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キリストはすべての人を照らす真の光 (長崎、外海の海に沈む夕日)
2020/12/28撮影

カトリック大分司教区の最新ニュース・お知らせ

大分教区召命の日 メッセージ
2021-10-10
オススメ
神学生たちのメッセージ!
 大分教区召命の日(10月第二日曜日)に神学生たちがそれぞれ召命についてメッセージを書いています。ぜひご覧ください。神学生たちのためのお祈り、引き続きよろしくお願い申し上げます。

助祭叙階を受けて     大分教区助祭 幸真宏
9月23日に助祭叙階の恵みを受けたヤコブ・イグナチオ幸真宏ゆきまさひろです。大分教区の皆様のお祈りとご支援とによって、待ちにまった叙階式を迎えることができました。誠にありがとうございます。
私は1992年4月4日、大分市に生まれました。両親はまだ信者ではありません。私が高校生だった時に、世界史の授業に、時代を越えて登場するカトリック教会の存在に興味を覚え、小さな好奇心から大分教会に通い始めました。今だからこそ言えますが、神様の御摂理だったのではないかと思います。1年間の要理教育を受け、2010年4月3日に洗礼・堅信・聖体の秘跡の恵みを頂きました。両親の理解を得るには時間がかかりましたが、今は自分の信仰と司祭職への召し出しに、惜しみない援助を注いでくれています。
高校卒業後、福岡大学で4年間学び、小教区は笹丘教会に属していました。今月、久しぶりに笹丘教会を助祭として訪問することができましたが、友人たちの変わらない暖かな友情には、本当にありがたく思うばかりです。
大学卒業後、2015年からスペインのビダソア国際神学院にて6年間、神学生としての養成を受け、ナバラ大学神学部にて哲学・神学課程を修めました。ここの神学院では、生涯、忘れることのできない体験をさせていただきました。世界中から集まった100人もの兄弟と呼ぶべき神学生たちとの生活は、神様からの、愛のこもったお恵みでした。最初の年に、はじめの友だちになったウガンダの神学生は、言葉の分からない私に対して本当に親身になって勉強のこと、生活のことなどを助けてくれました。彼のあまりの優しさが気になって、正直に私は彼に、「なぜそこまで助けてくれるの?」と、尋ねました。彼の答えは、「君が兄弟だからだよ!」という、とてもシンプルな答えでした。このような神学生たちとは、「我が家」とも呼んだ神学院を離れ、各々教区で忙しく働き、地上で再会することはないのかもしれません。ですが、お互いに確信していることは、私たちはキリストにおいて兄弟であって、そして、天国で再び会う望みをもって「召命」という私たちの救いの道をたゆまなく歩んでいくということです。
9月23日の叙階式は恵み深いひと時でした。それまでの準備は大変長く感じましたが、式自体はあっという間に終わってしまいました。新型コロナウイルス対策のため、信徒の皆様の参加が大幅に制限された叙階式ではありましたが、祈りの内には、たくさんの方が参加されていました。体は離れていても、キリストにおいて私たちの心は一つです。遠く離れた友だちからの祈りと励ましの言葉も、確かに大分教会に集まっていました。自分の出身教会で、叙階の秘跡を受けることができた神様のお恵みは、本当に計り知れません。
現在は、12月中旬まで福岡カトリック神学院にて、助祭としての養成を受けます。週末ごとには、大分教区内の各小教区での司牧をしております。いつも応援してくださっている皆様と会える日を心から待ち望んでいます。
今後とも、私が助祭としての務めを忠実に果たし、そして司祭叙階に向けてますます精進していけますように、皆様のお祈りとご支援のほどを、よろしくお願い致します。
召命について   福岡カトリック神学院 神学科一年:山頭牧夫

 

 皆様、いつもお世話になっております。季節も夏から秋へと、少しずつ変化を見せる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。休み期間中、皆様に声をかけて頂く度に元気をもらうのを実感します。「おかえりなさい!」この言葉を聞くと、自分の拠点は大分であることを実感します。ふと気づけば大分に来てもう三年目となりました。これまでに様々な事がありましたので、特にここ一年の振り返りを行ってみたいと思います。

