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キリストはすべての人を照らす真の光 (長崎、外海の海に沈む夕日)
2020/12/28撮影

カトリック大分司教区の最新ニュース・お知らせ

毎日のミサのみことば
2022-04-11
オススメ
2022年4月11日 受難の月曜日
ヨハネによる福音 12・1−11
 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

 今日の福音朗読で描かれている場面は、イエス様が十字架につけられるちょうど一週間前の出来事です。イエス様は二度、油を注がれました。第一は、ルカによる福音書が語るように、ガリラヤでの宣教の開始時です(ルカ7・36-50。ガリラヤで、ファリサイ派の家で悔い改めた罪深い女に油を注がれたこと)。二つ目は、彼の人生の終わりに、ベタニアで行われたことです。イエス様は、友人ラザロのために彼の家族や友人たちが開いた宴会を楽しまれました。イエス様は十字架につけられるためにエルサレムへ向かう途中でしたが、エルサレムまでの道が混雑していたことと、親しい友人たちと一緒に過ごしたかったので、ベタニアに立ち寄られたのでしょう。

 今日の福音書は二つの態度を要約しています。マリアの態度とユダの態度です。マリアはイエス様への愛と神への感謝を、惜しみのない行動で表現しました。使徒たち全員の前で、彼女はイエス様の足にナルド(300日分の労働者の賃金に相当する非常に高価な香油)を塗り、自分の髪でそれを拭いました。その行為は、愛の豊かさを示しています。一方ユダは、マリアが香油代にそんなにお金をかけていることを批判し、そのお金を貧しい人々のために使うことができたのではないかと指摘しました。マリアの行為はお金がかかりましたが、その動機は正しいことでした。ですが、ユダの動機は、貧しい人を助けるというのは見せかけで、利己的で不純であり、その行為は神様に向けられたものではありませんでした。

 わたしたちはこの聖週間に、イエス様が何世紀も前にわたしたちのためにしてくださったこと、そして今もしてくださっていることに対して、愛と感謝を表す必要があります。それは、わたしたちの救いのために血を注いでくださったこと。聖霊で油を注ぎ、わたしたちをその霊の神殿としてくださったことです。また、わたしたちは、聖週間の間、多くの祈りの時間を過ごし、罪に対する償いの行いをし、今日のマリアのように愛といつくしみの業を積極的に行うように招かれています。
2022年3月30日 四旬節第四水曜日
福音朗読ヨハネ 5・17−30
 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちにお答えになった。〕「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 今日の福音書でイエス様は、ご自分が神の子として、神様と同じ権威と力をもっていることを説明されています。
 イエス様は、すべてのことにおいて父と一体、御父との間に完全なつながりがあると言っています。ですが同時に、イエス様は、従順に、御父の意志に完全に一致しているので、何事においても御父の意思と離れて行動することは不可能なのです。イエス様は、いつも御父が望まれることをされます。イエス様は、ご自分の父である神の唯一の業をいくつか行うことで、ご自分と御父が同じなのだと証明されます。例えば、死者をよみがえらせ、いのちを与えることは神様だけの特権で、イエス様は、それも使われます。イエス様は、御父から神の力を受けて、生と死に対する判断と権威を行使しているのです。だからこそ、イエス様のみことばは、彼を遣わした方を信じる者にいやしといのちをもたらします。イエス様の声を聞き、そのみことばに従った人はみんな、永遠の命を得られます。
 真にキリスト教的生活に生きるには、イエス様が御父のために示されたのと同じ愛と従順さをもって、わたしたちの人生を神様に委ねることです。
2022年3月28日 四旬節第四月曜日
 故郷のナザレで拒絶されたイエス様は、エルサレムでの過越祭に向かおうとされます。エルサレムからガリラヤに戻り、宣教の拠点となっていたカファルナウムに戻り、奇跡を起こす人、新たな預言者として人々に受け入れられました。今日の福音書では、ヘロデ王の宮廷に仕える役人の瀕死の息子を、イエス様が遠い場所から癒されたことが記されています。
 イエス様は、カファルナウムから約32km離れたカナで説教をされていました。ヘロデ王の役人は、カファルナウムから馬に乗ってカナにやって来て、瀕死の息子の癒しを求めてイエス様にすぐに来てくれるように願いました。彼は自分のプライドを捨てて、まだよく知られていない預言者に公然といやしを求めるほど必死だったのです。イエス様は、ファリサイ派の信仰のなさを批判されましたが、この役人には落胆されませんでした。彼は期待に満ちた信仰でイエス様にお願いして、イエス様は、「行きなさい。あなたの息子は生きる」と言われます。イエス様が与えてくださったことばを信じ、役人は急いで自分の家に戻ると、イエス様が、そう言われた瞬間に、息子がいやされたという知らせが届きました。このとき、役人はとても感謝し、同僚や知人の嘲笑を恐れることなく、家族とともにイエス様を約束された救い主として受け入れたのです。
 わたしたちも、この役人のように、真の謙遜と信頼、“しらしんけん”な祈り、そして神様の御心に自分を委ねる意志をもって、主イエス・キリストに近づくなら、わたしたちの人生にも奇跡的ないやしが起こります。わたしたちが頼るべきは、イエス様の揺るぎない言葉、ただそれにつきます。
2022年3月25日 神のお告げ 祭日
受胎告知(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)

