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神学生ニュースレター【10/16更新‼】

神学科一年 山頭 牧夫

神学生ニュースレター 10月号

 秋はいつやってくるのか?不安になりつつある今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか?ロザリオの月であるこの時は、マリア様のことに思いを馳せるにはとても良い機会であると思います。ちなみにロザリオは、元の言葉がバラの冠を意味するとのことです。
 バラの花の輪で冠を造っていく、この行為は一見すると非常に美しい行為に見えます。事実、美しさもあるのでしょうが、バラは花だけではありません。鋭いトゲを持っています。トゲがあるならば、バラの冠を編んでいく事は、時に痛みを伴うと考えられるでしょう。ロザリオと共に、私たちは苦しみを伴う行いが果たせるように神様に祈りをささげているのではないでしょうか?
 思えば、マリア様も痛みや苦しみを捧げられました。イエス様の母となることの戸惑いがあったでしょう。そして、先生と呼ばれ尊敬を集めていたはずのイエス様が、犯罪人として捕まります。イエス様が十字架にかけられたときにはそのそばに立って、ずっと耐えておられました。すべてを受け入れられたマリア様だからこそ、私たちは祈りの取次をマリア様に願うのではないでしょうか。痛みと苦しみをささげる事によって出来た花の輪は、とても美しい実りと言えるでしょう。
 話は変わりますが、この季節は実りの時期とも呼ばれます。私が司牧実習で通う教会でも先日、堅信式という大きな実りがありました。私と共に学んだ計14名が受堅し、大きな喜びのうちに式を終えることができました。
 初めて堅信クラスを受け持ったのですが、足りない所ばかりの私の指導に良くついてきてくれたように思います。感謝するとともに、彼らの歩みはこれから始まっていく事に注目する必要があるでしょう。学びを深めていくとともに、大人の信者としての実践を、一生涯を通して行っていくのです。
 これらの実りを、マリア様を通して神様に感謝したく思います。まだ、彼らに関わっていく機会がありますので、その中でこれから何をしていく必要があるのかを共に考えていきたく思います。簡単な道のりではありませんが、イエス様がその道の中で同伴してくれることを確信して歩みを続けていけるよう伝えたいです。
 皆様のお祈りとご支援をどうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

助祭 幸真宏

聖アウグスティヌスの生涯を通して

皆様、こんにちは。もうそろそろ8月も終わろうとしていますが、いかがお過ごしでしょうか?
それにしても、異常気象と未だ収束されない新型コロナウイルス、そしてアフガニスタンの新政権…8月はいろいろなことが世界で起こりました。「世も末か」と思うこともあるでしょう。同時に人間の力の限界も感じさせられます。そのような時に、神様は世界に聖人を送ってくださいます。
 
聖アウグスチヌスの生涯
4世紀ごろ、ローマ帝国の末期にアウグスチヌスは生まれました。母は聖モニカで熱心な信者でした。彼は若いころから秀才で、文法学・論理学を学びました。ですが、母の思うようにキリスト教徒にはならず、当時流行していたマニ教の門をたたきました。ですが、マニ教の教えは彼の真理への探究心を満足させるものではありませんでした。その後、キケローの著作を通じて哲学を学び始めました。哲学を通じて、キリスト教の教えに徐々に近づいていきました。
384年ごろ、ミラノで論理学の教師として働いていたところに母のモニカが訪れました。未だ洗礼を受けない息子をとても心配していたことでしょう。ミラノの司教である聖アンブロジウスはモニカの相談を受け、「安心して行きなさい。涙の子は決して滅びることはない。」といって慰めました。彼女の祈りはすぐに届きました。386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「とって読め」という声を聞き、近くにあった聖パウロの書簡「ローマの信徒への手紙」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心し、聖アンブロジウスから洗礼を受けました。満足したモニカは同じ年に没しました。
母の死後、アウグスチヌスは仲間たちと修道生活を送り、395年には司教として選出されました。この頃から、膨大な哲学・神学の著作を書き始めました。特に『告白』は最も有名な本で、現在でも宗教を問わず、多くの人に読まれています。
西ローマ帝国滅亡寸前の430年に、アウグスチヌスは息を引き取りました。8月28日が彼の祝日です。
 
