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第一部

 

ザビエル渡来より大友宗麟死去まで

ザビエル渡来より大友宗麟死去まで
 
第一章 ザビエル来府と初期の宣教 1551年~62年
ザビエル、大友義鎮に会う
1551年晩夏、一隻のポルトガル船が豊後の日出港に到着、その船長は、ドアルテ・ダ・ガマ(Duarte da Gama)であり、ザビエルの信奉者であった。ザビエルは二年前の1549年8月日本に上陸して、鹿児島、平戸、京都、山口と宣教の旅を続けていた。当時山口に居たザピエルのもとに、ポルトガル船来航の知らせがあり、しかも豊後の国主大友義鎮の招聘もあり、彼は豊後へと向かった。
大分沖の浜にてザビエルはガマの歓迎を受け、彼は正装して印度副王の大使として義鎮に面会した。義鎮は「二階崩れの変」で前年横死した父義鑑の後を継いで、大友家の領主となったばかりの21歳の青年であった。義鎮はまだ若く、青春時代であり、キリスト教を受け入れる状況ではなかったが、ザビエルに会って27年を経て、キリスト教に回宗することになる。
ザビエルは府内滞在月2ヶ月の間に、領内で宣教する許可を願い、数人に洗礼を授けた。隆盛に向かう山口教会と併せて、キリスト教に寛大な大友の居る豊後教会にも、彼は大きな希望を抱いていた。ザビエルはヤジロウ(?-1551)と共に編んだ一冊の日本語のキリスト教問答書で人々に教えた。それは不完全なものではあったが、山口での体験を経てある程度の形にまで出来上がっていた。
ザビエルはインドでの問題を処理するために、一たんインドに帰ることを決め、11月中旬府内を去る前に義鎮を訪問し、今後到来する宣教師に便宜を与え、宗教の自由を保証してくれるように頼んだ。義鎮はザビエルと共に一人の家臣をインド副王のもとに送り、「通商と友好」を願わせた。ザビエルは山口のマテオと鹿児島のベルナルド(?-1557)をヨーロッパに送るべく同伴した。マテウスはインドで死亡。ベルナルドはヨーロッパに渡り、ロ-マ、ポルトガルで学んだがコインブラで死亡。ザビエルは日本の若者に異文化に触れさせることで将来の日本教会づくりを夢見ていた。

ガゴ神父と共に大分教会が始まる
ザビエルは1552年4月、ゴアを出帆、一艘はザビエルと共に中国上川島に留まり、他の一艘はガゴ(Balthasar Gago,1515-1583)神父を団長としてドアルテ・ダ・シルヴア(Duarte da Silva,1535-1564)とペトロ・アルカソヴア(Pedro Alcacova,1525-1579)という2名の修道士は、日本に向かった。彼らは8月14日、種子島に到着、9月7日豊後に上陸した。義鎮は彼らに宿泊所を与えた。同船で前年送った大友の使者が受洗して帰国した。山口にいた日本の長上トレス(Cosme de Torres,1510-1570)神父は、日本語に通じているフェルナンデス(Juan Fernandez,1526-1567)修道士を豊後に遣わした。ガゴは通訳を通して義鎮に「殺すな、姦淫するな」と説いた。‘人を殺さないでどうして国を治められよう’と、義鎮は反論した。戦国大名の当然の論理であったろう。また性に関しても、当時の倫理観を抜けきることはできなかった。この二つの点を納得して乗り越えたとき、大友宗麟の回宗がある。
ガゴ一行はまず山口に行き、トレス神父と会って今後のことを相談してから、翌年、1553年2月、豊後に戻った。しかし、その時、豊後は一万田弾正などの反乱があり、騒乱の最中であった。それでも一家屋を与えられて、不安の中に豊後教会は発足した。義鎮は教会に一地所を提供、ガゴ神父は聖堂と修道院を建立した。高い十字架を据え、これは市内の人々が目にすることとなった。150名くらい収容できる大きさの聖堂であった。信者が焚き出しなどをして建築に参加したという記事かおり、微笑ましい。 1553年7月21日聖堂は落成して「慈悲の聖母」(Nossa Senhora da Piedade)に献堂された。
ガゴ神父は能力ある宣教師であったが性格はかなり激しい人であった。キリスト教宣布のことで仏僧と激しい論争を繰り返した。しかし、義鎮の庇護があり、教会は確実に発展した。府内周辺にも福音の種子が蒔かれ、1553年報告書では、700名前後が受洗したという。