福音朗読ルカ 1・26−38

 〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。

 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

 そこで、天使は去って行った。


 今日の福音書の朗読は、わたしたちの救いの始まりを思い起こさせます。この箇所では、神様が大天使をおとめに遣わし、わたしたちの長年の罪を取り除く神の子の誕生を宣言し、彼によってわたしたちは新しく生まれ、神の子の一人とされることができるのです。マリア様は "恵みに満ちた方"と表現され、神の愛と優しさに満たされています。彼女は新しい箱舟、聖櫃、神殿なのです。神様は文字通り、物理的に彼女の中におられますから、ダビデに約束されたより偉大な神の家なのです。マリア様が "わたしは処女なのになぜ?"と考えるのは当然のことでした。だからこそ、大天使はマリアに "神に不可能はない"と念を押すのです。マリア様は、疑わず、信仰によって神様の御言葉を受け入れました。わたしたちはお告げの祈りを捧げるとき、ロザリオを祈るとき、神の受肉という偉大な贈り物を感謝しつつ思い起こします。「喜びの神秘」の最初は神の子の受肉である「お告げ」なのです。

マリア様のように、わたしたちは、神様の御手の中で、神の力と善意に信頼する謙遜な道具となる必要があります。イエス様をこの世に誕生させ、肉と血を与えたマリア様の信頼に満ちた信仰と謙遜をもって、神様のみ旨を行うことで、神様の計画の実現に協力したいと思います。

日々の選択の中で、神様に対して勇気を持って寛大にYESと言うことが求められています。真の従順は、真理と善の光に照らされた自由な選択から生まれます。このような自己犠牲は、しばしば社会的な流れに逆らうことを伴うので、非常に大きな勇気を必要とします。ですが、イエス様とマリア様と共に、心をこめて、全く無条件に "はい"-"FIAT"-と言うことによって、わたしたちの中に、そして他人の中にもイエスが生まれ、あるいは新しく生まれ変わるのです。それこそ、わたしたちの勇気の源です。

また、自分の人生に対する神様のご計画を学んでいく必要があります。今日の聖書のメッセージは、神様が人類全体の救いのために準備されているということだけでなく、一人一人のために計画を持っておられるということです。わたしたちの仕事は平凡に見えますが、その平凡な仕事の一つ一つが、わたしたちには分からないところで、神様の計画の中に組み込まれているのです。神様は、わたしたちの手と才能だけでなく、心からの愛も望んでおられるのです。

