本文へ移動

神学生ニュースレター【10/3更新‼】

神学科一年 金 建

ニュースレター10月号

私にとって、私たちにとってのご聖体とは

皆様にとってご聖体とは何でしょうか。どのような意味をもって心に迫り、心を響かせるのでしょうか。

先週、那須町(栃木県)のトラピスト修道院で黙想会がありました。黙想会は淳心会(スクート会)のガクタン司教様の指導のもとで行われました。司教様は講話の中で古代イスラエルからイエス様に至るまで数多くの先祖の名が記されたイスラエルの系図を唱えてくださいました。

 わたしはこのことを通して自分自身の召命をもう一度新たに感じることとなりました。(お祈りや念祷、そして素晴らしい説教によってだけではなく、ただ歴史の系図を見て聞くことだけによっても心に響くものを感じました。そのようなことは初めてであったので、不思議な気持ちでした。)たとえその名が聖書ではたった一度しか言及されていない名前だとしても、その名によって、イエス様が生まれるまでに多くの犠牲がささげられてきたことを知ることができただけではなく、その犠牲によって耕されて建てられたイスラエル王国の威厳をも感じられました。

そして、私たちを救ってくださるために十字架につけられたイエス様の復活の神秘、続いて、イエス様が建てられた教会の初代継承者である教皇ペトロから現在の教皇フランシスコに至るまで、その長い歴史の中に連なる数え切れない司教、司祭、聖人、殉教者など。私もその中の一員になりたいと思い、決心しました。イエス様の御体、イエス様ご自身であるご聖体を大切にお捧げしたいです。

私たちは、イエス様の救いの(わざ)を知り、恵みを受けながら永遠の命に向かって生きているのです。それゆえ、私たちは、毎日或いは主日ごとに受けているご聖体を通してイエス様がいつも共におられることを感じ、一日一日を感謝しながら生きることができると言えます。

9月号 「奉仕しに行く道」

 数年前のことです。私が韓国にいたころ勤めていた会社の先輩が経験した話です。先輩が聞かせてくれた話をまとめてみました。もちろん、その先輩は韓国人です。

ある日、先輩は初めて障がい者福祉施設にボランティア活動をしに行くことになりました。元々社会福祉に携わる仕事に夢を持っていた彼は「楽しく真面目に奉仕して帰ろう」という決心とともにどきどきする気持ちで自分の車に乗って、鼻歌を口ずさみながら施設へ向かいました。

 しかし、出発していくほどなく彼の機嫌(きげん)が損なわれることになりました。その原因は彼の車の前をあまりにもゆっくり走行(そうこう)する自転車でした。道幅(みちはば)は狭かったのですが、自転車に乗っていた人は後ろに車がいるかどうかは全く考えていない様子(ようす)で、しかも、横に避けてほしいと願う車の運転手の気持ちは完全に無視しているように、止まったり、ゆっくり行ったりするばかりでした。でも、その先輩も本当に優しい人でしたので、初めは「まあ、私は急がなくていい、しょうがない、大丈夫」と思いながら、ゆるす気持ちで自転車の速度(そくど)と車の速度を合わせながら進んで行きました。

 けれども、それが何回もずっと繰り返されたので、忍耐力の限界が来ました。先輩は聖人ではないのです。クラクションを()らしながら、(ののし)るような言葉を言い放ちました。それなのに、自転車の人は、それをものともせず、ただ、前だけを見ながら走って行くのみでした。結局、先輩はあきらめました。「私の良い気持ちがあの人のせいで全て崩されてしまった。憎たらしい。こんな気持ではボランティアは無理だ。もう帰ろうか」とのような思いにまでなりましたが、でも「我慢しよう。せっかくだから、行こう」とすぐ心を改めて道に沿って行くことにしました。

しかし、何か不思議でした。先輩と自転車はずっと同じ道を進んでいたのです。「なぜ、ずっと私の前をふさぎながら、走っているのだろう。わざとなのか」と思うと、心を改めたことが無駄になりました。先輩はまた腹が立ちました。ちょうどまた罵り声をあげようとしたところで、自転車と先輩は先輩の目的地である障がい者の福祉施設に並んで到着しました。

 そうです。自転車に乗っていた人はその福祉施設に住んでいる高校生(こうこうせい)で、聴覚(ちょうかく)に障がいを持つ人でした。彼はただ、家へ帰る道で]、人にも動物にもぶつからないように、気を付けながら自転車で走っていただけでした。音が聞こえないから普通の人より気を付けなければならなかったのでしょうね。もちろん、後ろから車がついて来ていたことにも気付けなかったそうです。先輩は「私は目に見えることだけ見て、自分のことだけを考えて、人のことは全く考えていなかった。そんな自分にがっかりだ。反省する。」と言いました。