 

 明るい話題ではない為、この事に触れて良いものか迷いもしたのですが、どうしても頭の中から出ていってはくれませんでした。浜口司教様の事に触れさせていただきます。先ずは司教様、あなたが旅立たれてもう暫くすると一年が経とうとしています。本当にあっという間に時が過ぎたような感覚です。私は小神学校にいた時からお世話になっており、今、大分教区に私が居られるのも司教様をはじめとする皆様のおかげなのは間違いありません。返しきれないほどの恩があります。どう返していけばよいか悩んだこともありますし、返す相手であるあなたは神様の身元に居らっしゃいます。支えを失って不安を感じました。きっと皆さまもそうであったと思います。

 けれども、司教様の姿は見えなくなったけれども、その意志はいまも大分に息づいているではないでしょうか。そして、その意志を私たちが引き継いでいくならば、司教様も少なからず安心できるのではないかと考えます。大分の掲げる優先課題を見つめ、それについて何が出来るのか?直接的にでも、間接的にでも出来ることから皆が行動を起こせば、教区は一致に向かうと司教様はおっしゃられました。この考え方は、教皇フランシスコが使徒的勧告で触れた「あらゆるものはつながっている」という言葉に通ずるものがあるのではないでしょうか。教会の前進に先駆ける一歩が大分から始まっていくことを願いながら、浜口司教様の意志を大事にしたく思います。

 

 そして、わたくしごとですが、この春に神様の恵みと皆様のお祈りのおかげで神学生としての認定を頂けました。神学科で学ぶ内容は、これまでよりも司祭として実践的な内容を扱っていきます。そのため司祭として生きていくためには、自分自身に何が必要であるかを思い知らされています。考え方、知識、相手への伝え方、自分自身の中心に何を置いているのか、足りないところを知ること、しっかり受け止め、認めていくことから始める必要を感じております。

 

 まずは出来ることを探して行動を起こし、その上で難しそうであれば他者、神様の力添えと共に問題に対応していきたく思っております。このことが何かを善い方向に変化させ、ひいては「あらゆるもの」につながっていくことを信じ、歩みを進めてまいります。

 

 最後になりますが、いつも支えて頂き感謝しております。皆さま「本当にありがとうございます!」

「主よ、あなたにわたしを委ねます」  大分教区神学生: 金 建
 今年の4月~8月までの5か月間、別府の「光の園」で働かせていただきました。9月からは「トラピスト修道院」で生活させていただいております。早くも1ヶ月が経ちました。こちらの院長神父様はじめ、修道士の皆様のご配慮のおかげで、そして、何より大分教区の皆様のお祈りと応援のおかげで、自分の召命を真剣に見つめ直しながら歩んでいます。
 
 毎晩唱える「終課(寝る前の祈り)」には、いつも繰り返される「主よ、わたしをゆだねます。主よ、あなたにゆだねます」という共唱の言葉があります。わたしの心に強く響きます。寝る前の祈りは、4週サイクルの他の時課の祈りとは違い、1週間のサイクルで唱えられますので、同じみことばがよく繰り返されます。もちろん、同じ内容であっても唱える度に、心に入ってくることには新たなものがあります。「主よ、わたしをゆだねます。主よ、あなたにゆだねます」と唱えるとき“わたしをゆだねる相手”は他でもないわたしたちの父です。救い主である神様に身をゆだねるということ、そして、神様がわたしを受け止めてくださることに、神様の大きな愛を感じずにはいられません。この神の愛の深さは、わたしたちには計り知れないと思います。
 
