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歴代の司教

スルピス森山信三司教

2022年7月3日~

スルピス森山信三司教
1959年1月 17日 福岡県福岡市生まれ。箱崎教会出身。
1981年             福岡大学卒後、福岡サン・スルピス神学院入学
1988年3月21日 ペトロ平田三郎司教より福岡教区司祭として司祭叙階
1988~1991年 大名町教会助任
1991~1993年 小倉教会助任
1993~1995年 福岡小神学院 院長
1995~2001年 大牟田教会主任
2001~2007年 戸畑教会主任
2007~2013年 西新教会主任
2014~2017年 久留米教会主任
2017~2020年 福岡コレジオ院長
2020年     カトリック中央協議会出向
2021年     同協議会事務局長
2022年4月5日  第5代 大分教区司教に任命(第8代教区長)
2022年7月3日 司教叙階式

スルピス森山信三司教の紋章

 ラテン語の意味は、「わたしは傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」エゼキエル書34章16節からの引用です。
 背景の布は、すべてを包む神さまの大きな愛の象徴です。白い帯状のものは、傷ついた人を癒すための包帯でもあり、巻く人の思いやりや優しさを表します。三重巻きなのは、父と子と聖霊、三位一体の神の深い愛の交わりに生かされていることを意味します。
 中心の手は握手でもありますが、助けを求める人と助ける人の手です。上からではなく、同じ目線、降りてきてくださる神さまを表しています。緑は、希望あるいは命のシンボルです。赤い部分は、心臓の形で「イエスの御心」を表し、赤は暖かい光、聖霊の色です。そして、十字架はすべての中心です。

スルピス森山信三司教のバクルス

 ミトラ(司教冠)とバクルス(司教杖)
 新司教叙階に合わせて制作されたバクルスは、大分教区の地で根を下ろして育ったイチョウの木を使用しています。保存していた木材の中から最も大きいものを選び、継ぎ目のない一本の杖にするために切り出しました。樹齢は定かではありませんが、年輪と樹木の生育状況から40年程度と推測されます。イチョウは世界で最古の現生樹種の一つで、生きた化石ともいわれ、神の天地創造の御業を思い起こさせてくれます。また加工性に優れる材質は、作り手に神の創造の御業へのほんの少しの参与を 感じさせてくれるものです。
 造形にあたって意図したのは、九州・沖縄をイメージするシルエットをヘッドの部分のテーマとすることでした。中心にくり抜かれた太めの十字架はキリシタンから受け継ぐ信仰を表しています。表裏の凹凸は嵐のガリラヤ湖を行くキリスト、波のように広がる様々な凹凸は、人々の多様性がキリストへの信仰によってつながり、一致することを考えました。上下に伸びる三つの螺旋は、三位一体への賛美、グリップの7つの螺旋は聖霊の7つの賜物、炎で焦がされた全体の黒みがかった色は、聖霊による清めを願っての表現です。 (バクルス製作者より)

パウロ浜口末男司教

2011年6月26日~2020年12月28日帰天

2011年6月26日に高松教区に出向していた長崎教区司祭パウロ浜口末男師が、大分教区司教として叙階・着座し、3年間続いた司教空位に終止符が打たれた。叙階式は長崎大司教区の高見三明大司教が司式し、駐日教皇大使アルベルト・ボッタリーニ・デ・カステッロ大司教をはじめ、歴代の教区長である平山司教、宮原司教及び15名の司教、約100名の司祭、助祭、教区内外から約1700名の修道者、信徒らが参列した。説教は高松教区司教溝部脩司教が行い、「司教は一人では何もできません。司祭の助けが必要です。教区は司教とともに宣教司牧に全力を注いでください。そうすれば活き活きとした教会になるでしょう。ゆっくりでもいいです。一緒に歩んでくださいますように。」と述べた。
また司教叙階後、教区報の中で浜口司教は「司祭召命は教区の最優先課題として掲げていいのではないでしょうか。唯一の優先課題に向かって全教区民が歩み始めるとき、自然と教区の一致がなると思います。」と抱負を述べた。
およそ10年の間司教として司牧したが、2020年12月28日に悪性黒色腫のため急逝した。現在は山下敦師が使徒座管理者としてその職を務める。

浜口司教紋章

浜口司教の紋章
PRAEDICATE EVANGELIUM
OMNI CREATURAE
 
 標語は、「(全世界に行って)すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)である。
 うず状の無数の円は宇宙を表し、時間を表す。生命を育む自然と、苦悩と殉教、希望、平和と喜びによって織り成される人間の歴史を表現している。小舟は教会で、神の国の完成へと向かっている。
 大分教区の恵まれた自然と、天孫降臨伝説およびキリシタンの歴史に着想を得た。
 大きな七つの波紋は、秘跡であり、聖霊の賜物である。これを教会が、歴史を通して全被造物に運ぶ。
 