 私たちは他の人の心を察することなく自分が見ていることだけを見て、自分が見たいことだけを見ながら勝手に判断しているのかもしれません。そのような行為は結局、良くない結果をもたらします。そして、後で後悔(こうかい)するのも自分ですし、傷つくのも自分自身ですね。

イエス様はそのような人たちのせいで十字架につけられました。しかし、むしろ、そのような人ですらゆるしてくださり、愛してくださいました。私たちの傷も罪も(ふところ)に抱いてくださいました。昨日、今日、明日、毎日の福音を読んでイエス様の愛と復活の神秘を再び感じて顧みます。

「天のみ国を宣べ伝えなさい。悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」この短い御言葉の中にもどれほど多くの意味のイエス様の愛が込められていることでしょうか。その頃のイエス様から今の私たちに与えられたものは何でしょうか。自分の過ちを認めて、反省して、人の心を真に受け入れたら、私たちは一日一日、もっと大きく実を結んで、イエス様の愛を実践することができると思います。

神学科二年 山頭牧夫

10月 ニュースレター

 窓を開けたまま寝てしまい、危うく風邪をひきそうになった今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか。季節の変わり目ですので、体調には気を付けたいものですね…

 先日、東京の大神学校との交流会が三年ぶりに行われました。見知った顔が叙階を控えていると聞き、わたしも司祭召命の道を少しずつでも進んでいたことを実感させられます。

 また、交流会中には東京大神学校、イエズス会、コンベンツァル会、神言会、サレジオ会の神学生も集まりました。総勢70名でのスポーツ交流、皆で声を出して唱える晩の祈りでは、「同じ思いを持つ仲間がいること」を実感させられ、大きな励みになったように感じております。日程中に行われたシノドスの歩みについての研修会を含め、本当に良い時間を過ごすことが出来たと感じました。

 これらの体験が出来たのは、皆さまの日頃のご支援によるものです。いつも霊的・物的に支えて頂き本当にありがとうございます。

 さて、交流会に引き続き年の黙想を3グループ(伊万里、静岡、那須)に分かれて行いました。私は静岡の浜名湖周辺にある、三ケ日という場所で、北海道の勝谷司教様の指導の下で黙想会に参加しました。

 司教様には数々の経験に基づく話をしていただきましたが、その中で特に印象深かった話を分かち合いたく思います。主題は、他者とどう関わるべきかについてでした。もちろん出来ることならば、良い関係を築きたいと思うはずです。最初から、相手と争いながら関わりたいと思う人はいないでしょう。

 けれど、中には上手くいかないケースも存在します。思ったように相手が動いてくれないこと、聞く耳を持ってくれないこと、最初は出来ていた我慢が限界を迎えてしまう事もあるかもしれません。こんな時にはどうしたらよいのでしょうか、怒りたくなる、文句の一つでも言ってやりたくなるでしょう。

 しかし、同時にこのような疑問も私に生まれました。怒ってしまう事、思いついた文句を相手にぶつけてしまう事は、果たして正しいことなのだろうか?

 司教様はこの問いに関して、答えてくださいました。「怒りや文句がそのまま人に向かってしまうなら、悪い結果をもたらす事がある。けれど、その怒りや文句を、神様やイエス様の所に持って行ってみて下さい。それはあなたの心からの叫び、祈りになっていきます。自分の心にあるものを、神様の前で我慢する必要はありません。」

 これは私にとって新しいものの見方でした。自分の自身の思いが果たされていなくても、自分の思いが正しくなかったとしても、神様は私たちの思いを聞いてくださいます。そして、イエス様は私たちと一緒に苦しんでくださいます。「なんで!」「どうして!」と感じる時にこそ、自分の叫びを受け止めてくださる方の事を思い出してみるのはいかかでしょうか。

9月号 ニュースレター

 ようやく朝晩は、段々と涼しさを感じるようになってきたこの頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか。神学校から長い間お借りしているスータンが、分厚く、丈夫につくられていることを痛感させられる時期もあと少しで終わりそうです。

 また、私事で恐縮なのですが25年来のイベントを達成することが出来ました。それは久住の登山です。当時の小神学校は浜口院長神父様が就任されており、GWに小神学生を連れて色々なとこを回られていらっしゃいました。その中で久住登山が計画されていたのですが、私は部活動をやっていたために参加できなかったのです。この登山が四半世紀を超えて実現したことに、感慨深さと、少々の不思議さを感じました。