朽網教会の始まり
1554年には大友義鎮は九州4力国の守護となり、ガゴは義鎮の庇護の下に豊後教会の発展のために意欲的に働いた。彼は、山口より豊後に住み着いた。元仏僧パウロの助けなどを借りて、キリスト教教理書を編し、義鎮を通して大友家中に配布した。仏教とキリスト教の理論的相違点を浮き彫りにすることでキリスト教の独自性を訴えていた。しかし、それにしても入信するものの大多数は貧しい階級の人々であった。この頃(直入郡)朽網出身の一老人が府内に於いてキリスト教に触れる機会に恵まれ、アントニオの霊名で受洗した。アントニオは郷里に戻り、朽網の有力者であった大家族の主人を回宗に導くことに成功した。この貴人はルカスの霊名で受洗、以降自宅を教会として開放した。ガゴは朽網地方を巡廻し、300人に授洗した。これから後大分、直入、竹田は宣教師がしばしば往来する道筋となった。同時に大分周辺の村々、高田、敷戸、井田地方にもキリスト教が広まった。

アルメイダ修道士と府内病院
しかし、豊後教会にとって何といってもアルメイダ(Luis de Almeida, 1525-1583)のイエズス会入会は大きかった。1555年、商人として来日し、ガゴを尋ねて府内に来て、同神父の指導を受けてイエズス会入会を決意した。極東に於いて有名な商人であり、医学の知識にも通じていたアルメイダは、豊後滞在の折り、府内の人々の悲惨を目前にし、また堕胎によって小児が殺されるのを見て心を痛め、全財産をなげうって彼らの救済を思いたった。アルメイダは大友義鎮に乳児院設立を提案、快諾を受けた。同時に貧民救済も兼ねた病院開設案も提出された。この実現は1556年トレス神父が山口より豊後に移り住むことで本格的に開始された。アルメイダはトレス神父の手を通してイエズス会に正式に入会、府内病院開設、充実に全力を注いだ。内科、外科、皮膚科が設立され、アルメイダは外科医でもあった。1557年正式に開院、2月には診療が始められた。その反響は豊後一円を越えて、全国に広まった。アルメイダは病院の運営、管理のために信徒を採用した。「ミゼリコルディアの組」が創設され、彼らは交代で病院を回り、経営を助けた。アルメイダは初期より医師の養成に力を注ぎ、山口より来たパウロ・キョーゼン、内田トメ、ミゲルなどの有力な協働者を得て運営した。貧しい人々への奉仕、愛徳のある福祉事業、死者を手厚く葬る教会の人々の姿は当時の多くの人々の心を打った。

