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神学生ニュースレター【1/5更新‼】

神学科一年 山頭牧夫

2022年 メッセージレター1月号

明けましておめでとうございます。常日頃、物的・霊的に支えて頂き本当にありがとうございます。足りない所だらけの私ですが、今年もご指導のほどよろしくお願いします。
 さて、使い古された表現ではありますが、新年の計は元旦にありと言われます。私も遅まきながらこの一年の計画を立てようかと思います。そして計画を立てる際には、必然的に目的が必要になるでしょう。「何を目的にしようか?」  すぐには浮かんできませんでした。「自分の欠点は、変えようとした結果、本当に変わったか?」このような思いがよぎったためです。新年早々、暗い気分になってしまいましたが、自分に縁のある一冊の本を読むことにしました。ちょうど神学校からの課題の一つにもなっていたので良い機会でもありました。
 一人の聖人についての本を読みました。これまでは、聖人のエピソードでは超人的な部分や活躍が目に付いてきたのですが今回は少し違いました。聖人の失敗、弱さ、悩みの部分が自分の心に響いてくるのを感じたのです。皆が尊敬する偉大な聖人でも、もがき苦しんで生きていったことは大きな支えになるような気がしました。聖人も一人の人間であり、決して完成された存在ではない。つまり、彼らにおいても人間的な成長があったです。どんな段階の人間にも成長があり得ることを、この聖人は教えてくれたように感じます。
 これに加え、お世話になっている神父様から励ましの言葉を頂きました。私が全く進歩していないのではないかと、こぼしていた時にかけて下さった言葉です。
「弱い部分は大きくは変わっていかないかもしれない。けれど、良い部分がその弱さを包みこんでいく。出来ない事よりも、出来ることに目を向けてはどうか。」
どうしてもできないことに目が行きがちな自分でしたが、少し救われたような気がします。自分の出来ることから、自分の渡せるものをお渡ししたく思います。たいしたものは持っていないので、自分の持っている時間をお渡ししようかと思います。必要だと思ったことに時間を使いたく思います。そして、皆さま何か必要なことがありましたら声をかけて下さい。出来るかどうかはさておき、協力させていただきます!これを私の新年の計、目標としますので、どうぞ私で良ければお使いください。
 そしてこのような私ですが、この新しい一年でも支えて頂けますようお願い申し上げます。微力ではありますが、皆様のため、そして病床におられる田口神父様の為にお祈りさせて頂きます。

幸 真宏 助祭

グアダルーペの聖母像
    グアダルーペの聖母像

グアダルーペの聖母 (記念日、12月12日)

 

 待降節に入りました。カトリック教会では、無原罪の聖マリアの祭日(12月8日)、降誕祭(クリスマス)と、大きな祝祭日が続きます。12月は師走(しわす)ともいいますが、年末年始に向けて忙しい時でもあります。また、今年の12日は待降節第三主日ですが、本来なら「グアダルーペの聖母」の記念日を祝います。どのような聖母の日なのでしょうか?

 

メキシコにご出現した聖母

 1531年12月初旬のある土曜日、フアン・ディエゴというインディオは、要理教育のクラスを受け、ミサに参加するために、住んでいる村から朝早くにメキシコ・シティへ向かっていました。テペヤックと呼ばれる丘に着いた時は、すでに夜明けで、自分の名前を呼ぶ声が聞こえました。丘のてっぺんに行くと、太陽のように明るい服を着た、この世の人とは思えないほどの美しい女性がいて、非常に親切で丁寧な言葉で彼にこう言いました。

 「わたしは、聖母マリア、真の神の母です。わたしは、この地に、聖母に捧げられた聖堂が建てられることを切に望んでいます。そうすれば、この地に住むすべての人、そして、わたしを呼び、信頼するすべての人々に、わたしのすべての愛、あわれみ、助け、保護を示し、与えることができるでしょう。あなたの司教のところに行って、わたしがこの丘に聖堂を建てたいと思っていることを伝えてください。

 そのことを司教と話し、村に戻ったファン・ディエゴは、別の日に、聖母と再び会い、起きたことを説明しました。この時、メキシコの初代司教で、フランシスコ会士だったフアン・デ・スマラガ司教はファン・ディエゴのメッセージを聞いて、聖母が神の母であり、聖母のために聖堂を建てることが、真の望みであることを証明するためには、何かしるしを与えるように、聖母に伝えに行くべきだと言いました。聖母は、次の日にもう一度、司教のもとに行き、メッセージを繰り返し伝えてほしいと頼みました。