 その道中は、新しい発見や驚きの連続でした。スタート地点の長者原では、夏の朝だというのに肌寒い位の気温で、普段とは違う所に来たということを実感しました。

 そして、山のスケールの大きさには最後の方まで驚かされました。それは私の持っていた登山のイメージは、傾斜を登り続けるだけだった為です。

 しかし、今回はそうではありませんでした。傾斜を登った先には、広い場所が開けておりました。雨が降ると一帯が池になってしまう場所、広大なキャンプを張る施設、大きな山小屋、温泉、海の浜辺のような砂地が広がる場所。山を登っていくと、先のような風景が私を待ち構えていました。その雄大さ、その美しさに驚きつつ、一向に頂上が見えてこない事に、恐ろしさすら感じました。

 実は途中で帰ろうかとも思いましたが、頂上から見えた景色はそれまでの苦労や不安を吹き飛ばすほど、美しかったことを憶えています。

 そして連れて行って下さった森山司教様の言葉を思い出します。「山に登る最中は、余計なことを考えなくなる。」 確かにその通りでした。ひたすらに目の前にある山に、登ることだけを思っていました。そこにあることだけに、集中していたように感じます。

 少し話は変わりますが、聖書の中でも山に登る個所が頻繁に出て来るように感じます。

有名な場面だけを見ても、シナイ山に登ったモーセ、主の変容の場面、山上の説教、そしてイエス様が祈りを行う際にも山に登っておられたとの記載があります。(ルカ2239)

このことから、大事なことを為す時や、神様との対話を行う時には余計な事を入れるべきではない事が分かります。「ただひたすらに、目の前にある大事なものに向かうこと」

 山に登ること、祈ることには接点があるのかもしれませんね。久住登山、とても良い体験になりました。連れて行って下さった森山司教様、本当にありがとうございます!

 そして、このメッセージを読んでくださっている皆様、いつもありがとうございます。夏休みも終わりに近づき、またしばらく大神学校での生活が始まります。皆さまから頂いた応援を持って、後期の神学校生活の励みにしたいと思います。霊的・物的にありがとうございます!それではまた、クリスマス休暇にお会いしましょう!

幸 真宏 助祭

News Letter 6月号

    聖ヨセフと幼子イエス

Happy Father's Day!!


読者の皆さん、こんにちは。一か月ぶりです(^^)

気温も夏らしくなってきました。だんだん蒸し熱くなって、プールと海に飛び込みたい時期になって参りました。私が小さかった頃、よく家族と田ノ浦ビーチや市営温水プールなどに行ったものです。いつも、父が車を運転して連れて行ってくれました。あの頃は、「ありがとう」の言葉一つも言わなかった気がしますが…何事も「当たり前」のようになってしまうと、感謝の念が薄れてしまうものです。その日々の感謝を忘れないためにも、今月19日の「父の日」は大事な日なんだなと思います。


「父の日」の発案者は、アメリカのジョン・ブルース・ドッド夫人(ソノラ・スマート・ドッド)です。1909年、母の日についての講話を聞いていたとき、父の日も祝うアイデアが彼女の頭に浮かびました。彼女の実父であるウィリアム・ジャクソン・スマートは、若くして妻を亡くした後、ドッド夫人と彼女の5人の兄弟を育てあげました。ワシントン州東部の農場で、この父親が払った英雄的な犠牲は、世界中の父親の知られざる行いを思い起こさせるものでした。ドッド夫人のアイデアは、教会でも認められ、YMCA(キリスト教青年会、キリスト教主義に立ち、教育・スポーツ・福祉・文化などの分野で様々な事業を展開する、150年以上の歴史を持つ世界的な組織)でも宣伝されました。「Y.M.C.A」といえば、日本では西城秀樹の「YOUNG MAN」が有名ですね(笑)。そして、1924年には、この習慣は全米に広がり、カルヴィン・クーリッジが父の日を支持する最初の大統領宣言を行いました。それから約50年後の1972年、ニクソン大統領は、6月の第3日曜日を「National Day of Observance」として、世界中の父親を称える祝日を制定するよう議会に共同決議を要請し、この祝日を恒久化させました。


ちなみに、スペインやイタリアなどのカトリック諸国では、聖ヨセフの祭日である3月19日が父の日に当たります。こちらの日の方が、確かにカトリック的ですが、宗教宗派問わずに祝われる6月の「父の日」も素敵な日です。普段は家庭では、お母さんよりは目立たないかもしれないけど、縁の下の力持ちとして、家族を支え、守っている父親…それこそ、聖ヨセフの姿を父親の中に見出すことが出来ます。せめて「父の日」には、「ありがとう!」って素直に言いたいですね。


いつも頑張っているお父さんたちが、素敵な「父の日」を迎えられますように。

今後も、皆さんのお祈りとご支援をお願い致します。


ヤコブ・イグナチオ 幸 真宏

News Letter 5月号

      ファティマの聖母行列

ファティマでの思い出

 読者の皆さん、こんにちは!