聖母の取り次ぎを願い、ウクライナとロシアに、そしてこの地上にキリストによる平和がもたらされるように祈りましょう。

2022年3月23日 四旬節第三水曜日
マタイによる福音5・17−19
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」

今日の福音は、イエス様の山上の説教の一節で、イエス様が律法の完成に来られたと語っています。マタイが伝えるこの言葉は、改宗したユダヤ人の共同体に感動を与え、「モーセの律法に忠実ではない」と非難する同胞の批判を克服するのに役立ちました。イエス様ご自身も、律法破りとして不当に非難され、十字架にかけられることになります。イエス様は、旧約聖書は神の言葉として、神的な権威を持ち、全面的に尊重されるに値すると言っています。律法は、最終的に、人々が愛を実践することによって神様を敬うことを目的としていました。その道徳的戒律は、ほとんどの場合、自然法則に則っていたので、尊重されるべきものです。ですが、旧約聖書の法や典礼の決まり事は、救いの歴史の特定の段階において神によって定められたものであるため、キリスト者はこれを守る義務はありません。

イエス様の時代、律法はユダヤ人のグループによって、1)十戒、2)モーセ五書、3)律法と預言者、4)口伝(律法学者)と文書による律法と、異なる理解がされていました。ユダヤ人はトーラー(モーセに与えられた律法)が永遠で不変の、神による自己啓示であると信じていました。今日の福音書で、イエス様は、律法を破壊するために来たのではなく、律法の内的な意味を引き出して完成させるために来たと話しています。なぜなら、イエス様こそ神の究極の自己啓示だからです。イエス様は、十戒の基礎となった二つの基本原則、神への愛隣人への愛の原則を尊重しました。神への愛では、神様、神様の名前、聖なる日を敬うようにと言われています。隣人への愛では、父と母、いのち、結婚の絆、自分への誠実さと他人への評判、法制度、他人の財産と配偶者、そして自分の配偶者を尊重するように指示されています。イエス様は、これらの原則に基づくすべての神の掟を成就するために来られたと宣言しています。「律法を全うする」とは、神の国の「義」を全うすることで、神様のみ旨を行うことです。

 神様のみ旨を忠実に行った聖人の一人が、今日任意で祝うモングロベホの聖トゥリビオです。16世紀のスペインで生まれた聖人で、ペルーのリマの司教となりました。信徒の信仰生活の刷新を進め、教区民を頻繁に訪れて人々の世話をして、アメリカの先住民に対しても福音宣教を進めました。彼のような聖人の努力があってこそ、今の教会があります。聖人の取り次ぎを願いながら、今日一日も「神様のみ旨」を行っていきましょう。

2022年3月7日 四旬節第一月曜日

今日の福音書では、パレスチナの羊飼いたちが行っていたという、おとなしい羊から活動的でない山羊を分ける作業をイメージして、最後の審判とその基準について述べています。イエス様は、審判者として栄光を帯びてやって来て(キリストの再臨)、善良な人々に報い、悪い人々を罰することを約束しています。これが善人と悪人を分ける最終的な公の場での分離となります。

このたとえ話は、最後の審判の主な基準は、わたしたちがキリスト教的ないつくしみ、やさしさ、愛の業をしたとき、実際にキリストに仕えたのだということを私たちに教えています。このたとえ話は、裁判官であるキリストがわたしたちに6つの質問をすることを教えていますが、その質問はすべて、わたしたちが神の恵みに協力し、実際に他人のなかにイエス様がおられ、彼のために愛の業を行ったかどうかに基づいています。最初の質問では、「私は飢え、喉が渇き、家を失っていました。あなたは私に食べ物、飲み物、宿を与えてくれましたか?」。 第二の質問では、「私は裸で、病気で、投獄されていました。あなたは私に服を着せましたか?病気や刑務所にいる私を見舞ったりして助けてくれましたか?」というものです。もし答えがYesなら、わたしたちは愛の業を実践することによって神の恵みに協力したのですから、永遠に報われるのです。ですが、もし答えがNoなら、わたしたちは神様の愛から最も離れることになります。マザー・テレサは、「貧しい人々が餓死しなければならないことがあるとすれば、それは神が彼らを顧みなかったからではなく、あなたと私が神の手の中でパンを与え、衣服を与える愛の道具にならなかったからです」と言われたそうです。

