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豊後キリシタン小史

豊後キリシタン小史

初期布教期

豊後の国にキリスト教が伝えられたのは、大友義鎮(宗麟)の招きによって1551年9月中旬にフランシスコ・ザビエルが来訪したことによる。わずか2ヵ月程でザビエルは豊後を去ったが、翌年、バルタザル・ガーゴら4名の宣教師がインドのゴアから鹿児島を経て府内(大分)に到着、また山口で宣教していた修道士ジョアン・フェルナンデスもやって来た。 1553年に宗麟はガーゴ神父に土地を提供したが、ここから豊後での宣教活動は本格化する。修道院が建てられ、1年ほどで500~600人がキリシタンとなり、2年後には1,500人が受洗したが、「裕福な者は帰依せず、帰依するのは貧窮な病人」だけといった状況であった。
1556年、それまで日本におけるキリスト教宣教の中心地であった山口で戦乱が起こったため、翌年、日本布教長トルレス神父が山口から府内に移り、ここ府内に宣教活動の本部が置かれることになった。こうして、トルレス、ガーゴ、ヴィレラの3人の神父とアルメイダら6名の修道士、合わせて9名が府内に住むことになった。新しい教会や修道院が建てられ、乳児院や府内病院が開設された。さらに「ミゼリコルディアの組」も創設された。
しかしながら、1560年代になると、イエズス会は肥前地方の宣教に力を注ぎ、豊後には司祭が1名だけとなり、低調な時期が続いた。1562年に宗麟が臼杵に移り住んだことにより、臼杵にキリシタン教界が誕生した。
1575年、宗麟の次男親家がセバスチャンの名で洗礼を受けた。この洗礼は、この後の豊後におけるキリシタン発展の導火線となった。イエズス会も再び豊後に宣教師を派遣し、司祭の数は7名になった。

発展期

1578年8月28日、宗麟は臼杵の教会においてカブラル神父からフランシスコの洗礼名で洗礼を受けた。この宗麟の受洗を契機に、キリシタンの数が急増する。ぞれまでは豊後国内で2,500人程度であったキリシタンが、しかもそのほとんどは農民といった地位の低い人たちであったのに対し、2年後の1580年にはその数は1万人を超え、宗麟の家臣たちの改宗も相次いだ。1586年の記録では3万人を超えたと報告されている。こうして、志賀(竹田)、由布院、大在、清田など、各地にキリシタン共同体が誕生していった。宗麟の庇護のもと、豊後キリシタン教界は最盛期を迎えたのである。
また、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父の来日は日本教会の方向を大きく変えた。1579年7月25日に来日した彼は、翌1580年10月5日から20日までの2週間、イエズス会宣教師を集めて臼杵で協議会を開いた。協議の結果、臼杵にノビシアド(修練院)、府内にコレジオ、有馬と安土にセミナリオと日本教会の将来を担う人材の養成機関の設立を決定した。同年にはセミナリオと修練院が設立され、臼杵のノビシアドには最初の12名が入った。コレジオは翌年開設された。ヴァリニャーノは豊後を去る前に『日本の礼法指針』を執筆し、日本宣教のためには教育機関を充実させることと日本の文化に適応してキリスト教化することが2本の柱と考えていた。この方法は多くの身分の高い階級の人々の改宗につながった。
一方、豊前でも1587年のシメオン黒田孝高(加水)の人封によってキリスト教が広まっていった。

