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みことばの説教と解説

みことばを生きる

復活節第五主日ミサの説教(井下洋介)(2020.05.10)
2020-05-09
主日の公開ミサは中止が継続されています。今後、主日ミサの説教を掲載していきたいと思います。ミサに与れないときこそ神のみことばにいかされますように。
 
A年復活節第5主日
今日の福音でイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。
道にもいろいろあります。高速道路に幹線道路、砂利道あぜ道けもの道。
また具象的な意味を離れて、ある場所からまたある場所へ人を導くものなので、人生の歩みや営みを道と呼んだりもします。フランク・シナトラの『マイ・ウェイ』、パフィーの『これが私の生きる道』、「知らず知らず歩いてきた、細く長いこの道」と美空ひばりも歌ってます(『川の流れのように』)。森進一に『道ならぬ恋』という歌がありますが、それがどういう恋なのか、歌詞を聞かずとも察せられるでしょう。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は自身の芸術を探求する中でこんな詩を残しました。「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る。」『道程』という詩の冒頭です。中学の教科書で読んだことのある方、いるんじゃないでしょうか。このように何ごとかを探し求め、探求する過程もまた道と呼ばれます。柔道剣道弓道、華道茶道書道、己を見つめ精進を重ね、武芸や芸事の神髄に達しようとする厳しい道です。
 同音異字も多いですね。路(小さな道、路地、こみち)、途(使い方、用途)、倫(道理に沿った、人倫にかなう)、などなど。
 さて、いろんな道がありますが、イエス様がきょう言われた道とは、どんな道なのでしょう。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と、わたしたちをそこにいざなうイエス様の道とはいったいどんな道だと皆さんは思いますか。たゆまぬ精進を重ねてやっとたどり着く「キリスト道」のような道でしょうか、まさか「道ならぬ恋」の道ではなかろうかとは思いますが、皆さんそれぞれ、このみことばに対する自分の見解を持ってほしいと思います。イエス様がわたしたちに対して「わたしは道です」と語りかけているのですから、わたしたちは「ふーん、そう」「へー、どゆこと?」以上の感想をぜひ持たねばなりません。
 わたしが、イエス様の言う道について一番ぴったりくると思う言葉があります。その前に、皆さん、『峠の我が家』というアメリカ民謡をご存じでしょうか。「♪あの山を いつか越えて 帰ろうよ わが家へ」という歌いだしの歌です。実はこの歌、日本語訳の歌詞が二つあって、有名なのは「あの山を~」の方なのですが、もう一つの訳のほうが原文に忠実です。こんな歌詞です。
 
『峠の我が家』 龍田和夫訳詞・アメリカ民謡
  空は青く 緑の野辺
  なつかしの わが窓
  悲しみも 憂いもなき
  ほほえみの わが家
  おお ふるさと
  耳になれし ことば
  むれ遊ぶ ひつじのむれ
  晴れわたる この空
 
 懐かしく心安んじるふるさとを歌っていますが、また英語の原詩を見ればよりはっきりするのですが、このふるさとは明らかに実際よりも美化されています。まるでこの世のものではないかのごときです。そう、実はこの詩は神の国のことを(あるいは神の国に関連付けられた場所のことを)歌っているのです。そのうえで、わたしが考えるイエス様の言う道、それは、「家路」だと思います。イエス様はご自分のことを、あなたがふるさとに帰る道だ、と示してくださったのです。
 今日読まれた福音の冒頭の言葉をご覧ください。「心を騒がせるな」。この直前の個所では、ペトロが三度イエス様を「知らない」と言うだろう、という予言が語られます。その前にはユダの裏切りについて言及されます。弟子たちは不安だったのです。そんな弟子たちにイエス様は、ご自分こそが父のもとに還る家路であると教えられたのです。
 家路とていつも平たんな道だとは限りません。険しい道や難路もあるでしょう。しかし、そこをへて行く先にあるのは麗しのふるさと、やすらぎの我が家です。このことがわたしたちに希望をもたらし、安心を与えてくれます。これから十字架にかかろうというとき、イエス様は弟子たちにどう生きていけばよいのかを示そうと、わたしは道である、と話されたのではないでしょうか。
 イエス様に従って今を生きるわたしたちにも、この言葉は希望と平和を与えてくれます。わたしたちが歩んでいるこの道は、故郷へ帰る道、家路なのです。知らないところへ連れて行く道ではなく、重荷をしょって喘ぎつつ歩く道でもなく、しんどい時期はあったとしても希望をもって歩みを進めることのできる道なのです。希望をもって、共に歩んでまいりましょう。
井下洋介
 
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