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みことばの説教と解説

みことばを生きる

復活節第四主日ミサの説教(2020.05.03)
2020-05-01
主日の公開ミサは中止が継続されています。今後、主日ミサの説教を掲載していきたいと思います。ミサに与れないときこそ神のみことばにいかされますように。
 
A年復活節第4主日
イエス様が、「羊の囲い」のたとえをファリサイ派の人たちに語られたのには分けがあります。それは、こういうことです。お手元に聖書あれば、ヨハネ福音書9章をご覧ください。
イエス様は生まれつきの盲人の目を開かれましたが、その日が安息日だったので、ファリサイ派の人々が調査に入りました。彼らは、盲人であった人を二度にわたって呼び出しましたが、最終的には、彼を外に追い出しました。盲人であった人が、イエス様は神のもとから来られた方だと主張したからです。ファリサイ派の人々は彼を追い出す時、こう言いました。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか。」(9章34節)
今でも時折、災難や災害があると、「それは天罰だ」と言う人がいます。当時も、不幸は罪の結果だと考えられていました。しかし、イエス様は違います。弟子たちが盲人を見て「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)と問うたのに対して、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである。」(3節)と答えられ、不幸は罪の結果だ、という考え方を完全に否定されました。
イエス様が盲人を癒されたのに対して、ファリサイ派の人々は盲人であった人を侮辱し、追い出しました。ファリサイ派の人々から追い出されるということは、ユダヤ人社会の中で生きていくのが難しくなることを意味しています。なぜなら、もし誰かが追い出された人と親しくしようものなら、その人も目を付けられることになるからです。実際に、盲人であった人の両親も、息子と距離を取らざるを得ませんでした。
しかし、イエス様は追い出された彼に会いに行きました。そこには、ファリサイ派の人々もおり、彼らが口をはさんできました。それでイエス様が語られたのが、今日の福音です。目が見えなかった人の側に立ち、「追い出すとは何事か。」と言わんばかりの、イエス様の怒りにも似た思いが今日の福音には込められているのです。
しかし、ファリサイ派の人々は、「羊の囲いのたとえ」が何のことか分かりませんでした。そこで、イエス様はさらに踏み込んで言われます。「わたし門である。わたしを通って入る者は救われる」(10章9節)と。これは、ファリサイ派の人々が盲人であった人を罵って言い放った、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。」(9章28節)ということばに対するイエス様の答えです。「わたしを認めない者は、モーセの弟子ですらあり得ない。」という主張です。イエス様は、かつてユダヤ人にこう言われたことがありました。「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。」(5章 46節)
イエス様はファリサイ派の人々に向かって語っていますが、そこにはずっと盲人であった人もいました。ファリサイ派の人々からひどい言葉でののしられ、追い出された彼は、自分の目の前でファリサイ派の人々にはっきりと語られるイエス様の姿に、どんなに慰められ、力づけたれたことでしょう。そのことを念頭において、「わたし来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(10章10節)ということばを味わう時、イエス様の愛の大きさ、深さが、圧倒的な力でわたしたちに迫ってきます。
見えるようになった盲人の目で、語っておられるイエス様のお姿を眺め、その声に耳を傾けながら、もう一度、今日の福音を読み返してみてください。そして、そのイエス様を身近に感じながら、日々を過ごすようにいたしましょう。
 
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