ですから、聖書、七つの秘跡、十戒、教会のおきてなどはすべて、わたしたちがこの世で、神の愛、天国の幸せという永遠の報いを受け取ることができるように、身体的・霊的に愛の業を実践するのを助けるためのものです。逆に、罪とは困っている人を、キリストのうちに兄弟姉妹として認めず、愛をもって仕えないことで、永遠の罰へといたる非常に深刻な問題であるということを教えています。

 また、3月7日は、任意ですが聖ペルペトゥアと聖フェリチタスの記念日にあたります。ローマ帝国時代の殉教者で、アフリカのカルタゴで殉教しました。彼女たちも、キリストへの愛のため、父親、夫への愛ゆえに痛ましい苦しみを受けました。大きな困難を前にしても、今日の聖人たちは、「キリストの勝るものはない」と、教えてくれています。

2022年2月15日 年間第6火曜日


第一朗読:ヤコブ1・12-18

01:12試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。01:13誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。01:14むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。01:15そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。01:16わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。01:17良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。01:18御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

第一朗読は前日のヤコブの手紙の続きです。今日の箇所の前半部分、1章12節~15節までに解説はあまりいらないでしょう。試練を耐え忍ぶことの重要性と、自分の欲望にそそのかされて誘惑に陥らないことへの勧告です。ここには、自分の乱れた欲望を通して生じる悪についての責任を問いただす厳しさがあります。むしろ難しいのは後半、16節~18節です。明らかに旧約聖書創世記の創造の話が下地にあります。天文学の用語を用いながら、すべてを治めておられる神がどれほど私たちによいものを与えようとしてくださっているかを説いています。一説によると、古代において、星の動きは地上の動きと違って永遠であり、衰えたり変化したりしないと考えられていたので、それ以上に、神の善は永遠に変わらないとヤコブは語っているのです。

福音朗読:マルコ8・14-21

08:14弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。08:15そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。08:16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。08:17イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。08:18目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。08:19わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。08:20「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、08:21イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

今日の福音の箇所は昨日の箇所に続く部分ですが、話自体は、その直前にイエスがなさった4千人にパンを増やす奇跡の話とつながっています。弟子たちが、イエスの“パン種”という言葉から「自分たちがパンを持っていない」ことを考えたような、間違った解釈をしないように注意することが大切です。マルコの論点を簡潔に言えば、弟子たちの無理解と不信仰(同時に、ファリサイ派の人々のそれら)です。エレミヤ書5章21節「愚かで、心ない民…。目があっても、見えず耳があっても、聞こえない民」やイザヤ書の6章9節の類似した言葉とつながっています。彼らが何を理解できず、信じられなかったかと言えば、「イエスと一緒にいれば、不足することは(肉体的にも霊的にも)全くない」と言うことです。そのことは、12日の解説にも書いたように、パンを増やす奇跡がご聖体の秘跡の話と直結していることから理解すれば明らかです。つまり、マルコは、人間の空腹を満たすことのできる全能の神であるイエスは、ご自身の体を与えるというご聖体の秘跡を通して、すべての人をすべての意味で満たすことができると福音書全体をとおして訴えているのです。これが理解できず信じられなかったのが弟子たちの無理解と不信仰だったわけですが、これは私たち読者たちに対する直接的指摘でもあります。「ご聖体のイエスは、私たちにすべてを与えることができる」。このことを知り、信じていますか?