 帰り道、ファン・ディエゴは聖母と会い、その一件を話しました。聖母は、翌日同じ場所に戻ってくるようにと命じました。次の日、ファン・ディエゴは、叔父のファン・ベルナルディーノが重い病気にかかっていたため、丘に戻ることができませんでした。12月12日の早朝、ファン・ディエゴは危篤に陥った叔父のために司祭を探しに急いで出発した。聖母に会う予定の場所に到着すると、急いでいたので、彼は聖母と会わない別の道を通ることを選びました。その時、突然、聖母が現れ、どこに行くのかと聞いてきました。

恥ずかしそうにフアン・ディエゴは事情を説明しました。聖母は彼に、「心配しないで、わたしはあなたの母です!叔父さんは死なないし、すでに良くなりました」と言った。そして彼は、スマラガ司教に持っていくためのしるしを求めました。聖母は彼に、丘の上に行って新鮮なバラ(メキシコでも12月にバラは咲きません)を見つけるようにと言い、ティルマ(メキシコのマント)に、できるだけ多くのバラを取って入れ、スマラガ司教のもとに持って行きました。これだけでも奇跡ですが、まだ大きな奇跡があります。

スマラガ司教の前で、フアン・ディエゴがティルマを広げた時、たくさんのバラの花が落ち、ティルマには今日、「グアダルーペの聖母像」として知られる絵が描かれていました。これを見たスマラガ司教は、感激し、涙を流しながら、聖母を疑ったことの許しを願いました。そして、ティルマを教会に運び、フアン・ディエゴが示した場所には大聖堂を建てました。後に、フアン・ディエゴは聖人に列聖されました。

 

世界的にも熱心な信心

 今日でも、メキシコを含む中南米では、グアダルーペの聖母は非常に熱心に崇敬されていて、グアダルーペの聖母から恵まれた奇跡はたくさん確認されています。あるメキシコの友人によれば、「メキシコ人は90%カトリックだけど、100%がグアダルパーノ(グアダルーペの聖母を崇敬する人々)です!」といわれ、宗派宗教問わず、いろんな人が12月12日に大聖堂に集まり、熱心に祈っています。歴代の教皇様たちも、グアダルーペの聖母を「全アメリカの母」として認め、巡礼にも来られました。

 わたしがいたスペインの国際神学院では、メキシコ人の神学生たちが多かったため、この記念日は盛大に祝われました。メキシコらしく、明るく陽気な、聖母賛歌を歌い、ミサも荘厳に捧げられました。今でも、この日になると、一緒にお祝いをしたことを鮮明に思い出されます。

 

マリア様が、聖フアン・ディエゴに言ったように、マリア様はわたしたちの真のお母さまです。聖母の保護のもと、イエス様をお迎えするための良い準備が待降節中にできますように、そのお恵みを願いましょう。どうぞ、素敵な12月をお過ごしください。

 

 皆様の、お祈りとご支援をよろしくお願い致します。

 メキシコ人神学生たちと筆者(右端)

キング・オブ・キングス ―王であるキリスト―

キング・オブ・キングス ―王であるキリスト―

 

 童話や昔話では、「良き王様」「良い殿様」が度々登場します。民衆からも慕われ、公明正大に裁きを行い、徳の高く、理想的な人物として書かれています。一方では、「悪い王様」も登場します。これは、まったく正反対の王様で、誰からも慕われず、独裁者としてふるまっています。人間の歴史を見ると、善良な統治者よりも、悪の独裁者の方が顕著に見えます。一言で言えば、「王」とか「殿様」は位の高い人というイメージを持っていますが、わたしたちの主イエス・キリストは「王の中の王」として、来られます。

 

 今日の福音朗読では、逮捕されたイエス様が総督ピラトの前で尋問をされている場面から始まります。ピラトの考え方と問い方は、終始政治的な見解です。ピラトにとって宗教的なテーマよりも、イエスがローマ帝国にとって害をなす存在なのかが重要でした。ユダヤ人たちが、「ユダヤ人の王だ」と、自称したということで尋問しているのですが、ピラトはイエス様の態度にあまりピンと来ていません。彼はイメージしていた「王」からあまりにかけ離れていたからです。『パッション』というキリストの受難を描いた映画がありますが、ピラトに尋問を受けた時のイエス様は、神殿の衛兵や律法学者から痛めつけられ、すでにボロボロでした。そんなイエス様を、ピラトは王とは思いきれず、ただの「宗教的な先導者」としか捉えていなかったのです。

 