5月と言えば、バラの花がきれいに咲き始める月です。友だちの家のバラの写真を見て、「もうそんな季節か~」としみじみ感じました。カトリック教会では、5月を聖母月として過ごします。なぜ、5月なのかというと諸説あるそうで…美しい少女を5月の「メイ・クイーン」として選んでいた習慣が、「いちばん美しい女性は聖母じゃ!」ということでなった「メイ・クイーン説」、もしくは、「5月は新緑が美しく、色とりどりの花々が咲き乱れる季節だから、こんな月こそ聖母にふさわしい!」という「新緑と開花説」。どちらにせよ、マリア様と言えば「美しい!」、「キレイ!」、「お母さん!」というようなイメージを宗教宗派問わず皆さん持っていると思います。


わたしが、神学生の時に出会った「ファティマの聖母」も本当にきれいなマリア様でした。神学校の兄弟たちと一緒に、ポルトガルのファティマまで巡礼に行きました。神学校からは、ワゴン車で一日かかりました。到着した時には、すでに夕方でしたが、多くの巡礼者がファティマの教会に集まっていました。訪問した日は、マリア様がファティマで3人の牧童に現れてから、ちょうど100年経っていました。それから、ファティマは大きな聖堂が建ち、毎年世界中から多くの巡礼者がここを訪れています。一番の思い出は、夜のロザリオ。午後9時半に教会に集まり、ロザリオの祈りを唱えます。それも、各国の言葉で! ポルトガル語から始まり、英語、スペイン語、フランス語、スワヒリ語、ベトナム語、中国語、そして日本語も…言葉や文化は違っても、同じ中身の祈りを一緒に祈れるって不思議な感覚でした。その後、聖母像を担いで、聖母行列が行われました。暗い夜の広場を、聖母像を先頭に、何百人もの人がろうそくを片手に行進し、マリア様の聖歌を「アヴェ♪アヴェ♪アヴェ、マリア~♪」とうたう光景にはいたく感動させられました。次の日、友だちへのお土産も忘れずに(笑)、ファティマを後にしました。


 そいうえば、カトリック幼稚園の行事の「マリア祭」でも聖母行列があるみたいです。今月、初めての参加ですが、今からでも楽しみです^^ 

マリア様をもっと笑顔にできるような、聖母月にしていきたいと思います。

 これからも、皆さんのお祈りとご支援をよろしくお願いいたします。

ヤコブ・イグナチオ 幸 真宏

News Letter 3月号

キエフ近郊のヴィーシュホロド市で、壕の中で人々と共にミサを捧げるマクシム・リヤブカ神父(サレジオ会)

平和を求めて

 

 ついにウクライナとロシアとの間で、戦争が始まってしまいました。報道によれば、ここ6日間で、875.000人ものウクライナ人が隣国での避難生活を余儀なくされているそうです。教会関係のニュースでは、東方カトリック教会の信者たちが、天井の低い防空壕の中で、ミサを捧げている(左の写真)記事を読みました。ロシアもロシア正教会の信者が多くいますが、同じキリスト教徒たちが、銃を取り、互いに殺しあっている。とても悲しい現実です。

 詩人の相田みつをさんの言葉にこんなのがあります。

 

どんな理屈をつけても

戦争は いやだな

肉親二人

わたしは戦争で失っているから

出典:『いちずに一本道 いちずに一ッ事

 

 戦争をする側には、戦争が必要だと説く論理があるのかもしれません。ですが、家族を失った人の言葉こそが、戦争の真実を物語っているのだと思います。戦争で得るものは少なく、失うものの方がはるかに多いのです。戦争を止めるには、武装を解除しなければ平和への対話は始まりません。ましてや、「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか(…)真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。(教皇フランシスコ)。

 全世界のカトリック教会では、3月2日の灰の水曜日から()(じゅん)(せつ)(主キリストのご復活を準備するための40日間)が始まりました。教会では、この期間中、祈り・節制・愛の業につとめ、カリタスジャパンが行っているように「愛の献金」という貧しい人々への援助なども行われます。

一刻も早い停戦と平和を願って、アッシジの聖フランシスコによる平和を求める祈りを、このニュースレターをいつも読んでくださっている皆さんと心を合わせて祈りたいと思います。

 

平和を求める祈り

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を、

いさかいのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、

疑惑のあるところに信仰を、

誤っているところに真理を、

絶望のあるところに希望を、

闇に光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、

自分を捨てて死に、

永遠のいのちをいただくのですから。

 

 これからも、皆さんのお祈りとご支援をよろしくお願いいたします

 

ヤコブ・イグナチオ 幸真宏

 


 

 
1
4
1
8
9
6
TOPへ戻る