トレス神父を中心として
山口では陶晴賢が毛利元就に討たれ、大内義長(大友晴英、義鎮の弟)は追われて自刃して果てた。山口は不安な状態に陥り、当時、日本教会の長上であったトレス神父は1556年5月、山口より豊後へと移った。こうして豊後は日本教会の中心地となった。
コスメ・デ・トレス神父は、スペインでラテン語の文法の教師をしていたが、その人生に物足りなさを覚え、メキシコに渡り、更にビリアロボス率いる艦隊に乗り込み、世界一周の旅にでた。途中でポルトガル人の手に落ち、そこでザビエルと出会い、ザビエルは彼を日本に連れ、後継者として彼を残した。 トレスは「善良な老人」と呼ばれ、豊後の人々から親しまれた。肥満型であり、大々にやさしく気を配るデリケートな心の持ち主であった。しかし単なるお人好しではなかった。彼には明確な二つの路線をザビエルより受け継いでいた。一つは、日本人を育てて教会の将来の柱とすること、他の一つは、日本の社会、文化に適応することで宣教するということであった。二つの路線ともザビエルが指示したものであった。同年7月日本巡察師として、聖書学者として有名なメルキオール・ヌーニェス(Melchior Barreto Nunes,1520-1571)神父が豊後に到著したが、トレスはヌーニェスと「適応」という問題で意見が合わなかった。トレスは「日本の住民に適応するために十分に配慮するように」(フロイス『日本史』)と忠告し、彼は自ら範を垂れるために床に寝で、米の飯を食べた。多分ヌーニェスが見た大分の多くの信者は、ただ受洗しているだけの、無知と迷信が混ざり合っている信者との印象であった。そのために余り容易に洗礼を授けるべきではないと考えていた。トレスはもっと実践的であり、今の限られた人材と環境の中でできる限りのことをしていけばよいとの見解をもっていた。難しい理論ではなく、日本人の共感を得ることがまず第一のことであると確信していた。ヌーニェスは11月、病気がちで、日本を去った。義鎮より杉材の家屋を数軒寄贈され、隣接の土地を購入して、教会の敷地を広げた。更に義鎮は博多にも教会のために敷地を与え、ヌーニェスはガゴを同所に送った。博多は九州にあって最重要な土地であり、教会も早くから可能性をもっていた。ヌーニェスは日本を去るに当たり、100余冊の良書を残した。哲学から世界地図、神学から薬草の本、霊性神学からオルガン教則本といった図書をもつ当代随一の西欧図書館が豊後にあった。これも後の島津との戦いで焼失した。ヌーニェスは聖書学者であり、ガゴと共同で教理書を完成させたその功績も大きかった。
トレスは1557年に入り、病院開設の許可を義鎮に願い、それを受けた。病院を通して貧者への活動は益々隆盛に向かった。しかしトレスはザビエルの路線にそって若者の教育を重視した。当時山口より逃れた武士の信者の子供たちを修道院に収容し、キリスト教的に育てた。その子供たちの中から、大友宗麟や、その家族に教理を教えるジョアン・デ・トルレス(Joao de Torres, 1550-?)のような人物が現れて、日本教会の最初の礎となっていくのである。また寺子屋形式の教会学校を充実させて、毎日子供たちに学ぶ機会を与えたのであった。トレス神父と子供たちの活き活きした交流の場面をフロイスは私たちに伝えてくれている。
トレスは宣教を活発にするために典礼に意を用いた。四旬節、復活祭、降誕祭には説教のほかに、視覚に訴える種々の試みを行った。ローソク行列、聖劇、合唱隊、オルガン演奏などであった。1557年の復活祭には牛の肉と米を一緒に煮て、リゾットを人々に配った
エピソードなども伝えられている。結婚式や葬儀にも意を用い、人々に感銘を与える演出を行った。形から入る日本の風習を積極的に取り入れようとするトレスの姿勢がそこここに現れている。
府内の修道院の生活は順調であった。一日に7回鐘が鳴らされ、教会の祈りに日本の国のために、めでたしの祈りと主祷文が二回づつ唱えられた。早朝のミサと夕方の連祷に信者は参加した。修道者たちは家事の仕事をしたり、土地の整頓をしたり、寄宿する子供の世話や、教会学校の指導にあたったりした。九時半には良心の糾明と夜の祈り、翌日の黙想の材料が与えられ、眠りについた。後に京の地方で多くの武士を信仰に導く盲目のロレンソ(Lorenco, 1526-1592)やダミアン(Damiao,?-1605)たちもこの修道院に起居していた。
朽網、平戸、博多と教会ができ、発展した。ただこの時期、宣教師が少し強硬になった傾向はみられる。 ヴィレラ(Gaspar Vilela, 1525-1572)神父は回宗者の家にある仏像や、経典を焼いたというような記事が散見する。しかし、この位の強固な意志がないと、京にヴィレラ一人で何年孤軍奮蹄して門戸を開いていくことは不可能であったに違いない。