2022年2月14日 年間第6月曜日


第一朗読:ヤコブ1・1-11

神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。

週日のミサの第一朗読では、今日からヤコブの手紙が読まれます。ヤコブは試練にあうことを恵みと考えるように招きます。それによって、信仰はじめ、その他様々な徳が身につき、何一つ欠けたところのない人になると説明します。また、足りないことがあると感じるなら、それをひたすら神に願いなさいと。疑う者は風吹かれて揺れ動く海の波のように人生の安定を欠く人だと言います。揺るがない信仰をもって神様に向かう人にとっては、すべてのことが善、神の恵みとなって働くのです。

福音朗読:マルコ8・11-13

ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。 

非常に短い今日の福音の箇所は、人間の罪、特に現代人の罪を暴くと言ってもいいでしょう。「しるしを求める」という行為そのものは、実は聖書にたくさん出てきます。たとえば、祈りのコンテキストにおいてとか、また、信仰ある人が神様に何かを願うとき、聞き入れてもらえたことのしるしを神に求めるという形(士師記6章のギデオン)もあります。しかし、マルコ福音書のイエス様が“しるし”という言葉を今日の福音のような形で使われるときは、非常に強い否定的ニュアンスがあります。この「しるしを求める」という行為は、現代風に言えば、自分が理解できる何かを神に求め、それがなければ信じないということです。科学技術の否定的部分、たとえば唯物論や即時的解決法に洗脳されていると言っても過言ではない現代人の中には、神に対しても自分にわかる何かを求め、それが提示されなければ相手にしない、もしくは、無意味なことだと決め切り捨てる人が多くいます。信仰そのものが導いてくれる目に見えない真理の世界などは、彼らにとって意味のないことになってしまっています。人間が理解できるしるしを神に求め、神がそのすべてに対して答えるようなことになれば、神と人間の立場が逆転してしまいます。だから、「そのような人間はよこしまだ」とイエス様は断罪的に言い切っています。まさに、今日の箇所に登場する「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」ファリサイ派の人々のことです。現代人の自己中心性-自分にわかることが提示されなければ、向き合うことができない、信用、信頼できない―の聖書的な極みは、十字架にかけられたイエス様に人間が吐いた言葉にあります。「他人を救ったのだから自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。そうすれば信じてやろう」。反対です。神が与えようとしてくださる真理に基づいて、私たちが変わらなければならないのです。たとえ、それが私たちに理解できなくても、です。そのチャレンジの歩みこそが信仰の道なのです。

 

2022年2月12日 年間第5土曜日

第一朗読:列王記上12・26-32、13・33-34

今、週日のミサの第一朗読で継続的に読まれているのは、ダビデ以降のイスラエルの王国史です。ダビデの子、ソロモンの子らの時代に王国は分裂します。今日読まれているのは、北のイスラエル王国の王、ヤロボアムの言動です。自分の民が南のユダ王国の王、レハブアムに傾き、自分が殺されると恐れた彼がとったのは新しい宗教政策でした。“金の子牛”という偶像を作り上げ、それを拝ませることで民の心を自分のもとにとどめようとしたのです。簡単に言うと、保身のために宗教を利用したということでしょう。人間の罪は、保身のために、あらゆる嘘、偽りの手段を講じることです。人間は自分を守るためだったら何でもすると言ったら私たちにとってもっと現実的でしょう。しかし、人間は真理を変えることはできません。逆に真理によって私たちの噓偽りは暴かれ、ますます不幸な道を歩むことになります。私たちが真理によって変えられる必要があります。真理に基づいて変わる努力、その決断が必要なのです。永遠の真理、それはイエス・キリストです。イエスに従って歩むことこそ、私たちを真の自由と平和に導いてくれます。

