日出殉教公園(加賀山親子の殉教)
日出殉教公園(旧日出藩成敗場跡)
バルタザル加賀山半左エ門と息子ディエゴは、「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者」の中に数えられている大分教区での唯一の福者である。
日出藩の家老職にあった加賀山半左エ門は、徳川幕府の禁教令を受けて反キリスト教政策に転じた藩主木下延俊よってその職を奪われ、1619年10月15日、息子ディエゴとともに斬首されて殉教した。殉教場所については、はっきりとした記録はないが、藩の処刑場ではないかと推定される。
公園のすぐ上には日出藩の成敗場跡がある。そこには「大乗妙典石書塔」と書かれた2.5mの供養塔が建っている。これは、ここで処刑された罪人の冥福を祈るため、1799年に松屋寺住職大連和尚によって建立されたものである。塔の下には、法華経69,384文字を小石に1文字ずつ書いて埋めてあるという。成敗場跡がこのような形で残されているのは全国的にも珍しいと言われる。
加賀山半左エ門親子の殉教
彼は殿の役人から、「何処で処刑されることをもっとも望んでいるか」と訊ねられ、彼は、「いっさいを彼らの思い通りに任せる」と答えた。しかしテクラはこう言った。「お父さん、あなたは盗みや破廉恥行為で処刑されるのではありませんから、家から外へ出る必要はありません。あなたは家の中で斬られてよいことですし、またそれがあなたの家族を喜ばせることにもなりましょう」と。バルタザルは娘のこの言葉を、聖主キリストの鑑をもって反駁した。「キリストは何ら罪もないのに、戸外の公の刑場で二人の盗賊の間で処刑され給うた。自分もできる限り聖主に真似て、聖主のために恥辱を忍びたい。そのようにできないのを、まったく遺憾に思う」と。こう言ってからかれは祈るために聖画像の前に跪いた。それから祝い事のように妻と娘から足を洗ってもらい、衣服を着替えて、片手に御絵を持ち、もう一方の手に火を点した蝋燭を携えて刑吏の方へ進んだ。
その時幼児のジャコウベが出てきて、行く手を遮った。幼児は父にしかと抱きつき、足元に身を投げて、はらはらと涙を流し、自分もいっしょに連れていってほしいと頼んだ。バルタザルは幼児に幼児に死刑の宣告が下されているとは夢にも知らなかったが、それを聞くと幼児が晴れ着に着替えて随行することを心ならずも許した。
やがて二人は異なる道を通って殉教の場へ出発した。そこに到着した時、バルタザルは役人たちに向かって、おそよ次のような話しをした。「…中略…わたしは何の罪も犯した覚えがないから、どうかあなたがたの誰も、わたしの身の上を憐れまないでもらいたい。わたしはキリシタンの信仰という唯一の理由で殺されるのを善しとするだけでなく、光栄に満ちたことだと考えている」と。
こう言って、バルタザルは跪座し、首に太刀を受けた。続いて4歳になるジャコウベも殿の命令によって斬られた。父は当年47歳であった。」(『16・17世紀 イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第3巻p.41-42)同じ日、従兄弟であったディエゴ加賀山隼人も小倉で殉教した。
日出殉教公園へのアクセス
所在地 速見郡日出町大字豊岡字上野地5993−7
大分方面から国道10号線を杵築方面へ。別府湾ロイヤルホテル入口の信号を左折。JR高架を過ぎたらすぐに右折。豊岡小学校からさらに50mほど進んで左折。800mほど登っていくと右手に日出殉教公園がある。
駐車場:有
トイレ:公園より上側にある山本氏の好意によって作っていただいた休憩所で利用できる