聖人になるとは?
 聖アウグスチヌスの時代は、西ローマ帝国に異民族が侵攻し、人々は不安と混乱、死に直面していました。今を生きる私たちも、同じように日々の悩みの種に振り回されていることでしょう。私たちは、そのような時であっても、誰であっても聖アウグスチヌスのように聖人になることができます。聖人になるとは、「自分自身の最高のものを与えること」であり、同時に、「すべてをなさるのは、結局のところ、神である」と常に認識することです。聖人は何でも完全にやってのける人ではなく、神への信頼のうちに、神のみ旨が自分の生活の中で働くようにする人のことです。
 
 助祭叙階式まで一か月をきりました。叙階に向けてしっかりと準備を進められますように、皆様のお祈りをお願いいたします。

神学科一年 山頭 牧夫

メッセージレター「父と母へ」後編

 まず最初に、大雨により被災された方々へのお祈りをさせて頂きます。そして、それとは別のことで苦しまれている方、苦しむ方を支えている人々にお祈りをさせて頂きます。
 昨年の大分の天ヶ瀬に端を発する水害のことを思い出しました。微力ですが、ボランティアに行った先のホテルは大きな損害を受けていました。じゅうたんは泥がこびりついており、畳と床板は入れ替えが必要な状態になっていました。
 素人の目から見ても、この状態から再オープンまでには、大きなお金と時間が必要なことが見て取れました。作業が終わってホテルオーナーが、ボランティアスタッフに挨拶に来ておりました。被災して間もなかったので、気落ちしているのではないかと心配でしたが、その予想は間違っていました。力強い声で「このホテルは必ずもう一度オープンさせます。そのときには是非こちらに遊びに来てください。ボランティアに参加したことを伝えて頂ければ、お風呂で恩返しをさせて頂きます。営業再開を決してあきらめません。」
このように宣言されました。この力強い言葉を聴いて、何だか暖かい気持になったことを憶えています。そして、同時にこの諦めない態度と、行動に移っていく強さを見て、あるイメージが浮かびました。それは父のイメージです。
 神である父は、私たちの救いを諦めることはありませんでした。そして、最高の恵みである御子イエス・キリストを私たちに遣わされたのです。
 イエス様の父であり、教会の保護者であるヨセフ様は、難しい状況の中でも行動されました。夢の中で神様の声を聴いてすぐに、聖家族を守るためにエジプトに向かわれます。
 私たちの教会を支える神父様方がいます。教会に集まる皆様と、イエス・キリストの橋渡しをするために日夜、働かれています。
 皆さんの住んでいる所に、家を支える大黒柱があります。皆さんを支えるために、たとえ辛いことがあっても働き続ける姿があります。歯を食いしばって、これまでも、そしてこれからも支え続けるお父さんがいます。
 わたしたちを支え続ける、すべての方に感謝しながら生きていきたく思います。
「いつも、ありがとうございます!」

金 建

6/13(日) 年間第11主日 マルコ福音書4章26-34節について 

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土にくときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:30-32

                             
 イエス様は「からしの種」を「神の国」にたとえ、聞かせてくださいました。神様は毎回、毎日、いつも、永遠に私たちと繋がっていらっしゃいます。私たちは、自分の日常は平凡で代わり映えのしない日常だと思うかもしれませんが、その中でも神様は美しい愛として近づいて来られます。私たちはその愛に、信仰をもって応えなければなりません。しかし、愚かな私たちは、神様を仰ぎ見るのではなく、世俗的な誘惑のみを見てしまいます。世界の全てのものを抱いている神様を感じず、自分の欲と利己心を満たすものだけを慕っているのです。
 
 蒔かれた種が自分で育って実を結ぶように、私たちが感じる前に神の国は私たちに近づいているのですし、近づいたのです。いつも神様は私たちと一緒にいらっしゃいます。
 からしの種というのは、小さすぎて些細なものに見えるのですが、時間が経つと、鳥が巣を作り、子鳥を育むことができるほど大きな木になります。このように、小さくて些細なことしかないと思われる私たちの日常の中に、私たちが到達すべき神の国がすでに完成されているということを伝えるたとえ話だと思います。
 
 神の国に入るためにはどうやって進めばよいでしょうか。「いつかは私の順番が来るはずだ」と思いながら漠然と待っているだけ。そういう甘い考え方は良くないです。
 今、つまり現在、毎瞬間、神の愛を受けているすべての時、神から授けられた愛に報いる気持ちで、私たちと繋がっている周りの人すべてと愛をもって関わりながら、神の国を建ていかなければなりません。(頭では分かっていても、実践していない僕ですが)実践せずに「次にやろう」という考えだと、これ以上ないほどの大きな後悔のみが残されるでしょう。
 
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