに身を包むことです(マタイ22・12参照)。
すべての人への宣教には、皆で取り組む必要があります。ですから、福音に仕える、ひたすらシノドス的で宣教的な教会を目指す道を歩み続けなければなりません。シノダリティはそれ自体宣教的であり、逆もまたしかりで、宣教は必ずシノドス的です。だからこそ今日、緊密な宣教協力は、普遍教会においても、また部分教会においても、より緊急かつ必須なものとなっています。第二バチカン公会議と前任の教皇たちに倣い、世界中の全教区に対して、教皇庁宣教事業への協力を要請します。同事業は、「カトリック信者にすでに幼少のころから、真に普遍的、宣教的な精神を浸透させるための手段であり、あるいはまた、全宣教地の益のため、それぞれの必要に応じて、援助のための募金活動を効率よく行うための手段」(『教会の宣教活動に関する教令』38)として主要な部分を担っています。こうした理由から、すべての地方教会で行われる世界宣教の日の献金は全額、世界連帯基金に充当され、教皇庁信仰弘布事業により教皇の名において、教会のあらゆる宣教事業の必要のために分配されます。主がわたしたちを導き、よりシノドス的で宣教に励む教会となるために助けてくださるよう、祈り求めましょう(教皇フランシスコ「シノドス通常総会閉会ミサ説教(2023年10月29日)」参照)。
最後に、マリアに目を向けましょう。ガリラヤにあるカナでの、まさしく婚宴の場で、イエスに最初の奇跡を願い出たかたです(ヨハネ2・1−12参照)。主は花婿花嫁とすべての招待客に、たっぷりの新しいぶどう酒を与えましたが、これは、終わりの日に神がすべての人のために用意しておられる婚宴を予感させるしるしです。今日もまた、キリストの弟子たちの福音宣教のために、マリアの母としての執り成しを祈り願いましょう。聖母の喜びとすぐに動かれる姿勢で、優しさと愛情の力をもって(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』288参照)、出向いて、すべての人に救い主である王の招きを届けましょう。聖マリア、福音宣教の星よ、わたしたちのために祈ってください。
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