ある意味で、今年はわたし自身が神様の御手にゆだねられたことを強く認識させられた年でした。光の園の松永園長様をはじめ、職員の方々のご配慮があって働くことができた光の園では、純粋で偽りのない子どもたちの笑顔を見ながら神様の愛を感じました。明るくて可愛らしいその笑顔を見ていると、わたしの悩みや不安はすぐに消えて無くなります。さらに、心の中に入っていた召し出しという花がドンドン咲き出します。そして、その微笑みを見ながら、神様の呼びかけを信じ、イエス様に従って歩んで行きたいと、今一度、気を引き締め直します。文字通り、わたしを神様にゆだねるのです。子どもたちの微笑みをとおして、わたしたちは神様の微笑みをみることもできます。イエス様が、弟子たちをはじめ、貧しい人や弱い人に見せてくださった微笑みは、きっとこのように美しいものだったでしょう。
 
二か月目に入ったトラピスト修道院での生活です。順調に慣れてきたと思います。ここでは光の園で感じた愛とは少し違った神様の愛を感じられると思います。修道士の皆様と同じタイムスケジュールで生活し、ともに祈り、黙想し、そして、働きながら感じられる神の愛は、修道院ならではの共同生活においてしか得られないものでしょう。毎日3時半から始まる読書課を終えてから、夜明けの星空を眺め、鳥をはじめ、色々な自然の美しい声を聞いていると、わたしたちのために全てのものを造ってくださった神様の大きな愛を感じます。そして、共同体としての祈りと黙想をとおして、何より、計り知れない愛によってわたしをゆだねられるようにしてくださった神様に感謝いたします。
 
光の園やトラピスト修道院での生活をとおしていただいた恵みに感謝します。大分教区の神父様方や神学生の仲間、そして信者の皆様から捧げていただくお祈りと励ましに支えられながら、足りないことだらけのわたしは自分自身の召命を真剣に見つめ、神の呼びかけに従って真っすぐに歩んで行くことができるよう頑張りたいと思っています。今後とも、どうぞお祈りをよろしくお願いいたします。

召命 ~神に召し出される命~

大分教区本部事務局

事務局長 山下敦

 

召命とは字のごとく、神様が召し出してくださる命のことです。すべての人に、固有の召命があります。神様は私たち一人ひとりに偶然命を与えたのではなく、明確な目的と使命をもって私たちをこの世に遣わされたのです。

さて、自分の召命をはっきりと見出している人はどれくらいいるでしょうか。召命について聞いてみるとこんな答えが返ってきました。

  1. 「よくわからない・・・」
  2. 「その時その時、必死だった。これまで一生懸命生きてきたから今がある。」
  3. 「自分の夢や理想を追い求めてきた。もちろんすべては叶わなかったけど、それも神の導きだと思う」

自分が何のために生き、また、生かされているのか。この問いに答えるのは簡単ではなさそうです。最後の“神の導き”という言葉に少し注目してみたいと思います。神から与えられる召命について、はっきりと言い切れるほどの認識を持っている人は少ないのですが、なんとなく神様が守り導いてくれたという感覚は、多くの信者の方にあるようです。そのような神の御摂理という観点からの振り返りは大切だと思います。ただし、それを未来に向けて考えることも必要です。すべては神の御手の中にあります。この国も、世界も、そして、私たち一人ひとりの命も、みな神の御手の中にあります。さて、神は私たちをどこに導かれたいのでしょう。何をしてほしいのでしょう。私たち一人ひとりには、神の御国の完成のために与えられた大切な大切な使命があります。それを自分のためではなく、人のため、神のために果たすとき、神様の国は完成していくのです。

召命は、若者だけが考えるべきことではありません。神がどこに導き、何を願われているのか…。子どもも大人も高齢の方も、日々、毎瞬間考えるべきことだと思います。その一つひとつに応えていくとき、私たちの召し出された命も完成していくからです。

 

さて、皆様方のお祈りのおかげで、大分教区には現在5人の神学生(大神学生3名、小神学生2名)が与えられています。召命の実りのためには何よりも多くの方々の霊的支援(祈りと犠牲)が必要ですが、同時に物的支援も不可欠です。神学生の召命の応援のため神学生養成寄付金(一粒会費)をもう少し増やしていただければ幸いです。5人の召命が実りますように、どうぞ、今後とも霊的・物的支援をよろしくお願い申し上げます。

 
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