停滞期

順調に発展してきた豊後のキリシタン教界も、1587年6月28日の大友宗麟の死によってその大黒柱を失い、また島津軍の豊後侵攻、豊臣秀吉による伴天連追放令の施行、宗麟の長男義統(後の吉統)の改易という出来事を通して崩壊していくことになる。このように崩壊する豊後のキリシタン教界を宣教師たちに代わって支え維持したのは、信徒たちであった。初期布教以来、豊後では信徒による宣教活動が行われていたが、この信徒の活動こそが豊後キリシタン教界の特徴の一つである。
1586年11月の島津軍の豊後侵攻によって、府内のコレジオを除いて他のイエズス会の施設はすべて破壊、焼失した。侵攻直前の10月頃、豊後には46名の会員がいたが、侵攻後に豊後領内に残留したイエズス会員は13名になった。
一方、1587年の秀吉による伴天連追放令を受けて、吉統はキリシタン教界の根絶を表明し、領内からの宣教師の退去を命じたが、キリシタンであった志賀親次の反対もあって、実行できずにいた。しかし、1589年7月27日、親次の留守の間、吉統の命によって高田のキリシタン教界を世話していたジョラン一家が斬首され、また由布院の教界の主要な人物で、野津で教化活動をしていたジョウチンも殺害された。豊後での最初の殉教者である。
さらに、1593年の吉統の改易により、各地のキリシタンを保護していた大友家のキリシタン武士が豊後から離散していった。保護者を失った共同体は弱小化していくことになる。その一方で、豊後に残った者たちはやがて土着化し、その地においてキリシタン共同体の世話役的役割を果たすようになった。なお、1599年のキリシタンの数は約12,000人と報告されている。
豊後が困難にある中で、豊前は平穏であり、教会は順調に発展していた。黒田加水は、弟のパウロ惣右衛門とともに家臣や住民に働きかけ、多くの者をキリスト教へと導いた。

復興期

関ケ原の戦い後、小藩に分立した豊後にはキリスト教に比較的好意的な領主が国入りした。臼杵に稲葉貞道、佐伯には日田より毛利高政、中津に細川忠興、日出に木下延俊が国替えされてきた。竹田は1593年から中川秀成が治めていた。このような領主のもとで、各地のキリシタン教界はその復興を図った。
稲葉領の臼杵では、1603年に2名のアウグスチノ会宣教師が来訪し宣教活動を始めた。また、細川ガラシャの娘多羅が2代目領主典道の嫡子一通の正室として臼杵に来たことにより、彼女の保護のもと、宣教師たちは精力的に臼杵の教会を司牧し、さらに県南、延岡へと足を運んだ。こうして佐伯、延岡に、そして1611年には津久見に教会が建てられた。
また、府内高田でも1607年に修道院が開設され、7~8名のイエズス会員が派遣され、豊後全体のために活動した。 1611年には野津と志賀にも修道院が開設されてそれぞれ司祭1名が常駐した。
しかしながら、1600年代における豊後のキリシタン教界では、1580年代前半に見られたような教勢の拡大・信者の増加は少なく、どちらかといえば教会の維持に努めていたという感がある。それは、豊後内に定住する司祭が少なく、巡回という形での宣教方法が取られていたからかもしれない。
一方、豊前の方では、黒田氏の後に入った細川忠興のもと、特にキリシタン武士加賀山隼人の働きによってキリシタンの教勢は伸びていった。最盛期には信者数3,000人を数えた。

迫害と殉教期

1614年の徳川幕府による禁教令によって、それまでキリスト教に好意的であった藩主も反キリスト教政策に転じた。豊後にいた宣教師は皆長崎に追放された。豊前では細川忠輿が領民から転び証文を徴集した。中津と下毛郡で200余名のキリシタンが転び、由布院では733名が転宗した。
キリシタンに対する弾圧も開始され、多くのキリシタンが殉教していった。まず、1614年に竹田領でベント、ミゲルとリノ兄弟そしてミゲルの妻マセンシアの殉教が相次いだ。 1618年には中津領でミゲル土橋をはじめとする12名が殉教した。日出領内では1619年にバルタザル加賀山半左衛門親子が斬首された。稲葉領内でも1624年に種具の宮崎新右衛門リアンと3人の息子が殉教し、1625年には府内領高田の看坊オルガンティーノ葛木半笑夫妻が火刑となった。
このようにキリシタンへの迫害が増す中、1617年にイエズス会日本管区長コウロスが全国75ヵ所のキリシタン教界の指導的立場にある者からの証言を集めた、いわゆる『コウロス徴集文書』に臼杵5名、由布院6名、野津12名、高田31名、日出8名、府内6名、清田17名、種具と丹生25名、南部(直入)6名、中津17名が署名しており、その総数は133名にも上る。禁教下にあっても、まだ各地にキリシタン共同体が存在していたことが分かる。
彼らキリシタンの世話に当たるため、イエズス会は日本に残留した司祭を地域に分けて派遣する方式をとった。豊後にはペトロ・パウロ・ナヴァロが留まり、フランシスコ・ボルドリーノとともに各地を巡回した。豊前を巡回したのは中浦ジュリアンであった。しかし時代とともに、キリシタン詮索は厳しさを増し、巡回は困難を極めていったが、1626年までは確かに司祭が巡回したことが知られている。