 こういう見方は、現代でもたくさんあります。むしろ、キリストのよる支配を良しとしない人の方が大勢います。教会の中でさえ、それが見られます。「事実、舌で冒涜する人はあまりいない。しかし、その行いをもって冒涜する人々のなんと多いことか」(聖アウグスティヌス『ヨハネ福音書についての注釈』)。もしくは、十字架像を見て、「この人が王なものか!」と、感じる人も多いと思います。彼らにとっての疑問は、「なぜ、王が十字架にかけられることを良しとしたのか?」「悪いことをしなかったのに、なぜ死に至らなければならなかった?」です。これは、もっともな疑問だと思います。人間的に見ては到底理解できないことですし、受け入れがたいことです。キリストがわたしたちの罪ゆえに、十字架上で犠牲となられたということを、信仰によって受け入れなければなりません。ヨハネの黙示録で、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」と、あるように、旧約聖書でも、牛の血を振りかけることで、浄めが行われていました。今でも、教会は、血ではありませんが、聖水によって浄めを行います。キリストは御自身を犠牲にすることで、わたしたちに救いをもたらされました。キリストによる統治は、政治的な権力、戦争によるものではなく、救いによります

 

 第一朗読のダニエルの預言では、「人の子」が来て、「彼の支配はとこしえに続く」と、ありますが、そのようにキリストも決定的な瞬間に来られます。わたしたちは、ミサ聖祭の中では、特に、「信仰の神秘」、「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで。」と宣言しているように、キリストの来臨を待っています。ですが、イエス様ご自身がお話になったように、神の国は、わたしたちの中、つまり、心の中にあります。その国は、真理と正義、聖霊における平和と喜びであり、人が救われ、歴史が完成されるとき頂点に達する神様の働きです。イエス様に心を任せれば、わたしたちは奉仕をする人になれます。奉仕をすることで、イエス様を知り、愛し、隣人にも知らせ、彼らがイエス様を愛するようにすることができます。普段の生活の中で、キリスト者として言葉と模範で示し、何をするにしても、「神様のため」に働くのです。勉強、仕事、家事や育児など、あらゆる場所で証を立てることが求められています。

 

 王であるキリストとともに、忘れてはいけない方がいます。聖母マリアは、天の女王、この世とあの世で最も美しい、天のお母さまです。マリア様も地上にいる間、ご自分の場、ナザレにおける家庭生活、そして御受難の時に、力強く信仰を証しされました。聖母の取次ぎのうちに、神の国のために働く恵みが与えられますように願いましょう。

 

 どうぞ、皆様のお祈りとご支援を今後ともよろしくお願いいたします。

神学科一年 山頭 牧夫

12月号

 皆さま、朝晩の寒さも本番を迎え始めた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?こちらはおかげさまで元気に過ごさせていただいております。神学校では神学院感謝祭が執り行われました。これは常日頃、神学院に物的・霊的に支援をして下さる皆さまに何らかのお返しをする機会となっております。九州管区の司教様方、そして大分からは田口神父様がいらっしゃって下さり、感謝のミサを捧げました。例年でしたら、支援して下さる方々をお誘いして、神学院でささやかながらおもてなしをしておりました。しかし、感染症の事を鑑みて大人数で集まることは難しいとの判断が下りました。一日も早くこれまで通りに皆で集まることができることを祈る次第です。 

 話は変わりますが、今年も気付けばもう暮れになっていることに驚くやら、呆れるやらと言った思いです。ついこの前、新年を迎えたような気がしたのに… 果たして私は成長しているのか、不安になることが多々あります。昨年亡くなられた浜口司教様が、心配されないように目の前の課題には取り組んでいるつもりではあります。けれど目に見えて成長を実感することはそう多くはありません。

 それよりも、自分と誰かを比べて自分の足りなさに焦りを感じることの方が多くあります。自分の先輩には霊的な部分で差を感じ、自分より年下の同級生には学びの進め方に差を感じ、後輩には柔軟な発想の点で後れを取っているように感じます。自身の努力が足りてないことが大きな原因であることは分かってはおりますが、差が広がっていくような感覚はなかなか堪えるものがあります。

 特に決定的に感じたのは、友人と連絡を取った際の話においてです。仕事のことでかなり大変な思いをしているとの事で、励ましていたつもりでした。けれど、途中から友人の口から出た言葉は私を驚かせました。彼は自身が大変な状態にある中で、彼の子供たちの将来のことについて心配をしていました。自身の困難よりも、子供のことを優先して考える彼の姿に、私とのレベルの違いを見せつけられる思いでした。「敵わない。」正直にそう思いました。友人の人間的な成長からみたら、私は止まっているようなものではないのか?