義鎮、臼杵に築城、入道して宗麟と号す
1561年に入ると、筑豊は騒乱のなかにあり、毛利は九州に侵入、肥前の龍造寺は大友に反旗を翻し、大友の旗色は好ましくなかった。門司城合戦で手痛い失敗をした大友軍は進路を断たれ、撤退せざるを得なくなった。 この敗戦は義鎮の心境に大きな変化をもたらした。それ以後、毛利軍との戦いは一進一退であり、大友義鎮はこの不安な状態の中で臼杵丹生島に築城、1562年6月から7月にかけてそこに移り住んだ。そして剃髪して宗麟と号した。彼は精神的にまいっていて、剃髪、入道することで心の整理をし、再出発しようとしていた。これから後、禅宗に深く帰依することになる。
博多教会は筑紫惟門の侵入で崩壊し、ガゴはその時受けた暴行が原因で、心痛のあまり日本を去り、日本教会の人手不足は深刻であった。この10年間に発展に続く発展を続けた教会は今ひとつ見直す必要に迫られていた。 トレスは日本の少年を育成することに情熱を注ぎ、寺子屋学校の組織化に向けた。同様にアルメイダは医師と病院勤務の人々の養成に力を注いだ。実際、61年、アルメイダは豊後を去っても病院は存続できた。はやトレスはヨーロッパから宣教師を待つのみではなく、日本人の中で指導者をつくる決意をしていたことは画期的であった。病院、慈善の組、演劇有志、音楽会、葬儀と多方面に教会活動を豊後は伸ばしていた。周辺の地域にも信者の団体が生まれてきていた。しかし、トレスは60年代には別の路線をとろうとしていた。これだけの人手不足があるにもかかわらず、豊後の外に教勢を伸ばすという試みであった。その裹には豊後の教勢は発展しないというトレスの思感と迷いがあった。京都地方にはヴィレラとロレンソ、博多、平戸にアルメイダとベルキオールと四散させた。府内に残ったのは、トレスとダシルヴア、それに若い少年たちであった。そしてそのトレスも豊後を去った。

トレス、横瀬浦へ移る
病院、福祉施設は盛況であり、それらは信徒の手に委ねられ、アルメイダは布教戦線の第一線に発ち、諸国を巡り歩く宣教師となった。フェルナンデスは文法書、日本文典の編纂に努めていた。ダシルヴアは教会学校の責任者であり、典礼を工夫していた。トレスはこれらの人々が働くのを目のあたりにしていた。そして順調にいくように見える豊後の教会を後にして、肥前大村純忠の請いに応じて肥前に行くことを決めた。
「豊後にいるぱあどれトレスは自分がそれに余生をかけることができるような布教事業が開けもせずに時がすぎていくのを見て心苦しく感じていた」(フロイス『日本史』)。一見順調にいっている印象のある豊後教会の中で教会の将来は見えてこないと感じていた。 この中でトレスはあえて大村純忠の請いに答えて豊後を去ることを決意した。
宗麟は宣教師が彼の回宗を望んでいることを百も承知していたが、彼にはその心づもりはなく、また宣教師は彼が好意を見せてくれればくれる程、宗麟の真意を理解することはできなかった。多分宗麟自身も自分が何を求めているのかがはっきりつかみきれていなかった。これから後の数年間は、彼は臼杵に京から仏僧を招き、寺院を建立し、禅の心を求めた。これはトレスが肥前へ去るのと時期を同じくする。豊後の教会は貧しい者の宗教という印象を拭いきれなかった。義鎮を初め、上層階級の人々へは開かれることはできず、貧しい人々への奉仕も事業に追われるのみであり、社会を大きく動かす力とはなり得ないことにもどかしさを感じていた。この時、大村純忠がトレスに来行を願った。しかも有利な申し出もそれについていた。一つの港を教会に与え、それをポルトガル人の自由貿易港にするということであった。トレスは早速アルメイダを送り、間もなく1562年7月か、8月頃、トレス自らが横瀬浦に落ち着いた。こうして日本教会の中心は豊後から肥前へと移った。
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