潜伏期

司祭の豊後・豊前巡回が行われなくなり、豊後と豊前のキリシタン史は完全に潜伏時代に入っだ。豊後と豊前の教会について、これ以後の30年間の消息を知ることはほとんどできない。
絵踏みや褒賞訴人制度及び寺請制度により、キリシタン詮索は厳しさを増していった。そして島原の乱(1637-8)後、幕府は宗門改役を設置し、全国的な宗門改めを行って潜伏キリシタンの摘発に乗り出した。オルガンティーノ葛木半笑のようなキリシタン共同体の指導的人物を失った豊後の潜伏キリシタンたちは、声をひそめてその制度に従ったと思われる。彼らの名は宗門改帳に確実に記載され、官憲の監視と統制の下におかれたことは確かである。
1657年、肥前大村藩領内の郡村を中心に608名にも上る潜伏キリシタンが大量検挙された(「郡崩れ」と呼ばれる)。新しく幕府の宗門改役となった北条安房守政房は、諸藩へ厳しく宗門改めを行うよう命じた。 1660年、府内領内の葛木村で潜伏キリシタンの摘発があり、以後1682年まで3度にわたって、500名以上の潜伏キリシタンが検挙され、長崎へと送られた。いわゆる「豊後崩れ」である。
1664年には、幕府は諸藩に対して宗門改役を置くこと、そして宗門改めを毎年行うことを命じた。こうして潜伏キリシタン検索は一層厳しくなり、またキリシタン類族書によって特別の監視下におかれたことにより、これ以後の豊後における潜伏キリシタンの動向を知る手がかりはない。

オルガンティーノ葛本半笑の殉教

大友宗麟の家臣であり葛本の領主であったオルガンティーノ葛本半笑(葛本丹州とも言われる)は、1580年頃、宗麟の勧めでキリシタンとなった。大友吉統の改易により彼の領地も没収されたが、宣教師たちは徳と学識の深さから半笑を高田(葛本)のキリシタンたちの責任者に選んだ。こうして彼は、豊後における最初の殉教者ジョランの後継者として、高田の教会の看坊として働くことになった。以後、1624年に殉教するまで、35年の長きにわたって高田のキリシタン教界を世話することになる。このことについて、イエズス会の1625年度日本年報の中で半笑が看坊として高田の教会を世話していたと報告されている。また、1617年にイエズス会日本管区長コウロスが、迫害下にあってもイエズス会士が潜伏しながら司牧活動していることの証言を全国の主なキリシタン集団から集めた文書、いわゆる『コウロス徴集文書』(8ページ参照)の中で、高田の教会の筆頭に「Cazzuraqi Fanxo Orgaotino 葛木半笑 ほるかん」という名前が出ている。
さて、府内藩主竹中重義(後に長崎奉行に大抜擢される)は、町奉行の告発を受けて、オルガンティーノ半笑とその妻ルチアを捕らえて尋問したが、いかなる脅しにも屈しないので、餓死刑を言い渡した。牢獄の中で、ある夜、半笑は夢を見る。それは有馬で火あぶりになったペトロ・パウロ・ナヴァロ神父とビンセンシオ・アントリュタ神父が現れて、パライソ(天国)での再会を約束する夢だった。4日間の断食により体が弱くなってきた半笑は、果たしてこのまま食べないで死ぬ方がよいのか疑問がわいてきたので、巡回中のコスタ神父に問い合わせた。同神父は食べることを助言した。そこで2人は食べて元気を取り戻した。牢獄で餓死しなかった半笑夫妻は、重義の命により、牢獄から引き出され、背中に罪状書を縛り付けられて市中引き回しのあと、夢で見たとおり、府内の浜辺で火あぶりによって殉教した。 1624年8月26日のことであった。半笑76歳、妻ルチア60歳だった。
 
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