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神学生ニュースレター【7/1更新‼】

神学科二年 山頭牧夫

メッセージレター7月号

 あっという間に梅雨も明け、太陽が我が物顔で照り付ける中、いかがお過ごしでしょうか?神学校では、草むしりをした場所が一週間後には草が元通りになっております。本当に生命とはたくましいものですね…

 また、この季節になると、恐ろしい太陽とともに、学期末の試験もやってきます。皆様の応援を受けて、どうにか準備を進めている所です。様々なかたちでのご支援、本当に有難うございます。いつも力づけられております。

 さて、1年もその半分を折り返しております。それは言い換えをするならば7月になったと言いかえることも出来るでしょう。私も大分のメンバーの端くれですので、71日に祝われるキリスト者が居ることを知っています。ペトロ岐部と187殉教者です。この大分を代表する殉教者を祝う日と、大分の司教叙階式の開催日が近い事に何かのメッセージを感じずにはいられませんでした。

 皆さまもご存じのとおり、ペトロ岐部は日本人として初めてエルサレムを訪問してローマに向かいました。その目的は司祭になるためであり、司祭になって日本に向かうためでした。当時の日本では、キリスト教の禁教令が出されております。そんな日本に帰るのは、死の危険を覚悟する必要がありました。

 それでもペトロ岐部は日本に行くことを辞めませんでした。日本で待つキリスト者の為、日本で生きる人たちの救いのために彼は歩みを止めなかったのです。自分だけが救われるのではなく、キリストが行ったように、助けの手を必要とする人の所にペトロ岐部は向かったのです。

 司教叙階式を迎える、迎えた私たちには何が求められているのでしょうか?問題は誰かが解決してくれるだろうから、人に任せておけば良いのでしょうか?そうではないと思うのです。信仰の諸先輩方、そしてキリストに倣って、新しい司教様と共に大分教区を支えていくことが出来ますように。小さなことからでも、自分の役目を知ることが出来ますように。皆様方のお祈りとご支援にいつも感謝申し上げます。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

 

メッセージレター6月号

 大分教区 ニュースレター 6月号

 

 段々と日差しの強さを感じるこの頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか?こちらはスータンの生地が厚いのか、私自身の生地が厚いのか良くわかりませんが、汗ばみながら奉仕を学ばせていただいているところです。それほど大きくない問題と取り組んでいたりしてはおりますが、皆さまの支えのおかげで変わりなく過ごすことができております。いつも、霊的・物的にお世話になっております。本当にありがとうございます。

 つい先日、携帯電話の連絡を開いてみると、森山被選司教様が大分でミサを捧げられたとの事でした。侍者の奉仕をされた方によると、とても気さくに話しかけてくださり、ミサの雰囲気もとても良かったと喜んでいる様子でした。新しい司教様が来てくださること

の実感が湧き、そして、ミサの様子を聞いて私も嬉しくなってしまいました。このことは喜びであると言えるのではないでしょうか。

 話しは変わるのですが、『喜び』について少し不思議なことが書かれていたみことばがあったので、皆様と分かち合えたらと思います。日曜の福音の中でこのような箇所がありました。「イエス様が天に上げられて、弟子たちは伏し拝んだ後に、大喜びでエルサレムに帰り、神殿で神をほめたたえた。」

 イエス様が去っていかれたのに、弟子たちは特に悲しんでいる様子はありません。それどころか喜びのうちに次の行動に移っていったようです。悲しくはなかったのでしょうか?それとも復活したイエス様の事を恐れていたのでしょうか?どうも、どちらも違っていたようです。では喜んでいたのは一体何が原因だったのでしょうか?

 知り合いの保育士さんに教えてもらったことなのですが、小さな子どもは最初自分の親の周りを離れることをしません。親が見えなくなると不安で泣いてしまいます。だんだん大きくなると、親の見ている前で遊ぶようになります。そして、最後には親の見ていない所にも行くことが出来るようになります。子どもは成長することによって、不安を感じずに親を離れて行動できるようになるとの事でした。

 イエス様の事を裏切ってしまった弟子たち、家に隠れて、閉じこもっていた弟子たちについても同じことが言えるのではないでしょうか?彼らも神様から変えられ、成長していったのです。おびえていたはずの彼らは、神様のみ旨を喜んで行うことが出来るようになりました。

イエス様が復活されたこと、そしてパンの形になり自分の中に来てくださることを知りました。

 つまり、不安になる必要が無くなったのでしょう。神様に信頼を置くことで、自分の果たすべきことに取り掛かることが出来たのです。弟子たちはそれを喜びと感じ、エルサレムに帰っていきました。私は大きな能力があるわけではありませんが、神様からの召命を信頼して、自分の務めを果たしたく思います。まずは司教様の叙階式の準備をされている皆様のお手伝いをしたく思います。それでは喜びの場でお会いしましょう!

