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掻懐のキリシタン墓群

掻懐のキリシタン墓群

掻懐のキリシタン墓群

キリシタン墓群の一部
臼杵市教育委員会の表示のように、見事な十字架が彫られた2基の墓のうち、左側の墓は、長さ131cm、底面の幅58cm、正面の高さ47cmの蒲鉾型で、もう一つは、総長109cm、幅30cm、高さ30cmの長方形の箱型の伏墓です。いずれの墓にも、名前や洗礼名、没年月日は記されていないが、ともに立派な墓であることから、ある程度の身分のキリシタンであったことが考えられる。また、十字架がはっきりと彫られていることから、キリシタン迫害が起こる前のものであろう。キリシタンが最も盛んであった1600年前後ではないかと想像される。
周囲には「H」字を彫った薄型と円形のキリシタン墓が6基ある。イエスを表す「IHS]の「H」ではないかと推測される。近くの小野家の墓地にも十字や「T]字を彫った9基のキリシタン墓がある。
 

掻懐キリシタン墓群周辺

見事な十字架が彫られている
こちらの十字架もはっきりとしている
2基のキリシタン墓は大分県指定の史跡となっている
中央が蒲鉾型、右が長方形型
臼杵市教育委員会による表示
2基の墓には、このような囲いがある

報恩の集い

大橋寺
1562年に大友宗麟が府内から臼杵の丹生島城(臼杵城)に移ったことにより、府内のキリシタンたちが移り住んで来て、臼杵にもキリシタン教界が誕生し た。1565年には宗麟により海辺の土地が与えられて修道院が建てられた。さらに1580年にはノビシアド(修練院)が設立され、1582年には立派な教 会も建てられた。こうして、ここ臼杵はキリシタンの町として栄えていった。
臼杵市の市街地から野津町に向かう途中に掻懐地区があり、キリシタンが栄えていたこともあって、キリスト教禁教令後も潜伏キリシタンたちが多かったところ である。この地区には、旧暦の10月25日に、住民が臼杵市が一の平清水にある大橋寺に米や野菜を持って詣で、第六世歴道上人に対する報恩感謝の法要を行 う習慣が残っているという。
これは寛文年間(1661年~1672年)の頃、潜伏しているキリシタンの捜索のために行われていた宗門改めの際に、この地区の住民がキリシタンではない かとの疑いをかけられた時、同上人が彼らは自分の寺の門徒であるとの偽りの寺請証文を出して、役人から救ってくれたことに対する感謝と御礼のためだといわ れる。
なお、この大橋寺には宗麟公夫人奈多の墓もある。

掻懐キリシタン墓群への道順

臼杵方面から来ると左手に案内板
この坂を登っていく
途中、このような案内板がある
この鳥居の横の道を右奥へ進む
右手上に墓の囲いがこのようにある

掻懐のキリシタン墓群へのアクセス

所在地 臼杵市大字掻懐字西ノ平2-871

臼杵市街より車で国道502号(臼杵野津線)を野津方面へ約10分。「籠の瀬」バス停に「キリシタン墓入口」の看板があるので、ここを左折し、案内版に従って坂道を登っていくと細い道の先にある。

駐車場:大型車不可、普通車は上に行くほど道幅が狭くなり、車の方向転換ができなくなるので、案内表示の手前の広い場所で車を降りて歩くとよい。駐車は離合できる場所に短時間で。

トイレ:無
 
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