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朽網キリシタン墓

朽網キリシタン墓

朽網地域のキリシタン遺産

 竹田市でのキリスト教の信仰と布教活動は、豊後におけるキリスト教布教の中心的聖地である府内教会設立(1553年)の翌年から始まり、豊後国の中でもいち早く行われました。布教の中心は、かつて「朽網」と呼ばれた現竹田市久住町都野地区から竹田市直入町長湯地区にかけての地域で、16世紀後半に豊後国で最初の教会が建てられたといわれています。1561年、朽網に1ヶ月滞在したフェルナンデス修道士は、この教会について「大きさは現国王(大友宗麟)の宮殿(屋敷)のある当市(府内)会堂に劣らず、これよりも立派なり」と賛辞を送っています。
また領主である朽網氏が布教を容認していたため、信者はまたたく間に増加し、朽網は日本八大布教地の一つと呼ばれるようになりました。現在もこの地域には、「原のキリシタン墓碑」「日向塚千十字架残欠」などのキリシタン遺跡を見ることができます。

原のキリシタン墓碑

大分県指定史跡
竹田市直入町原地区に残される「原のキリシタン墓碑」は、石製の千十字架の最上部にあたり、前面に「INRI」と線刻で記されています。これは、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を意味し、キリストが十字架にかけられたとき罪標に記されていた言葉です。
1562年イエズス会士の書簡に「豊後(府内)より9レグワ(50㎞)の朽網に名をルカスというキリシタンあり、自費を以って甚だよき大会堂を建築し、~中略~石の大十字架を建て、己の死した十字架の下に埋葬せんことを命じたり」とあり、この墓碑はルカスの墓の上に建てられた十字架の上部ではないかといわれています。

朽網のキリシタン墓

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