幸 真宏 助祭

News Letter 6月号

    聖ヨセフと幼子イエス

Happy Father's Day!!


読者の皆さん、こんにちは。一か月ぶりです(^^)

気温も夏らしくなってきました。だんだん蒸し熱くなって、プールと海に飛び込みたい時期になって参りました。私が小さかった頃、よく家族と田ノ浦ビーチや市営温水プールなどに行ったものです。いつも、父が車を運転して連れて行ってくれました。あの頃は、「ありがとう」の言葉一つも言わなかった気がしますが…何事も「当たり前」のようになってしまうと、感謝の念が薄れてしまうものです。その日々の感謝を忘れないためにも、今月19日の「父の日」は大事な日なんだなと思います。


「父の日」の発案者は、アメリカのジョン・ブルース・ドッド夫人(ソノラ・スマート・ドッド)です。1909年、母の日についての講話を聞いていたとき、父の日も祝うアイデアが彼女の頭に浮かびました。彼女の実父であるウィリアム・ジャクソン・スマートは、若くして妻を亡くした後、ドッド夫人と彼女の5人の兄弟を育てあげました。ワシントン州東部の農場で、この父親が払った英雄的な犠牲は、世界中の父親の知られざる行いを思い起こさせるものでした。ドッド夫人のアイデアは、教会でも認められ、YMCA(キリスト教青年会、キリスト教主義に立ち、教育・スポーツ・福祉・文化などの分野で様々な事業を展開する、150年以上の歴史を持つ世界的な組織)でも宣伝されました。「Y.M.C.A」といえば、日本では西城秀樹の「YOUNG MAN」が有名ですね(笑)。そして、1924年には、この習慣は全米に広がり、カルヴィン・クーリッジが父の日を支持する最初の大統領宣言を行いました。それから約50年後の1972年、ニクソン大統領は、6月の第3日曜日を「National Day of Observance」として、世界中の父親を称える祝日を制定するよう議会に共同決議を要請し、この祝日を恒久化させました。


ちなみに、スペインやイタリアなどのカトリック諸国では、聖ヨセフの祭日である3月19日が父の日に当たります。こちらの日の方が、確かにカトリック的ですが、宗教宗派問わずに祝われる6月の「父の日」も素敵な日です。普段は家庭では、お母さんよりは目立たないかもしれないけど、縁の下の力持ちとして、家族を支え、守っている父親…それこそ、聖ヨセフの姿を父親の中に見出すことが出来ます。せめて「父の日」には、「ありがとう!」って素直に言いたいですね。


いつも頑張っているお父さんたちが、素敵な「父の日」を迎えられますように。

今後も、皆さんのお祈りとご支援をお願い致します。


ヤコブ・イグナチオ 幸 真宏

News Letter 5月号

      ファティマの聖母行列

ファティマでの思い出

 読者の皆さん、こんにちは!

5月と言えば、バラの花がきれいに咲き始める月です。友だちの家のバラの写真を見て、「もうそんな季節か~」としみじみ感じました。カトリック教会では、5月を聖母月として過ごします。なぜ、5月なのかというと諸説あるそうで…美しい少女を5月の「メイ・クイーン」として選んでいた習慣が、「いちばん美しい女性は聖母じゃ!」ということでなった「メイ・クイーン説」、もしくは、「5月は新緑が美しく、色とりどりの花々が咲き乱れる季節だから、こんな月こそ聖母にふさわしい!」という「新緑と開花説」。どちらにせよ、マリア様と言えば「美しい!」、「キレイ!」、「お母さん!」というようなイメージを宗教宗派問わず皆さん持っていると思います。


わたしが、神学生の時に出会った「ファティマの聖母」も本当にきれいなマリア様でした。神学校の兄弟たちと一緒に、ポルトガルのファティマまで巡礼に行きました。神学校からは、ワゴン車で一日かかりました。到着した時には、すでに夕方でしたが、多くの巡礼者がファティマの教会に集まっていました。訪問した日は、マリア様がファティマで3人の牧童に現れてから、ちょうど100年経っていました。それから、ファティマは大きな聖堂が建ち、毎年世界中から多くの巡礼者がここを訪れています。一番の思い出は、夜のロザリオ。午後9時半に教会に集まり、ロザリオの祈りを唱えます。それも、各国の言葉で! ポルトガル語から始まり、英語、スペイン語、フランス語、スワヒリ語、ベトナム語、中国語、そして日本語も…言葉や文化は違っても、同じ中身の祈りを一緒に祈れるって不思議な感覚でした。その後、聖母像を担いで、聖母行列が行われました。暗い夜の広場を、聖母像を先頭に、何百人もの人がろうそくを片手に行進し、マリア様の聖歌を「アヴェ♪アヴェ♪アヴェ、マリア~♪」とうたう光景にはいたく感動させられました。次の日、友だちへのお土産も忘れずに(笑)、ファティマを後にしました。


