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豊後キリシタン史

豊後にキリスト教が伝えられる

1549年8月15日、聖フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸。鹿児島、平戸、京都、山口に宣教する。
1551年大友義鎮(宗麟)がザビエルを豊後に招く。

聖フランシスコ・ザビエル

ザビエル像(大分市遊歩道公園)
ザビエルはインドに向けて去り、1552年、中国に宣教しようとしているときに上川島で熱病のため亡くなる。同年、ガーゴ神父らが豊後に上陸した。ガーゴ神父は、宗麟から提供された土地に聖堂と修道院を建立。1552年には朽網、高田、敷戸にも信者ができた。

アルメイダの宣教

1555年ルイス・デ・アルメイダ修道士が府内に来る。
1559年トルレス神父を中心に府内で宣教が行われる。
1565年アルメイダ、臼杵に宗麟を訪ね、宗麟は海辺の一地所を与え、修道院や聖堂を建てる。
1569年井田、三重、高田地方に共同体ができた。いずれも武士階級の改宗であった。

ルイス・デ・アルメイダ修道士の宣教

アルメイダ像(大分市遊歩道公園)
イエズス会の修道士であったルイス・デ・アルメイダは府内(大分)で病院や孤児院を建て、「ミゼリコルディア(慈悲の組)」の精神をもって活動をしていた。その病院では貧民が救済され、西洋の外科手術も行われていた。愛徳のある福祉事業、死者を手厚く葬る教会の人々の姿は当時の多くの人々の心を打った。

司祭養成と西洋文化

西洋音楽発祥記念像(大分市遊歩道公園)
伊東マンショ像(大分市遊歩道公園)

豊後の教会全壊

1586年島津義久の軍が豊後に攻め入り、豊後のすべての教会と施設を破壊した。
1587年宗麟、津久見にて病死。享年57歳。

豊臣秀吉の禁教令・宣教師追放令

1587年秀吉が禁教令を出し、大友善統も信仰を捨てた。

府内教区設立と最初の司教たち

1588年教皇シクスト5世は、府内に司教区を設立し、その初代司教にイエズス会のモラレス神父を任命した。しかし、日本へ向かう途中、希望岬で病気になり死亡。
1591年ペドロ・マルティンス神父が司教に任命される。秀吉にあいさつしたが、1597年に26聖人の殉教が起こり、日本を離れなければならなかった。帰路、船上で死亡。
1598年セルケイラ神父が司教に任命される。禁教政策の中、長崎の岬の教会に司教座を置いて16年間日本の教会を統括した。 次にディオゴ・ヴァレンテ神父が司教に任命されたが、日本に入ることができず、マカオにいて日本の教会の歩みを見守っていた。日本司教座は1633年までマカオに置かれた。

豊後初の殉教者

1589年大友吉統は、宣教師追放の命令を出した。 高田教会のジョランと家族を処刑。野津教会のジョウチンも殉教。 ヴァリニャーノ神父とともに戻った遣欧少年使節の一人伊東マンショのとりなしで吉統は回心し、豊後の教会は息を吹き返した。 関ヶ原の合戦の時に吉統は西軍についたため政治生命は絶たれた。

野津のキリシタン

ジョウチンの墓
カクレキリシタン地下礼拝堂
磨崖クルス

豊後南部の教会とアウグスチノ会

1603年関ケ原の合戦の後、稲葉家が臼杵に入封した。 フィリピンよりアウグスチノ会の宣教師が臼杵に到来した。
1604年正式な教会を建築し、「無原罪の聖母」にささげた。 佐伯には領主として毛利高政がいた。
1604年来日したエルナンド・アヤラ神父は、佐伯、日向の延岡にも足を伸ばした。
1606年佐伯に教会を建立、教会は順調に発展した。
1611年津久見にも教会が再開された。野津と志賀に新しく修道院が建てられ、教会も落成した。

加賀山一族の殉教

1619年バルタザル加賀山半左エ門は5歳の息子ディエゴとともに日出で殉教する。

加賀山半左エ門と息子ディエゴ

加賀山半左エ門とディエゴ像
日出殉教公園
日出殉教祭

ペトロ岐部の殉教

1587年豊後浦辺でペトロ岐部が誕生する。
1614年有馬のセミナリヨで学んだ後、マカオに渡り、司祭職を目指す。
1620年11月15日、ペトロ岐部、33歳でローマで叙階。
1630年迫害の日本へ出発、何度も難破しながらも、ついに薩摩に上陸。
1638年長崎、京都、東北の水沢へと活動していたが、賞金目当ての告発により、捕らえられ、江戸に護送される。
1639年穴吊るしの刑を受けていたが、同宿を励ましたため、穴から引き出されて殺された。享年52歳だった。

ペトロ岐部神父

ペトロ岐部神父の像
ペトロ岐部神父の足跡
ペトロ岐部殉教の地(小伝馬町)
 
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