 

 理屈では分かっています。人と比べてはいけない。比べるからこそ、悩むことになる。比べることで相手を自分より劣ったものだ、正しくない存在だと裁く危険性も生まれる。

その通りなのですが、どうしても見てしまう。比べてしまう自分がそこにいるのです。

私が出来ることは、自分がいま出来ることを大事にしながら、祈るだけです。このような私でもうまく使って下さることを信じます。

 さまざまな過ちを犯しながらも、私を赦してくださり、御子を遣わしてくださった神様の恵みを信じます。私に確かなものはこれしかありません。

 そして、このような私をいつも支えて下さる皆さまに心からの感謝を伝えたく思います。いつも、本当にありがとうございます。これからもご支援よろしくお願いいたします。

神学科一年 山頭 牧夫

11月号ニュースレター「院内教話」

 何かを形にするには大きなエネルギーが必要だと感じることがありました。

 私が応援する、とあるプロ野球チームがあります。いつも強いチームだとはいいがたいのですが、そんなチームがどうにかリーグ優勝という結果を形にする事ができました。

 さて、この結果を出すためには何が必要だったのでしょうか。様々な要因があるとは思いますが、自分たちを信じて、勝つための努力をひたすら続けた。この事に尽きるのではないかと思います。

 典礼歴の終わりを迎えるこの時期の福音の中で、イエス様は気を落とさずに絶えず祈るように、絶えず神様に求め続けるように言われます。絶えず行う、これはつまり良い時も、悪い時も続けていく必要があります。他者から文句を言われたり、『もう嫌だ、もうだめだ』と自分でも嫌気がさす事だってあるかもしれない、それでも続けた先にその行いの結果、実りが生まれるのだと感じます。

 先日、七人の新司祭たちが集まって初ミサを神学校の聖堂で捧げてくださいました。絶えず祈り続け、イエス様を信じて自分を捧げる決断を行った先輩方がそこにはおりました。これは、本人たちだけではなく、支えてくれた皆の助け、祈りが生んだ実りと言えるでしょう。

 繰り返しますが、イエス様は絶えず祈るように言われます。祈りは神様とのやりとりと言えます。神様からの呼びかけを聞き、応えていく必要があるのです。私たちが求める以前から、神様は絶えず行い続けられています。私たちが救われるのを望んで叫び続け、恵みを与え続けておられます。その最たるものがイエス様です。

 イエス様が言われるように、絶えず祈りながら、神の恵みに信頼して新たに歩んでまいりましょう。

 私たち神学生に向けての霊的・物的な支援いつもありがとうございます。微力ではありますが、私もお祈りさせていただきます。

 

金 建

6/13(日) 年間第11主日 マルコ福音書4章26-34節について 

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土にくときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:30-32

                             
 イエス様は「からしの種」を「神の国」にたとえ、聞かせてくださいました。神様は毎回、毎日、いつも、永遠に私たちと繋がっていらっしゃいます。私たちは、自分の日常は平凡で代わり映えのしない日常だと思うかもしれませんが、その中でも神様は美しい愛として近づいて来られます。私たちはその愛に、信仰をもって応えなければなりません。しかし、愚かな私たちは、神様を仰ぎ見るのではなく、世俗的な誘惑のみを見てしまいます。世界の全てのものを抱いている神様を感じず、自分の欲と利己心を満たすものだけを慕っているのです。
 
 蒔かれた種が自分で育って実を結ぶように、私たちが感じる前に神の国は私たちに近づいているのですし、近づいたのです。いつも神様は私たちと一緒にいらっしゃいます。
 からしの種というのは、小さすぎて些細なものに見えるのですが、時間が経つと、鳥が巣を作り、子鳥を育むことができるほど大きな木になります。このように、小さくて些細なことしかないと思われる私たちの日常の中に、私たちが到達すべき神の国がすでに完成されているということを伝えるたとえ話だと思います。
 
 神の国に入るためにはどうやって進めばよいでしょうか。「いつかは私の順番が来るはずだ」と思いながら漠然と待っているだけ。そういう甘い考え方は良くないです。
 今、つまり現在、毎瞬間、神の愛を受けているすべての時、神から授けられた愛に報いる気持ちで、私たちと繋がっている周りの人すべてと愛をもって関わりながら、神の国を建ていかなければなりません。(頭では分かっていても、実践していない僕ですが)実践せずに「次にやろう」という考えだと、これ以上ないほどの大きな後悔のみが残されるでしょう。
 
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