 そいうえば、カトリック幼稚園の行事の「マリア祭」でも聖母行列があるみたいです。今月、初めての参加ですが、今からでも楽しみです^^ 

マリア様をもっと笑顔にできるような、聖母月にしていきたいと思います。

 これからも、皆さんのお祈りとご支援をよろしくお願いいたします。

ヤコブ・イグナチオ 幸 真宏

News Letter 3月号

キエフ近郊のヴィーシュホロド市で、壕の中で人々と共にミサを捧げるマクシム・リヤブカ神父(サレジオ会)

平和を求めて

 

 ついにウクライナとロシアとの間で、戦争が始まってしまいました。報道によれば、ここ6日間で、875.000人ものウクライナ人が隣国での避難生活を余儀なくされているそうです。教会関係のニュースでは、東方カトリック教会の信者たちが、天井の低い防空壕の中で、ミサを捧げている(左の写真)記事を読みました。ロシアもロシア正教会の信者が多くいますが、同じキリスト教徒たちが、銃を取り、互いに殺しあっている。とても悲しい現実です。

 詩人の相田みつをさんの言葉にこんなのがあります。

 

どんな理屈をつけても

戦争は いやだな

肉親二人

わたしは戦争で失っているから

出典:『いちずに一本道 いちずに一ッ事

 

 戦争をする側には、戦争が必要だと説く論理があるのかもしれません。ですが、家族を失った人の言葉こそが、戦争の真実を物語っているのだと思います。戦争で得るものは少なく、失うものの方がはるかに多いのです。戦争を止めるには、武装を解除しなければ平和への対話は始まりません。ましてや、「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか(…)真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。(教皇フランシスコ)。

 全世界のカトリック教会では、3月2日の灰の水曜日から()(じゅん)(せつ)(主キリストのご復活を準備するための40日間)が始まりました。教会では、この期間中、祈り・節制・愛の業につとめ、カリタスジャパンが行っているように「愛の献金」という貧しい人々への援助なども行われます。

一刻も早い停戦と平和を願って、アッシジの聖フランシスコによる平和を求める祈りを、このニュースレターをいつも読んでくださっている皆さんと心を合わせて祈りたいと思います。

 

平和を求める祈り

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を、

いさかいのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、

疑惑のあるところに信仰を、

誤っているところに真理を、

絶望のあるところに希望を、

闇に光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、

自分を捨てて死に、

永遠のいのちをいただくのですから。

 

 これからも、皆さんのお祈りとご支援をよろしくお願いいたします

 

ヤコブ・イグナチオ 幸真宏

 


 

神学科一年 金 建

ニュースレター6月号

イエス様の愛 

数年前でした。YouTubeで「愛とは何ですか」という質問に幼稚園の子どもたちが答えるという内容の動画を見たことがあります。

ある子どもは、答えました。「愛というのは、毎朝、うちの子犬が私の顔を舐めながら起こしてくれることです」。

ある子どもは、答えました。「愛というのは、トンボやチョウを見つけても取らずに、握らずに、ただ見ているだけです」。

ある子どもは、答えました。「愛というのは、ママがパパのネクタイをキレイにしめてくれることです」。

ある子どもは、答えました。「愛というのは、私が一番大好きないちご味のアメを友だちに半分、いや、全部あげることです」。

子どもならではの、大人なら絶対に出てこない、とても純粋(じゅんすい)で可愛い答えだと思います。私は「愛というのは何ですか」という質問で、すぐ答えられなかったことがあります。この動画を見て、その時の自分が思い出され、恥ずかしく感じました。

私たちはいつもイエス様から愛されています。そして、それを日常生活の中で、いつでもどこでも感じられるのです。では、皆様は、いつイエス様から愛されていると感じますか。一度、考えてみてください。難しいことではないと思います。

私にとっては、全然進まない教話(お話)の準備が突然うまく展開し、さっと書きあげられたりするときです。私は書くことが苦手で、教話を書くためには、何時間どころか、何日間もかかります。けれども、聖堂に入って、きちんと祈って、黙想したら…時々本当に、噓のように順調に書くことができます。自分が書いているというよりも、イエス様が書いてくださっている感じです。私が考えたこと、私が伝えたかったことをイエス様がきれいにまとめてくださっているような感覚です。韓国語で書いても、これ以上うまくは書けないと思われるほどです。