 福音朗読:マルコ8・1-10

今日の福音書は、マルコとマタイだけが書いている、4千人にパンを増やすイエスの奇跡の話です。5千人以上の人にパンを増やす話は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書とも書いていますが、最初の二者はこの4千人へのパン増加の奇跡も書いています。「群衆がかわいそうだ」と訳されている分に注目しましょう。原文の訴えを中心に解釈すると、イエスは「私は群衆の痛みに心から共感する。いてもたってもいられない!」と言っていることになります。つまり、人々の空腹に対して、これ以上ないほど共感し、何とかしてその状態を変えてあげようと思ったということです。実は、マタイとマルコは、5千人へのパン増加の奇跡の話、4千人へのパン増加の奇跡の話のどちらにおいても、イエスが、群衆の“空腹”や“飼い主のいない羊のような姿”に深く共感する姿を明確に記しています。つまり、パンを増やして人に与えるという奇跡には、人間のみじめな現実に対する神(イエス)の憐みの心が先行しているということなのです。

ところで、この「パン増加の奇跡」は、最後の晩餐における「ご聖体の秘跡の制定」に直結しています。パンを“取り”、“感謝の祈りを唱え”、これを“裂き”、弟子たちに“渡した”の4つの動作は、イエスが最後の晩餐の席で取るのと同じ動作です。

 

結論です。ご自分の体をパンの形態で私たちに与えてくださる、これがミサ聖祭において神がなさってくださることです。しかし、それ以前に、先行する神の憐みがあるのです。日常生活で悩み苦しみ、傷つき痛んでいる私たちの惨めさと空虚さに共感し、いてもたってもいられなくなるイエス様の熱い思い…だから私たちを憐れんでくださるその心が少しでもわかったら…。その時、私たちはごミサに、義務や務めとしてではなく、本当に素晴らしいお恵みとして感謝しつつ、何より喜んで(!)与ることができるようになると思います。結局のところ、ハートとハートが通じなければ、すべてのことは決まりと義務によって形骸化されてしまうのです。神様の熱い思いを理解する恵みを聖母マリア様が取り次いでくださいますように。

2022年2月11日「ルルドの聖母の記念日」 -世界病者の日-

今日、私たちはルルドの聖母を祝う。今日はマリア様の日、われらの母なる方の日である。すべての命は母を通して与えられる。そして、どの命も例外なく、その唯一の与え主である神のもとへ帰っていく。

 

全世界を暗い色で覆う新型コロナ。この状況が始まって二年以上たつ。その間、特に最近、私の周りには病に倒れた人、また神様のところに帰っていった人が多くいる。命の始まりは素晴らしい。その終わり(死)も素晴らしいはずだが、それは、その向こうにある永遠の命を体験するまではわからない。今は、聖書のみことばと教会に残された教えをもとに、天の国での永遠の喜びをひたすら信じるのみである。私たちに先立っていかれた人たちは皆、これ以上ない幸せの中で神の命を生きていると。

 

天の国にたどり着いた人にとって、死は最高のものある。しかし、残された私たちにとって、死は残酷で、時々、心と魂をめちゃくちゃにする。死も、そして、それを強く感じさせる病も、また、自分の死や病よりも、私たちが愛する人のそれらは、私たちの心をその根元から破壊することがある。

 

そんな中、命をもたらした方の強さに思いをはせる。イエスは、人となった神の子は、罪汚れの全くないこの方は、私たち人間のためにご自身の命を捨てられた。十字架上での完全な奉献によってすべてに命をもたらした。この人の強さは信頼に値する。自分の痛み苦しみをすべて人のために捧げられたのだから。それは真の愛である。

 

この神の子に人としての命を与えた母マリアの強さも、同じ理由で信頼に値する。自分のためではなく、人のために、そして神のために自分の命を生きたからである。

 

でも、この方は母である。それ自体が、まず信頼に値する。母は命を与える存在である。自分のすべてを子に、そして他者に与え尽くすという自己贈与の愛を最初に実現する方だ。だからこの方に信頼したい。この方に希望を置いて、前を向いて、天の国に向かって真っすぐに進んでいきたい。

 

聖母はきっと私とともに歩んでくれる。

 
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