2011年6月26日叙階
カトリック大分司教区
司教 パウロ 浜口末男

浜口司教叙階・着座

多くの司祭、修道者、信徒が参列
高見大司教より按手
駐日教皇大使、司教らとともに

司教空位

2008年~2011年

2008年宮原良治司教が福岡教区の司教として任命され、5月18日に第6第教区長として着座した。その翌日から大分教区では臨時顧問会が開かれ、教区管理者として田口孝志神父が努めることになった。そして誰もが予想しなかった3年にも及ぶ司教空位が続くことになる。この3年間に大分教区では3度の司教の選出を願うミサが行われ、堅信式や司祭・助祭の叙階式には高見大司教、郡山司教、平山司教らに司式をお願いすることになった。
また宮原司教の意向で「教区設立50周年」に向けての取り組みも5年間かけて行うことが計画され、2007年から実行されたが、空位期にも引き継がれ、無事50周年記念を迎えることができた。

ドミニコ宮原良治司教

2000年~2008年

1970年1月から31年近く大分教区長をつとめた平山高明司教の引退届が教皇に受理され、2000年5月10日、長崎教区司祭のドミニコ宮原良治師が大分教区司教に任命された。長崎カトリックセンターの教区法務事務所で法務代理を担当し、2000年4月からは福岡サン・スルピス大神学院で教会法を教えていた。福者ペトロ岐部と187殉教者(2008年11月に列福)の列福調査委員会のメンバーでもあった。
2000年10月1日、別府の明星高等学校の体育館で司教叙階式と着座式が行われた。駐日バチカン大使をはじめ、前教区長の平山高明司教や平田三郎司教を含む17名の司教、120名の司祭、また教区内外から約1200名の修道者、信徒が叙階式に参列した。また大分と宮崎両県から約100名の聖歌隊が結成された。

宮原司教叙階・着座

宮原司教司式で平山司教への感謝の集い
宮原司教の叙階・着座式が盛大に行われた

ペトロ平山高明司教

1970年~2000年

1969年、初代大分教区司教の平田三郎司教は聖座により福岡教区の司教に任命され、それにともない、平山高明師が1970年1月25日に大分教区2代目司教として大分司教座聖堂で叙階された。叙階式は駐日教皇大使ブルーノ・ブルテンベルグ大司教司式のもとに執り行われ、共同司式した司教は平田三郎司教、平山司教の恩師深堀仙右衛門司教をはじめ12名だった。その他に修道会管区長、聖公会代表を含む来賓、平山司教の親戚、50名の司祭団、修道者、信徒など約800名が参列し、盛大に叙階式、着座敷が行われた。式後には平田司教に対して感謝の言葉と平山司教への祝辞が司祭団を代表して村岡久義神父が述べ、信徒を代表して大分司教上田保氏が述べた。このように盛大で荘厳なミサは大分教区ではそれまでで初めてであったといわれる。
また同日叙階式に引き続いて明野小神学校の祝別式・落成式が行われたが、平田司教の課題であり、念願であった教区司祭の養成のための神学校建設はこのようにして引き継がれ、平山司教も最初の段階から司祭養成に関してはあらゆる努力を尽くす意思を固めていた。

平山司教叙階・着座

司教叙階と着座式が盛大に行われた
平山高明司教と平田三郎福岡司教

ペトロ平田三郎司教

1961年~1969年

ペトロ平田三郎司教(任期1962~1970年)
1961年12月、布教聖省は大分県、宮崎県を含む知牧区を教区に昇格させ、福岡教区から独立させた。司教座は大分教会に置かれることになり、大分教区初代司教にペトロ平田三郎師が選任され、翌年3月26日に司教に叙階された。
平田司教が叙階され大分教区に着座したその年に教皇ヨハネ23世によって第二バチカン公会議が開催された。会期は5年間に及びヨハネ23世の逝去にともなってパウロ6世教皇に引き継がれた。公会議はエキュメニカル的な雰囲気の中で行われ、様々な刷新的な文書が作成されていった。平田司教もこの公会議に参加し、大分教区でのその実践的の一つとして1968年10月10日に「司牧協議会」が発足された。司牧評議会とは、司祭、修道者、信徒が司牧面で実践的な結論を提出する諮問機関である。また典礼の面でも刷新され、ミサ聖祭はそれまで全世界でラテン語で唱えられていたが、公会議以降、日本語で唱えられるようになり、典礼聖歌が取り入れられ、詩編を歌うようになった。

平田司教着座

1962年3月26日 平田司教着座
大分司教座は大分教会となった
大分司教座は大分教会となった
 
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