私に無限に与えられているイエス様の色々な愛の中で、一つのことを皆様に申し上げました。これは、私にとっては、とても大きなイエス様から愛なのです。今、司祭への道を進んでいる私に、イエス様のみことばを、教話をとおして皆様によく伝えられること、これに越したことはありません。これこそ愛であり、恵みであり、賜物なのです。

愛というのは何ですか。特にイエス様の愛とは何ですか。百人(ひゃくにん)なら百個の答え、千人(せんにん)なら千個の答えが出るでしょう。一つだけの正解というものはありませんが、私が愛について自分なりに自信をもって言えるとしたら、愛というのは、「いつでも人のために、そして、互いに、よいものを差し出すこと、分かち合うこと、施すこと」だと言えると思います。これこそ、イエス様がすでに私たちに与えてくださった愛ですし、今はもちろんのこと、永遠に続く愛なのです。そして、イエス様に従っている私たちはイエス様のように愛し合いながら生きることができます。そう生きるべきなのです。

私たちはイエス様を愛しています。それゆえ、今日の福音のように、私たちはイエス様のみことばを守りながら生きることができます。そんな私たちをイエス様は、もっと大きく愛してくださいます。そして、共におられます。

先ほどの話の中で、「愛というのは、私が大好きなイチゴ味のアメを友だちに半分、いや、全部あげることです」と答えた子どもがいました。その子どもの答えは次のように続いています。「…愛というのは、アメをあげた友達に『私がアメをあげたから、私にも一つちょうだい』と言わないことです。むしろ、私がアメを一つあげた友だちに明日(あした)には二つ、明後日(あさって)には三つと、もっとあげることです。私はその友だちを愛しているからです」と言いました。

イエス様の愛を誰よりも理解し、実践している子だと思いました。これこそ、イエス様が私たちのため、無限に与えてくださった愛だと言えるのではないでしょうか。そして、愛されているからこのような答えができると思います。

もう一度申し上げます。私たちはいつもイエス様から愛されている存在です。それを忘れずに、今日も、愛そのものであるイエス様の復活の神秘を賛歌しながら、共に歩んで行きましょう。

ニュースレター5月号

ご聖体のイエス様を味わう

金 建 

5年前、私が日本に来たばかりの時の話です。まだ寒かった2月のある日、韓国語のミサに与るため初めて別府教会に行きました。別府教会は聞いていた以上に美しい教会でした。聖堂の美しさにとてもよい気持ちで楽しみながらミサに与っていました。そしてご聖体拝領が始まり、ご聖体を舌で受けた瞬間、私の人生で最も美味しいご聖体を味わいました。隠喩的や抽象的な表現ではなく、文字通り、本当に美味しかったということです。何が入っているからこんなに美味しいのか、他の材料を付け加えたのか、いや、そもそもホスチア(聖体)を作るとしたら、入れられる物は決まっているのではないか、では、作り方が違うのか、など、色々気になることが生じました。ご聖体の味についての新しい発見をした日でした。

最近の話に戻ります。皆様がよくご存知のように私は去年、秋が始まって冬が終わる頃まで約半年間、トラピスト修道院で神父様、修道士の皆さま様と一緒に生活しました(迷惑をかけ、お世話になりました)。そこで私の主な役割は草刈りと聖体のためのパンの選別でした。そうです。5年前に初めて感じた味のそのご聖体のパンはここトラピストで作られていたのです。ご聖体のためのパンを自分の手で選別するとは面白い経験であり、神様の恵みでした。そして、トラピストのご聖体のようのパンが美味しかった理由も分かりました。イエス様に導かれ、繰り返し繰り返し焼いいていた修道士様の真心が入っていたからでした。

イエス様の体を象徴するこのご聖体になるパンを選別する作業はとても聖なることでした。ご聖体は我々の体を通して入ります。つまり、受け入れる行為それ自体がイエス様と交わるということになります。そのパンは、特に真心をこめて作り、選び出さねばなりません。それゆえ、いつも祈りを唱えながら臨んでいる修道士様のように、私も心で主の祈りや聖母マリアの祈り、そして、隣人と皆のための願望の祈りを沈黙の中で真剣に唱えながら、イエス様に近づく気持ちで真面目に臨みました。我々を愛してくださるイエス様の無限の愛を、私のつまらない手を通して少しでも伝えることができれば、これにこした幸せなことではないだろうと思いました。

その当時の聖体のためのパン選別という仕事のおかげで、今の私が召命の道により前向きに歩んで行くきっかけになりました。私たちは舌で味わうご聖体のパンを通して、共におられるイエス様を味わうことができます。

 
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